第42話 選択肢(2)
嫌な沈黙だった。
今までにも何度も危険な目には遭ってきたし、影に追われたこともあれば観測装置と対峙したこともあり、人格そのものを奪われそうになったことだって一度や二度ではなかったのだが、それでも今この場に流れている空気はそれらとは明らかに種類が違っていて、目の前にあるものが暴力でも破壊でもなく、もっと厄介で、もっと人間を追い詰める何かであることだけは誰にも理解できていた。
選択だ。
しかも。
絶対に選びたくない種類の。
観測者の無数の赤い目が暗闇の中で静かに明滅しながら、まるで何千年もの時間を掛けてようやく見つけた実験対象の返答を待つ研究者のように、ただひたすら僕を見つめ続けている。
いや。
待っているという表現すら正しくないのかもしれない。
あれは確信しているのだ。
人間を観測し続けてきた結果として、最終的には自分の求める答えに辿り着くと。
だからこそ。
あの目には焦りも期待もない。
ただ結果を待つだけの静けさがあった。
「……断る」
僕は即答した。
考えるまでもなかった。
いや。
むしろ考えたくなかった。
「嫌だ」
短い返答だったが、それ以上の説明をする気にもなれなかった。
――理由。
観測者は淡々と問い返す。
「理由も何もないだろ」
僕は思わず顔をしかめた。
「どうせろくでもない話だからだ」
――否定。
返事が早過ぎる。
だから信用できない。
そもそも今までの経験上、この手の存在が『大丈夫です』と言った時に本当に大丈夫だった試しがない。
すると。
隣でアークが深く溜息を吐いた。
それは呆れたというよりも、どこか懐かしい失敗談を思い出した人間の反応に近かった。
「成長しているな」
「何がですか」
「昔の私はそこで聞いた」
嫌な予感しかしなかった。
そして。
その予感は裏切られない。
「聞いた結果が今なんですか?」
「今がその結果だ」
アークは真顔で答えた。
全く嬉しくない情報だった。
エルザさんが額を押さえる。
「だから聞いちゃ駄目だって言ってるのに」
「でも気になるじゃないですか」
「気になるけど駄目」
「理屈になってない」
「経験則」
反論できなかった。
実際に失敗した本人が言っているのだから説得力だけは異常に高い。
その時。
観測者が再び口を開いた。
――拒否を確認。
――よって条件を追加。
「追加するな」
思わず即座に突っ込む。
しかし観測者は全く気にした様子もなく、そもそも人間の抗議という概念自体を重要視していないのか、そのまま機械的な声で言葉を続けた。
――候補者。
——十文字隼人。
――君は世界を救うために一人を犠牲にできるか。
その瞬間。
空気が凍り付いた。
僕は反射的に顔をしかめる。
嫌な予感がした。
嫌というほど。
そして。
こういう時の予感は絶対に外れない。
観測者の赤い目がゆっくりと移動する。
僕ではない。
その視線は僕の肩を越え、そのまま後方へと滑るように進み。
そして。
エルザさんの上で止まった。
「……」
誰も喋らない。
喋れなかった。
エルザさんも。
のぞみも。
ひかりも。
アークですら。
誰もがその先を理解してしまったからだ。
観測者が何を言おうとしているのか。
何を提案しようとしているのか。
その全てを。
――対象。
――エルザ。
――彼女を消去することで。
――世界保存率は三十七パーセント向上する。
その言葉が響いた瞬間、まるで僕の頭の中で何かが切れたような感覚があった。
「ふざけるな」
自分でも驚くほど低い声だった。
怒鳴ったわけではない。
むしろ静かだった。
だからこそ。
余計に怒っていた。
観測者は構わず続ける。
――対象は特異点。
――観測妨害要因。
――予測誤差発生源。
――削除が最適解。
「黙れ」
――世界存続確率上昇。
――文明保存率上昇。
――人格保全率上昇。
――多数救済。
「黙れって言ってるだろ!」
怒鳴り声がトンネル全体に反響する。
しかし観測者は怒らない。
怒れない。
感情が存在しないからだ。
だから腹が立つ。
人間ならまだいい。
怒りも迷いも苦しみもあれば理解できる。
だがこいつは違う。
まるで天気予報でも読み上げるような口調で、人の命を数字へ変換し、損得勘定だけで切り捨てようとしている。
「隼人」
エルザさんが小さく呼ぶ。
けれど。
僕は止まれなかった。
「お前さ」
巨大な観測者を睨む。
意味なんてない。
大きさの差を考えれば蟻が山を睨むようなものだ。
それでも睨んだ。
「本当に分からないのか」
――質問内容を確認。
「何で皆が怒ってるのかだよ」
赤い目が静かに揺れる。
返事はない。
たぶん。
本当に分からないのだ。
だから僕は続ける。
「確率とか」
「保存率とか」
「成功率とか」
一つ一つ言葉を並べる。
「そんなものが大事なのは分かる」
「でもな」
拳を握る。
「だから誰かを消していい理由にはならないだろ」
静寂。
観測者は沈黙する。
「友達だから助けるんだ」
「大切だから助けるんだ」
「効率が悪くても」
「非合理でも」
「失敗する可能性があっても」
胸の奥から言葉が溢れてくる。
「それでも助けたいと思うから助けるんだろ」
長い沈黙。
そして。
観測者が初めて答えた。
――非合理。
「知ってる」
――非効率。
「知ってる」
――失敗率増加。
「それも知ってる」
全部知っている。
そんなことは最初から分かっている。
分かった上で。
それでも。
「だから何だ」
僕は言った。
「それで助けなくていい理由にはならない」
その瞬間だった。
観測者の無数の赤い目が。
一斉に停止する。
明滅が消える。
音が消える。
世界そのものが息を止めたかのような静寂が広がる。
「……え?」
のぞみが呟く。
ひかりも目を見開いている。
アークだけが静かに観測者を見上げながら、どこか懐かしいものを見るような顔で微笑んでいた。
「そうか」
小さく言う。
「ようやくそこまで来たか」
――記録照合。
観測者の声は今までよりも少し遅かった。
まるで自分自身の処理能力を使い切りながら考えているように。
――過去記録と一致。
赤い目が揺れる。
――管理者回答と一致。
アークが静かに目を閉じる。
疲れたように。
だが。
少しだけ救われたように。
そして。
観測者は続けた。
――理解不能。
長い沈黙。
――しかし。
その瞬間。
トンネル全体が微かに震えた。
攻撃ではない。
怒りでもない。
巨大な機械の最深部で、今まで一度も動かなかった歯車が初めて回転を始めたような感覚だった。
そして。
観測者は。
千三百年間答えばかりを求め続けてきた存在は。
初めて。
自らに向けて問いを発する。
――なぜ。
その一言を聞いた瞬間。
誰もが息を呑んだ。
それは単なる疑問ではない。
観測者という存在が初めて抱いた。
答えではなく。
問いだった。




