第41話 選択肢(1)
アークは静かに目を閉じたまま、しばらく何も言わなかった。
その沈黙は数秒だったはずなのに、不思議と何分も何時間も続いているように感じられ、誰も口を挟めないまま、ただ彼の次の言葉を待つことしかできなかった。
観測者の無数の赤い目は、その間もずっとアークだけを見つめ続けている。
敵を見る目ではなかった。
獲物を見る目でもない。
ましてや排除対象を見る目でもなかった。
もっと奇妙なものだった。
それはまるで、自分を捨てて去っていった親を探し続けていた子供が、ようやく再会した瞬間のような執着であり、何千年という時間を越えてなお消えることのなかった願望そのもののように見えた。
やがて。
アークはゆっくりと目を開く。
その瞳には怒りもなければ恐怖もなく、ただひどく疲れ切った人間だけが見せるような諦めに似た静けさが宿っていた。
「帰還か」
小さく呟く。
まるで昔の知人から届いた手紙でも読むような声音だった。
「君はまだ、その答えに拘っていたんだね」
――管理者。
観測者が応答する。
その声が響いた瞬間、周囲の空間が再び微かに軋み、遠近感も重力も曖昧になっていくが、不思議と先ほどほどの圧迫感はなかった。
今この場で行われているのは戦闘ではない。
対話だ。
それも。
千三百年という時間を隔ててようやく再開された対話だった。
――計画未完了。
――保存率不足。
――文明保全率不足。
――記録欠損率増加。
――帰還を要求。
その声を聞いているうちに、僕は妙な違和感を覚え始めていた。
観測者は恐ろしい。
危険だ。
実際に何万人、何十万人もの人格を奪ってきたのかもしれない。
だが。
今の言葉には悪意がなかった。
そこにあるのは使命感だけだった。
だからこそ気味が悪い。
悪意がないまま世界を壊せる存在ほど恐ろしいものはない。
「だから失敗したんだよ」
アークが静かに言った。
その言葉に。
観測者の赤い目がわずかに揺れる。
「私は君を作った時、一つだけ勘違いしていた」
白い翼がゆっくりと広がる。
その光は戦うためではなく、遠い記憶を照らし出すための灯火のようだった。
「記録を残せば救えると思っていた」
アークは苦く笑う。
「文明も」
「歴史も」
「人も」
「全部」
静かな声だった。
だが。
その言葉の重みは計り知れなかった。
「だけど違った」
長い沈黙。
そして。
「残された記録は本人じゃない」
その瞬間。
エルザさんが小さく目を見開いた。
アークは続ける。
「どれだけ正確でも」
「どれだけ完全でも」
「どれだけ膨大でも」
視線を観測者へ向ける。
「記録は記録だ」
赤い目が揺れる。
まるで理解できないと言うように。
あるいは。
理解したくないと言うように。
――否定。
観測者が告げる。
――保存は継続。
――記録は存在。
――存在は維持。
――よって救済。
「違う」
今度はエルザさんが言った。
その声は震えていたが、不思議なほど真っ直ぐだった。
金色の瞳が観測者を見上げる。
「私ね」
少し笑う。
「記憶を失った時、すごく怖かったんだ」
アークが振り返る。
観測者も沈黙する。
「自分が誰なのか分からなくて」
「何者なのか分からなくて」
「過去も未来も分からなくて」
小さく息を吐く。
「でも」
その顔には確かな強さがあった。
「だから出会えた人も居た」
僕を見る。
のぞみを見る。
ひかりを見る。
そして少しだけ笑う。
「今の私が居るのは、記録のおかげじゃない」
静かな声。
だけど。
トンネル全体に響くほど強い声だった。
「誰かと一緒に居たからだよ」
観測者が沈黙する。
長い沈黙だった。
無数の赤い目が明滅する。
まるで膨大な計算を行っているように。
そして。
僕は気付いてしまった。
観測者は怒っていない。
困っているのだ。
理解できないのだ。
何兆何京という情報を集めても。
人格を複製しても。
文明を保存しても。
どうして人間がそんな結論に辿り着くのか。
それだけが分からない。
だから。
ずっと観測を続けていた。
千三百年も。
あるいはそれ以上の時間を掛けて。
その時だった。
観測者の赤い目の一つが。
ゆっくりと僕へ向く。
嫌な予感がした。
もの凄く。
そして。
次の言葉でその予感は的中する。
――新規提案。
世界が静まり返る。
――対象。
――十文字隼人。
僕は顔を引きつらせた。
「何だよ……」
――実証実験を要請。
嫌な予感がさらに膨れ上がる。
観測者は続けた。
――君の価値観を証明してほしい。
そして。
無数の赤い目が静かに輝く。
――君に選択権を与える。
その瞬間。
アークの顔色が変わった。
エルザさんも息を呑む。
ガラムドからは。
過去最速でメッセージが飛んできた。
『断ってください』
『絶対にです』
『もの凄く嫌な予感がします』
奇遇だな。
珍しく。
本当に珍しく。
神様と完全に意見が一致した。




