第40話 エルディア(4)
アークは静かに目を閉じた。
それは恐怖から目を逸らすための仕草ではなかった。
ましてや、圧倒的な存在を前にして諦めた者の表情でもない。
むしろその逆だった。
長い長い時間の果てに、ようやく避け続けてきた過去と向き合う覚悟を決めた者だけが見せる、どこか穏やかで、それでいて痛々しい静けさがそこにはあった。
暗闇の最奥では、観測者を構成する無数の赤い目が脈動を続けている。
それはまるで巨大な心臓だった。
一つや二つではない。
数え切れないほどの目が、規則的に、しかしどこか不安定に明滅を繰り返しながら、世界そのものを揺らしている。
その光景は生物的でありながら機械的でもあり、知性を感じさせながらも感情の存在を拒絶するような不気味さを孕んでいて、見ているだけで背筋の奥に冷たいものが這い上がってくる。
そして。
観測者の声が響いた。
耳ではない。
空間そのものが震え、その振動が直接脳へ流し込まれてくるような声だった。
――管理者確認。
――帰還を要求。
――帰還を要求。
――帰還を要求。
同じ言葉が何度も繰り返される。
本来ならば単なる通知のはずだった。
感情など存在しない機械的な報告。
だが今だけは違った。
その声には妙な執着があった。
必死さがあった。
千三百年もの間、失われた何かを探し続けてきた存在が、ようやく見つけた答えを手放すまいとしているような切実さが滲んでいた。
「……やっぱりか」
アークが小さく呟く。
その声には怒りもなければ憎しみもなかった。
ただ深い疲労だけがあった。
何度も何度も同じ過ちを見続けてきた者だけが抱くことのできる、底の見えない疲労だった。
「そこまで壊れていたんだな」
その言葉を聞いた瞬間だった。
観測者の赤い目が一斉に明滅する。
空間全体が低く唸り声を上げた。
トンネルの壁が軋み、床が震え、空気そのものが重く沈み込む。
まるで否定しているようだった。
あるいは、自分でも気付いていなかった傷を指摘されて怒っているようにも見えた。
――破損なし。
――機能正常。
――世界保存計画は継続中。
即座に返答が来る。
だが。
その声はどこか空虚だった。
まるで決められた答えを繰り返しているだけのように。
アークはゆっくりと首を横に振った。
「違う」
静かな否定だった。
だが、その一言だけで空気が張り詰める。
「私が言っているのは機能の話じゃない」
その瞬間。
背後に広がる光の翼が大きく脈動した。
無数の羽根が夜空の星々のように空間へ散り、その光が崩れかけていた現実を少しずつ押し戻していく。
神々しいという言葉では足りない。
美しいという言葉でも足りない。
それは人間が理解できる範囲を超えた存在の本来の姿だった。
文明が生まれる遥か以前から生き続け、数え切れない世界の終焉を見届けてきた者だけが持つ重みが、そこにはあった。
「お前は目的を忘れたんだ」
アークは観測者を見据える。
その視線は真っ直ぐだった。
逃げない。
誤魔化さない。
まるで自分自身の罪と向き合うように。
「保存は手段だった」
「命を繋ぐための」
「未来へ託すための」
「失われるものを少しでも減らすための」
観測者は沈黙する。
無数の赤い目だけが不規則に明滅を繰り返している。
「なのにお前は」
アークの声が僅かに沈む。
「いつの間にか保存そのものを目的にしてしまった」
長い沈黙が訪れた。
誰も口を開けない。
僕たちでさえ、本能的に理解してしまっていた。
今語られているのは、この事件の真相だけではない。
千三百年前から続いていた全ての始まりなのだと。
その時だった。
突然。
頭の奥に激しい痛みが走る。
「っ……!」
思わず頭を押さえた。
僕だけじゃない。
のぞみも。
ひかりも。
同じように苦しそうな顔をしている。
そして。
見えた。
知らない景色が。
白い空。
空中に浮かぶ巨大な都市。
光で造られた塔。
翼を持つ人々。
そして。
その中央に立つ若いアークの姿。
今よりずっと若い。
まだ疲れを知らない顔だった。
その隣には。
エルディア——つまり昔のエルザさんが立っている。
二人とも笑っていた。
楽しそうに。
未来を信じている人間の顔で。
――もし世界が滅んでも。
若いアークが言う。
――せめて誰かが覚えていられるようにしたい。
その言葉に。
エルディアは少し考えて。
そして笑った。
――優しいね。
――馬鹿なだけだよ。
――同じことじゃない?
二人が笑う。
本当に楽しそうに。
まるで。
こんな未来が待っていることなど想像もしなかったみたいに。
だが。
映像はそこで終わらなかった。
都市が燃える。
空が裂ける。
文明が崩壊する。
人々が死んでいく。
一つの世界が終わる。
また一つ終わる。
さらに終わる。
その度にアークは記録を残した。
失いたくなかったから。
忘れたくなかったから。
救いたかったから。
そして。
気付けば。
守りたかった人々よりも。
残された記録の方が大切になっていた。
「……そういうことだったのか」
気付けば呟いていた。
アークがこちらを見る。
少しだけ驚いた顔だった。
僕は言う。
「最初は間違ってなかったんだな」
アークは苦笑した。
本当に困ったような顔だった。
「そう言われるのが一番困る」
小さく肩を竦める。
「間違っていなかったからこそ、ここまで来てしまったんだから」
その言葉に誰も返事ができなかった。
そして。
その沈黙を破るように。
エルザさんが前へ出る。
一歩。
また一歩。
巨大な観測者へ向かって。
「エルザ!」
僕は思わず叫ぶ。
だが。
彼女は振り返らない。
金色の瞳は真っ直ぐ観測者だけを見つめていた。
「ねえ」
静かな声だった。
優しい声だった。
「聞こえてる?」
無数の赤い目が一斉に彼女へ向く。
エルザさんは少しだけ笑った。
「あなた」
ゆっくりと言う。
「壊れたんじゃないよね」
長い沈黙。
「寂しかったんだよね」
その瞬間。
世界が止まった。
観測者も。
アークも。
僕たちも。
誰も動けなかった。
そして。
観測者の赤い目が大きく揺れる。
まるで。
絶対に存在しないはずの答えを突き付けられたかのように。
――解析不能。
――解析不能。
――解析不能。
警告音が響く。
だが。
エルザさんは止まらない。
「だって」
昔のエルディアにも似た。
今のエルザにも似た。
そんな笑顔で続ける。
「本当に世界だけが大事なら」
一歩前へ出る。
「千三百年もアークを探し続けたりしないでしょ」
静寂。
永遠にも思える静寂。
そして。
観測者の最も大きな赤い目から。
黒い光が一筋だけ零れ落ちた。
涙なのか。
故障なのか。
誰にも分からない。
だが。
その瞬間だけは。
世界を脅かす怪物ではなく。
長い長い時間を独りで待ち続けていた存在に見えた。
やがて。
観測者は初めて予定された応答ではない言葉を口にする。
――管理者。
沈黙。
長い沈黙。
そして。
震えるような声で問い掛けた。
――なぜ。
――私を置いていった。
その問いは。
世界を保存しようとした装置の問いではなかった。
親を失った子供の。
千三百年間ずっと答えを待ち続けていた者の問いだった。




