第37話 エルディア(1)
無数の赤い目が。
一斉にこちらを向いた。
さっきまでの視線とは違う。
観察ではない。
分析でもない。
もっと単純だった。
排除。
その二文字だけが伝わってくる。
「……隼人」
エルザさんの声が低くなる。
今まで聞いたことがないほど真剣な声だった。
「今から私が三十秒稼ぐ」
「は?」
「その間に逃げて」
「嫌だ」
即答だった。
考えるまでもない。
エルザさんが呆れた顔をする。
「少しは悩んでよ」
「嫌なものは嫌だ」
「格好付けてる場合じゃないんだけど」
「知るか」
僕が言うと、何故か彼女は少し笑った。
ほんの少しだけ。
その時だった——暗闇の奥で。
何かが動く。
山のような巨体。
今まで目しか見えていなかった存在の輪郭が、少しずつ現れ始める。
見た瞬間。
脳が理解を拒否した。
大き過ぎる。
形が定まらない。
人に見えたと思えば。
次の瞬間には塔に見える。
塔だと思えば都市に見える。
都市だと思えば巨大な機械に見える。
見るたびに形が変わる。
いや。
人間の脳が認識できる形へ勝手に変換しているのだろう。
それほどまでに異質だった。
――排除開始。
世界が軋む。
その瞬間。
僕たちの足元の影が伸びた。
地面を這う。
黒い液体みたいに。
「下がって!」
エルザさんが叫ぶ。
同時に。
金色の光が弾けた。
轟音。
トンネル全体が揺れる。
白い光と黒い影が激突する。
衝撃だけで周囲の岩肌が砕けた。
「うわっ!」
のぞみが悲鳴を上げる。
ひかりが咄嗟にその腕を掴む。
「伏せて!」
岩片が飛ぶ。
熱風が吹き抜ける。
しかし。
それでも影は止まらなかった。
まるで無限に湧いてくる。
切っても。
消しても。
また現れる。
「駄目だ」
アークが眉をひそめた。
「本体に近過ぎる」
「何とかならないのか!」
僕が叫ぶ。
すると。
アークは珍しく本気で困った顔をした。
「なるなら千三百年前にやってる」
説得力が凄かった。
全然嬉しくないけど。
その時。
スマホが激しく震える。
ガラムドだった。
『一つだけ方法があります』
「最初から言え!」
『成功率が低いので』
「今さらだろ!」
『確かに』
認めた。
今認めた。
『エルディアの権限を解放してください』
そのメッセージを見て、僕はエルザさんを見る。
「エルディアの……権限?」
それを聞いたエルザさんが振り返る。
「権限?」
反芻するように、言った。
『完全解放です』
その瞬間。
アークの表情が変わった。
「やめろ」
低い声だった。
今までで一番強い口調。
「それだけはやめろ」
『他に方法はありません』
ガラムドが返す。
アークが苦い顔をする。
「ある」
『ありません』
「ある」
『ありません』
小学生みたいな応酬だった。
だが。
二人とも本気だった。
その様子を見て。
エルザさんが眉をひそめる。
「何なの」
誰も答えない。
「説明して」
沈黙。
そして。
ガラムドが先に口を開いた。
『完全解放すると』
『すると?』
数秒。
長い沈黙。
『あなたはエルディアに戻ります』
空気が止まった。
エルザさんの表情が固まる。
僕も固まる。
「……戻る?」
『はい』
ガラムドの文字が続く。
『現在の人格と記憶は統合されます』
『それって』
ひかりが呟く。
『エルザさんじゃなくなるってこと?』
ガラムドはすぐに答えなかった。
それだけで十分だった。
「違う!」
エルザさんが叫ぶ。
初めてだった。
彼女がここまで感情を露わにしたのは。
「そんなの嫌だ!」
震える声。
「やっと分かったのに!」
拳を握る。
「私が誰なのか!」
目には涙が滲んでいた。
「今さら知らない誰かになりたくない!」
沈黙。
その言葉に。
アークが静かに目を閉じる。
どこか安心したように。
少しだけ。
本当に少しだけ。
救われたような顔で。
「そうか」
ぽつりと言った。
「それを聞けただけで十分かな」
エルザさんが顔を上げる。
アークは笑っていた。
優しく。
そして。
諦めたように。
「千三百年前」
静かな声だった。
「君は最後まで自分を犠牲にしようとした」
周囲の影が迫る。
赤い目が輝く。
それでも。
アークは構わず続けた。
「でも今の君は違う」
エルザさんを見る。
まっすぐに。
「それでいい」
次の瞬間だった。
アークが動いた。
初めて。
本気で。
右手を前へ突き出す。
世界が止まる。
本当に。
一瞬だけ。
時間そのものが凍ったようだった。
影が止まる。
赤い目が止まる。
音が消える。
そして。
アークは観測者へ向かって言った。
「私の失敗作に」
静かな声。
「これ以上触れるな」
その瞬間。
トンネルの奥で。
観測者が初めて怒りを示した。
無数の赤い目が。
一斉に燃え上がる。
まるで。
神話の時代から続いていた因縁が。
今ここで再び始まるかのように。




