第35話 候補者(2)
僕の影が。
ゆっくりと立ち上がった。
あり得ない光景だった。
地面に落ちているだけの黒い染みが、まるで水面から人が起き上がるように輪郭を持ち始める。
腕が現れる。
足が現れる。
首が現れる。
そして。
僕と同じ背丈の人影が、音もなく地面から抜け出した。
「……」
誰も喋らない。
喋れない。
影の顔には何もなかった。
目もない。
鼻もない。
口もない。
それなのに。
そいつが僕を見ていることだけは分かった。
嫌になるほどはっきりと。
「隼人」
エルザさんが一歩前へ出ようとする。
しかし。
その瞬間だった。
影が振り向く。
それだけで。
エルザさんの身体が止まった。
見えない壁が現れたみたいに。
「え?」
のぞみが声を漏らす。
エルザさん本人も驚いていた。
足が動かないらしい。
『干渉領域です』
ガラムドからメッセージが届く。
『対話が始まっています』
『対話?』
『はい』
『正確には』
数秒。
『勧誘です』
全然嬉しくない単語だった。
すると。
僕の影が右手を差し出した。
まるで握手でも求めるように。
そして。
声が聞こえた。
耳ではない。
頭の中だった。
――質問。
「……何だよ」
気付けば答えていた。
声が出ていたのか。
頭の中だけだったのか。
自分でも分からない。
――もし。
影が言う。
――明日。
――世界が終わると知ったら。
その問いに。
僕は思わず眉をひそめた。
「は?」
何だそれ。
あまりにも突飛な質問だった。
だが。
影は続ける。
――全人類。
――文明。
――歴史。
――思い出。
――全て消失する。
――回避不能。
――その時。
少しだけ。
アークの顔が歪んだ。
嫌そうな顔だった。
まるで聞きたくない昔話が始まった時みたいに。
影は問う。
――君は何を残す。
沈黙。
僕は答えられなかった。
世界が終わる。
そんなこと考えたこともない。
だが。
なぜか。
頭の中に浮かぶものがあった。
のぞみ。
ひかり。
ガラムド。
エルザさん。
この夏。
自由研究。
くだらない会話。
笑ったこと。
怒ったこと。
……言い換えれば、全部だった。
消える。
全部。
跡形もなく。
その想像だけで妙に胸が苦しくなる。
「……残したい」
気付けば呟いていた。
影が反応する。
――理解。
――やはり適合。
「隼人!」
エルザさんが叫ぶ。
「違うから!」
「何が」
「それが罠!」
珍しく必死だった。
しかし。
影は静かに続ける。
――残したい。
――救いたい。
――忘れたくない。
――失いたくない。
――それは自然な願い。
「……」
反論できなかった。
確かにそうだ。
おかしいことは言っていない。
すると。
今度はアークが口を開いた。
「そこで終われば良かったんだ」
静かな声だった。
誰よりも重い声だった。
僕は彼を見る。
アークは苦笑していた。
「私もそう思った」
長い年月を思い出すように。
遠い過去を見るように。
「消えるのが嫌だった」
影が黙る。
アークは続ける。
「文明が消えるのが嫌だった」
「人が死ぬのが嫌だった」
「歴史が失われるのが嫌だった」
トンネルの奥が静まり返る。
「だから保存しようと思った」
そこで。
アークは自嘲するように笑った。
「気付いた時には」
小さく言う。
「保存することの方が目的になっていた」
誰も喋らない。
喋れなかった。
その言葉は。
あまりにも重かった。
「隼人君」
アークが僕を見る。
「覚えておくといい」
その目は真剣だった。
「何かを守りたいと思うことと」
一拍置く。
「守ること自体が目的になることは——似ているようで全然違う」
影が沈黙する。
初めてだった。
あの観測者側が。
明確に反論できずにいるように見えたのは。
そして。
暗闇の最奥から。
再びあの巨大な声が響く。
――質問を変更。
空気が震える。
――候補者。
――隼人。
無数の赤い目が輝く。
――君は。
――彼女を失うことを許容できるか。
その瞬間。
赤い光が。
ゆっくりとエルザさんへ向いた。
エルザさんの表情が固まる。
そして僕は理解した。
観測者は。
今度は僕自身ではなく。
エルザさんを材料にして。
僕を試そうとしているのだと。




