第29話 上位存在、アーク(2)
千三百年。
その数字の意味を、僕はすぐには理解できなかった。
いや。
理解したくなかったのかもしれない。
千三百年。
人間の歴史ですら長い。
それを昔話みたいに口にする男が、今、目の前に立っている。
「……嘘」
のぞみが呟いた。
「千三百年って」
「鎌倉時代より前だよね」
ひかりの突っ込みが妙に現実的だった。
だが。
誰も笑えない。
アークは少し首を傾げた。
「人間の時間感覚だと、そんな反応になるのか」
本当に不思議そうだった。
悪意はない。
だから余計に怖い。
人間を人間として見ていない。
そのことだけが伝わってくる。
「帰ろう」
アークは再び言った。
エルザさんへ向かって。
「皆、待ってる」
「……待ってない」
「待ってるよ」
「待ってない」
今度は強い口調だった。
エルザさんの肩が震えている。
怒りなのか。
恐怖なのか。
あるいは両方か。
「君は何も知らない」
アークは悲しそうに言う。
「記憶を封印されたままだから」
「それでも」
エルザさんは顔を上げた。
「帰らない」
沈黙。
トンネルの空気が重くなる。
巨大な観測装置たちも動かない。
まるで二人の会話を待っているようだった。
「どうして?」
アークが尋ねる。
「理由を聞いてもいいかな」
その問いに。
エルザさんは答えなかった。
代わりに。
ちらりと僕たちを見る。
ほんの一瞬だけ。
それだけだった。
だが。
アークは理解したらしい。
「ああ」
静かに笑った。
「人間か」
その笑顔が少しだけ冷たくなる。
「また同じ失敗をしてるんだね」
「失敗じゃない」
即答だった。
エルザさんらしくない。
迷いのない声。
「本当に?」
アークが問う。
「人間は消えるよ」
静かな口調だった。
「百年も経たずに」
「……」
「君がどれだけ大切に思っても」
その言葉に。
エルザさんは黙り込む。
「忘れる」
アークは続けた。
「死ぬ」
「やめて」
「消えていく」
「やめて」
「だから保存する必要がある」
その瞬間。
壁の影たちがざわりと揺れた。
まるで賛同するように。
「人間は壊れる」
アークの声が響く。
「文明も滅びる」
「……」
「世界も終わる」
赤い単眼が一斉に発光する。
「だから記録する」
トンネル全体が脈打つ。
「永遠に失われないように」
そこで僕は気付いた。
この男。
本気で善意なのだ。
世界を滅ぼそうとしているわけではない。
支配したいわけでもない。
ただ。
救いたいだけだ。
自分なりの方法で。
だからこそ厄介だった。
「隼人」
エルザさんが小さく言う。
「何だ」
「前にもね」
苦笑する。
「同じことを言われた気がする」
記憶が戻り始めている。
その証拠だった。
彼女の瞳の奥で、何かが揺れていた。
「昔」
遠くを見るような目。
「私たち、何度も喧嘩した」
アークが僅かに目を伏せる。
「そうだね」
「何百回も」
「たぶん」
「でも」
エルザさんは笑った。
いつもの笑顔だった。
少しだけ泣きそうな。
そんな笑顔。
「君は一度も変わらなかった」
アークは答えない。
「だから私は反対した」
静かな声。
「世界は記録じゃない」
赤い光が揺れる。
「人は保存できない」
観測装置たちがざわめく。
「失うから意味がある」
アークの眉が僅かに動いた。
「それは人間の理屈だ」
「うん」
「非効率だ」
「知ってる」
「理解できない」
エルザさんは頷く。
そして。
ゆっくりと言った。
「だから君は、人間を理解できなかった」
その瞬間。
初めて。
アークの表情が崩れた。
悲しそうに。
本当に悲しそうに。
まるで昔から分かっていた答えを、改めて突き付けられたように。
長い沈黙が落ちる。
そして。
アークは静かに目を閉じた。
「そうか」
小さく呟く。
「やっぱり」
次に目を開いた時。
その瞳から温かさが消えていた。
「なら仕方ない」
ぞっとする。
今までで一番危険な気配だった。
怒っているわけではない。
憎んでいるわけでもない。
ただ。
決断した。
それだけだった。
――統括権限起動。
赤い単眼が一斉に発光する。
――回収作業を再開します。
トンネルが震えた。
壁の影たちが剥がれ始める。
一つ。
二つ。
十。
二十。
百。
無数の人影が壁から這い出してくる。
まるで悪夢だった。
そしてアークは。
静かにエルザさんを見つめたまま告げる。
「ごめんね」
その声だけは。
本当に申し訳なさそうだった。
「今度こそ、君を連れて帰る」
その瞬間。
トンネルの奥で。
無数の影が一斉にこちらへ振り向いた。




