第26話 切り裂きジャック(15)
赤い目が揺れた。
ほんの僅かに。
だが確かに。
今まで機械のように無感情だった巨大な存在が、何かに反応した。
まるで。
あり得ないものを見たかのように。
――認識エラー。
頭の中へ声が響く。
――認識エラー。
――記録と矛盾。
赤い単眼が明滅する。
周囲の壁に貼り付いた影たちもざわついていた。
さっきまで歓喜しているように見えたそれらが、今は困惑しているように見える。
観測装置が。
迷っている。
そんな馬鹿げた考えが頭をよぎった。
「やっぱり」
エルザさん――いや。
エルディアが小さく呟く。
「君だったんだね」
巨大な存在を見上げる。
その横顔は不思議と穏やかだった。
先ほどまで苦しんでいた人間とは思えないほど。
「知ってるのか?」
僕は尋ねる。
エルザさんは少しだけ考えた。
そして首を横に振る。
「全部じゃない」
苦笑する。
「まだ思い出せてない」
「じゃあ」
「でも」
彼女は赤い目を見つめる。
「知ってる」
矛盾した答えだった。
だが。
今なら少し分かる。
記憶ではない。
もっと深い場所に残っている感覚なのだろう。
懐かしさ。
怒り。
悲しみ。
そういうものが。
先に蘇っている。
――対象発言を分析。
赤い目が再び明滅する。
――個体識別を更新。
――エルディア。
沈黙。
そして。
初めて声に変化が生じた。
――管理者権限保有者。
全員が固まった。
「管理者?」
ひかりが呟く。
「つまり偉い人?」
「多分」
のぞみが答える。
「めちゃくちゃ偉い人」
「そんな感じだと思う」
僕も同意した。
だが。
本人だけが困惑している。
「いや、知らないんだけど」
エルザさんが言う。
「本当に知らない」
すると。
巨大な存在は答えた。
――確認済み。
――記憶封印状態。
――権限保持は継続。
その瞬間。
ガラムドからメッセージが届いた。
『思ったより最悪ですね』
『どういう意味だ』
『彼女は本当に上位個体だったようです』
『お前も知らなかったのか』
『私は下級神ですので』
初耳だった。
『神にも階級あるのか?』
『あります』
『今聞く話か?』
『今だから聞く話です』
相変わらずだった。
こんな状況でも変わらない。
だが。
少しだけ安心する。
ガラムドが平常運転ということは、まだ終わりではないらしい。
その時。
エルザさんが再び頭を押さえた。
「っ……」
「大丈夫か?」
「分からない」
呼吸が荒い。
「何か思い出しそう」
その瞬間だった。
視界が揺れた。
僕だけではない。
全員が同時によろめく。
「な、何?」
のぞみが声を上げる。
トンネルの景色が歪んでいた。
壁。
床。
天井。
全てが水面のように波打っている。
そして。
影たちが消え始めた。
「え?」
僕は目を見開く。
壁に張り付いていた無数の人影。
それらが剥がれていく。
一枚ずつ。
古い写真を剥がすように。
すると。
壁の奥から別の景色が現れた。
白い空。
巨大な建造物。
空中に浮かぶ塔。
人間ではない存在たち。
「何だこれ……」
ひかりが呆然と呟く。
「昔の記録」
エルザさんが答えた。
自分でも驚いている顔だった。
「このトンネルじゃない」
「じゃあどこだ」
「分からない」
だが。
彼女は続けた。
「でも私が居た場所だ」
その言葉と同時に。
映像の中で戦いが始まった。
光。
爆発。
崩れ落ちる塔。
逃げ惑う翼の人々。
そして。
空に浮かぶ巨大な黒い瞳。
今、目の前にいる観測装置と同じだった。
「まさか……」
僕は呟く。
「こいつ」
「うん」
エルザさんが静かに頷く。
「昔から居た」
赤い目がこちらを見る。
そして。
初めて。
少しだけ人間らしい声で言った。
――訂正。
空気が凍る。
――私は昔から居たのではない。
嫌な予感。
とてつもなく嫌な予感。
――私は今も観測を続けている。
次の瞬間。
僕は理解した。
ガラムドが言っていた意味を。
世界を複製する。
世界を保存する。
その本当の意味を。
観測装置は——一つではなかった。
昔の世界にも居た。
今の世界にも居る。
そして恐らく——これから生まれる世界にも。
ずっと。
永遠に。
観測し続ける。
そのための存在。
赤い目が静かに告げる。
――バックアップ進行率。
数字が浮かび上がる。
空中に。
血のように赤く。
——31%。
全員が息を呑んだ。
そしてガラムドが。
今までになく深刻な雰囲気でメッセージを送ってきた。
……もっとも、送られてくるのは文章だけだ、と言うのは野暮かもしれないが。
『隼人』
『何だ』
『どうやら本当に時間がありません』
『何が起きる』
数秒の沈黙。
そして。
『バックアップが完了すると』
返ってきた答えは。
誰も予想していなかったものだった。
『この世界は、一度終了します』
トンネルの空気が。
音を立てて冷えた気がした。




