第24話 切り裂きジャック(13)
黒い刃が伸びる。
老人の足元から。
生き物のように。
音もなく。
ゆっくりと。
「まずい!」
エルザさんが駆け出した。
僕も反射的に後を追う。
「待って!」
のぞみの声が背後から聞こえた。
だが止まれない。
老人は何も気付いていない。
虚ろな目のまま。
トンネルの奥へ歩き続けている。
黒い刃が。
その影のない足元へ迫る。
あと数歩。
それで届く。
「おじいさん!」
僕は叫んだ。
反応はない。
聞こえていない。
いや、聞くという機能そのものが失われているように見えた。
その時。
ガラムドからメッセージが飛んでくる。
『接触してください』
『は?』
『今なら間に合います』
『何が』
『人格情報の残滓が残っています』
相変わらず説明が足りない。
だが。
今は聞いている暇がなかった。
僕は老人の肩を掴む。
その瞬間だった。
世界が反転した。
「――っ!」
視界が真っ白になる。
再びだ。
影に触れた時と同じ。
記憶。
誰かの記憶。
大量の映像が頭の中へ流れ込んでくる。
山。
家族。
若い頃の笑顔。
仕事。
結婚。
子供。
孫。
平凡な人生。
ごく普通の人生。
そして。
ある日。
旧刑部山トンネル。
誰かを見た。
白い服の女。
振り返る影。
黒い刃。
切断。
そこで映像が途切れる。
同時に。
老人が膝をついた。
「……あれ?」
初めて。
その目に感情が戻る。
「わしは……」
呆然としている。
長い夢から覚めた人みたいに。
「ここは……どこだ?」
「戻った?」
ひかりが驚く。
だが。
安心するには早かった。
壁が動いたからだ。
ざわり。
トンネルの両側。
無数の影が揺れる。
まるで波のように。
「何だよ今度は……」
僕が呟く。
すると。
壁に貼り付いていた影の一つが。
ゆっくりと剥がれ始めた。
べり、と。
紙を剥がすような音がした。
「っ!」
全員が息を呑む。
影は床へ落ちる。
そして。
立ち上がった。
人間の形で。
真っ黒なまま。
顔もない。
目もない。
だが。
確かにそこに居る。
「影が……出てきた」
のぞみが青ざめる。
一体だけではなかった。
その後ろ。
さらにもう一体。
さらにもう一体。
壁中から。
次々と剥がれ落ちてくる。
まるで。
このトンネルそのものが卵だったかのように。
『それが本体です』
ガラムドのメッセージ。
『何の』
『切り裂きジャックの被害者たちです』
ぞっとした。
『被害者?』
『正確には』
数秒後。
『切り取られた人格情報です』
理解したくなかった。
つまり。
ここにいる影は。
人間の残骸だ。
魂の表面。
記憶。
感情。
人格。
そういうものだけを切り取られて。
ここに捨てられている。
「じゃあ」
僕は思わず呟く。
「壁の影は全部……」
『はい』
ガラムドが答える。
『失われた人間たちです』
寒気が走る。
何十人。
いや。
何百人いる。
長年に渡って。
少しずつ。
少しずつ。
集められてきたのだ。
その時だった。
トンネルの奥。
暗闇のさらに向こうから。
光が見えた。
赤い。
不気味な光。
まるで巨大な目玉のような。
「また来る」
エルザさんが呟く。
その顔色が変わっていた。
青ざめている。
いや。
恐怖ではない。
何かを思い出しかけている顔だった。
「知ってるのか?」
僕が聞く。
エルザさんは黙る。
数秒。
そして。
苦しそうに頭を押さえた。
「思い出せない」
震える声。
「でも」
赤い光を見つめる。
「昔……私はあれと戦った」
全員が固まった。
「え?」
「たぶん」
自信なさそうに言う。
だが。
その瞳だけは確信していた。
「そして負けた」
その瞬間。
赤い光が大きく瞬いた。
まるで。
その言葉に反応したかのように。
そして。
トンネルの最深部から。
金属と肉を無理やり混ぜ合わせたような声が響く。
――観測対象再発見。
影たちが一斉に跪いた。
世界が静まり返る。
蝉の声も。
風の音も。
何も聞こえない。
ただ。
その声だけが響く。
――回収を開始します。
そして。
赤い光の中から。
一つの巨大な人影が姿を現し始めた。




