第23話 切り裂きジャック(12)
壁の影が。
こちらを見ていた。
「……っ!」
誰も動けなかった。
動いたら駄目な気がした。
理屈ではない。
本能だった。
懐中電灯の光に照らされた黒い染み。
人の形をしている。
壁に貼り付いている。
それだけならまだ良かった。
問題は。
今、その首が動いたことだった。
「見間違い……だよね?」
のぞみが震えた声で言う。
誰も返事をしない。
返せなかった。
なぜなら。
その影は再び動いたからだ。
ゆっくりと。
まるで長い眠りから目覚めるように。
腕が持ち上がる。
壁から剥がれることはない。
だが確かに動いている。
「隼人」
ひかりが小声で言った。
「これ、生きてる?」
「分からない」
本当に分からなかった。
影は生き物ではない。
少なくとも普通は。
だが。
目の前のそれは、どう見てもただの染みではなかった。
すると。
エルザさんが一歩前へ出る。
「待て!」
思わず止める。
しかし彼女は首を横に振った。
「大丈夫」
「何で分かる」
「分からない」
またそれだった。
知らない。
分からない。
なのに確信だけある。
最近のエルザさんはそんなことばかり言う。
本人も困っているようだった。
ゆっくりと壁へ近付く。
影は動かない。
いや。
こちらを見ている。
そんな気がした。
そして。
エルザさんがそっと壁へ触れた。
瞬間。
視界が白く染まった。
「っ!?」
頭の中へ何かが流れ込んでくる。
知らない景色。
知らない記憶。
知らない声。
――助けて。
男の声だった。
若い。
二十代ぐらいだろうか。
恐怖に震えている。
――助けてくれ。
真っ暗なトンネル。
逃げる足音。
後ろから追ってくる何か。
そして。
黒い刃。
「うわっ!」
僕は思わず声を上げた。
映像が途切れる。
気付けばトンネルの中だった。
数秒しか経っていない。
だが。
何年分もの悪夢を見たような感覚だった。
「今の……何?」
のぞみも顔色を失っていた。
「見たの?」
ひかりが聞く。
「男の人が居た」
「私も」
どうやら僕だけではないらしい。
エルザさんも壁から手を離していた。
珍しく青ざめている。
「記録だ」
ぽつりと言った。
「え?」
「この影」
壁を見つめる。
「記録になってる」
その言葉で。
ガラムドからメッセージが届いた。
『正解です』
『説明しろ』
『影とは人格情報の一部です』
嫌な予感しかしない。
『人間は自分が思っているより複雑な存在なんですよ』
『だから説明になってない』
『簡単に言えば』
数秒後。
『魂の表面部分です』
背筋が冷える。
『切られるとどうなる』
『少しずつ自分を失います』
思い出す。
影のない女性。
あの不自然な笑顔。
あの空虚な瞳。
『全部失うと?』
返事はすぐに来なかった。
そして。
『人間ではなくなります』
最悪だった。
その時。
トンネルの奥から音が聞こえた。
足音。
誰かが歩いている。
ゆっくりと。
一定の速度で。
かつ。
妙に重い。
全員が振り返る。
暗闇の向こう。
何か居る。
「隠れて」
エルザさんが囁く。
僕たちは反射的に壁際へ身を寄せた。
足音が近付く。
一歩。
また一歩。
そして。
暗闇の中から現れたのは。
一人の老人だった。
「……人?」
のぞみが呟く。
登山服。
帽子。
杖。
どう見ても普通の老人。
だが。
次の瞬間。
全員が息を呑んだ。
老人には、影がなかった。
完全に。
何一つ。
存在していなかった。
老人は虚ろな目で歩いている。
こちらを見ていない。
気付いてもいない。
ただ、何かに導かれるようにトンネルの奥へ進んでいる。
「待って!」
のぞみが思わず声を掛けた。
老人は止まらない。
「聞こえてない」
ひかりが呟く。
その時だった。
壁の影たちが一斉に動いた。
ざわり。
そんな音が聞こえた気がした。
壁に貼り付いた無数の人影。
その全てが。
老人の方を向いていた。
「まずい」
エルザさんが低く言う。
「何が?」
「たぶん」
彼女は暗闇の奥を見る。
自分でも理由が分からないという顔で。
それでも確信していた。
「この人、もうすぐ全部持っていかれる」
その瞬間。
トンネルのさらに奥で。
何かが笑った。
人間の笑い声ではなかった。
金属が軋むような。
機械が故障したような。
不気味な笑い声。
そして。
老人の足元に。
黒い刃のような影が、ゆっくりと伸び始めていた。




