第21話 切り裂きジャック(10)
――逃げろ、エルディア。
その声が響いた瞬間。
エルザさんは頭を押さえたまま蹲った。
「エルザさん!」
僕は思わず駆け寄ろうとする。
だが。
『近付くな』
ガラムドから即座にメッセージが飛んできた。
『今は駄目です』
『何が起きてる』
『記憶封印に干渉されています』
意味が分からない。
分からないが。
状況だけは最悪だった。
目の前では、影のない女性が無表情のまま立っている。
その背後では黒い人影たちがゆっくり近付いてくる。
そしてエルザさんは頭を抱えて動けない。
「回収対象を確認」
女性が言う。
「優先順位を変更」
機械のような声。
「対象コード・エルディア」
その名前が発せられた瞬間。
エルザさんが苦しそうに息を呑んだ。
「やめ……」
震える声。
「それ以上……言うな……」
「記憶断片との一致率七十九パーセント」
女性は続ける。
「個体認証開始」
空気が震えた。
その時だった。
「黙れ!」
エルザさんが叫ぶ。
次の瞬間。
轟音。
周囲の木々が一斉に揺れた。
目に見えない衝撃波が発生したかのように。
「なっ!?」
僕は思わず目を見開く。
女性が初めて後退した。
黒い人影たちも足を止める。
エルザさんの周囲だけ空気が歪んで見えた。
まるで陽炎みたいに。
「……あれ?」
本人が一番驚いていた。
手を見つめている。
「今、何した私」
知らないらしい。
本気で。
ガラムドから新しいメッセージ。
『やはり』
『何だ』
『間違いありません』
『だから何が』
数秒。
珍しく返事が遅れる。
そして。
『まだ言えません』
『お前なあ!』
思わず心の中で叫んだ。
毎回それだ。
神様のくせに説明不足にも程がある。
しかし。
その間にも状況は動いていた。
女性が再びこちらを見る。
「脅威判定を更新」
無機質な声。
「上位個体の覚醒を確認」
嫌な単語しか出てこない。
「覚醒って何だよ」
僕が呟く。
「対象を回収します」
返事になっていない。
その瞬間。
黒い人影たちが一斉に走り出した。
今度は歩きではない。
明確な敵意。
「逃げるぞ!」
ひかりが叫ぶ。
全員が反射的に動いた。
山道を駆ける。
枝が顔を掠める。
足元の石が滑る。
だが止まれない。
背後から気配だけが迫ってくる。
「隼人!」
のぞみの声。
振り返る。
人影が一体。
すぐ後ろまで来ていた。
速い。
異常なほど速い。
そして。
そいつの右手には。
黒い刃のようなものが握られていた。
「っ!」
振り下ろされる。
避ける。
刃が地面を裂く。
だが。
土ではなく。
僕の影が切れた。
「え?」
一瞬だった。
地面の影。
その端が数センチだけ削れている。
まるで消しゴムで消されたみたいに。
同時に。
胸の奥が妙に冷たくなった。
何かを失った感覚。
「隼人!」
エルザさんが叫ぶ。
次の瞬間。
彼女の瞳が金色に輝いた。
ほんの一瞬だけ。
だが確かに。
「下がれ」
低い声だった。
いつものエルザさんとは違う。
誰か別人が喋っているみたいに。
空気が震える。
すると。
黒い人影たちが一斉に停止した。
まるで見えない壁にぶつかったかのように。
「……え?」
のぞみが呆然とする。
ひかりも固まっていた。
人影たちは前へ進めない。
女性も初めて困惑したような顔を見せる。
「権限エラー」
ぽつりと呟く。
「あり得ない」
その言葉に。
エルザさん自身が反応した。
「権限……?」
頭を押さえる。
また記憶だ。
何かを思い出しかけている。
「私……知ってる……」
呼吸が荒い。
「この言葉……」
断片的な映像が脳裏を過る。
白い翼。
無数の光。
巨大な門。
そして。
誰かが自分を呼ぶ声。
――エルディア。
再びその名前が響く。
今度ははっきりと。
まるで遠い昔の記憶の底から。
「私は……」
だが。
そこまでだった。
激しい頭痛。
視界が揺れる。
記憶は再び霧の向こうへ消えた。
エルザさんが膝をつく。
「くっ……」
そして。
その隙を見計らったように。
影のない女性が呟いた。
「観測完了」
嫌な予感がした。
「対象の位置を送信」
空気が凍る。
「本部へ報告します」
本部。
その単語に。
ガラムドが即座に反応した。
『まずい』
初めてだった。
あの神様が明確な焦りを見せたのは。
『今すぐその場を離れてください』
『何が来る』
返信は一秒で返ってきた。
『本命です』
そして。
トンネルの奥。
誰も居ないはずの暗闇のさらに奥で。
何かが目を開いた。




