第20話 切り裂きジャック(9)
五体。
いや。
六体かもしれない。
闇の中で輪郭が揺らいでいるせいで正確な数が分からない。
ただ一つだけ確かなことがあった。
増えている。
最初に見た一体だけではなかった。
黒い人影たちは無言のままトンネルの入り口付近に並び、こちらを見つめていた。
目はない。
顔もない。
それなのに。
見られている感覚だけが異様に強かった。
「……逃げる?」
のぞみが呟く。
「逃げ道ないけど」
ひかりが即座に返した。
笑えない冗談だった。
実際、帰り道は消えている。
山を無理やり下ろうとしても遭難する可能性が高い。
つまり。
僕たちは袋の鼠だった。
「隼人」
エルザさんが小さく言う。
「スマホ貸して」
「え?」
「ガラムドと話す」
僕は少し迷ったがスマホを渡した。
エルザさんは慣れた手付きで画面を操作する。
そして。
『久しぶり』
と送信した。
「は?」
思わず声が出た。
数秒後。
返信が来る。
『……』
沈黙だった。
神様が沈黙している。
「何だこれ」
僕が呟く。
さらに返信。
『本当に覚えていないんですね』
空気が変わった。
エルザさんの顔から笑みが消える。
『何を?』
『何も』
『教えて』
『嫌です』
「喧嘩してるのか?」
思わず聞いてしまった。
「分からない」
エルザさんも困惑している。
「でも」
画面を見つめる。
「この感じ、知ってる気がする」
知っている。
またそれだった。
記憶はない。
だが感覚だけが残っている。
まるで壊れたパズルみたいに。
その時だった。
トンネルの入り口に並んでいた人影たちが、一斉に首を傾げた。
ぎこり、と。
不自然な動きだった。
まるで映像データを無理やり再生しているみたいな。
「うわ」
のぞみが後退る。
「今の見た?」
「見た」
ひかりも顔を引き攣らせていた。
そして。
人影たちが動く。
一斉に。
こちらへ向かって。
「走れ!」
僕は叫んだ。
全員が反射的に動く。
山道を駆ける。
後ろは振り返らない。
振り返りたくなかった。
だが。
数秒後。
エルザさんが立ち止まった。
「エルザさん!?」
「駄目だ」
「何が!」
「追ってきてない」
振り返る。
本当だった。
人影たちは歩いている。
ゆっくりと。
焦る様子もなく。
まるで逃げられないと知っているみたいに。
「嫌な感じだな」
僕は思わず呟いた。
捕食者だ。
圧倒的に余裕のある。
そんな印象を受ける。
「隼人」
エルザさんが真面目な顔で言った。
「今から少し嫌な話をする」
「何だ」
「さっきの人」
登山客の女性を見る。
女性は少し離れた場所で不安そうにこちらを見ていた。
「どうした」
「影」
その言葉で思い出す。
薄かった。
異様なほど。
「もしかしたら」
エルザさんが続ける。
「もう半分ぐらい持っていかれてる」
ぞっとした。
「持っていかれる?」
「分からないけど」
眉をひそめる。
「影を切られるって、そういう意味じゃないかな」
その時。
女性がこちらへ歩いてきた。
「皆さん」
笑顔だった。
だが。
どこか違和感がある。
「どうかしました?」
さっきまで怯えていたはずなのに。
妙に落ち着いている。
いや。
落ち着き過ぎている。
「大丈夫ですか?」
ひかりが尋ねる。
「ええ」
女性は微笑んだ。
「もう怖くありません」
その瞬間。
エルザさんの顔色が変わる。
「下がって」
「え?」
「今すぐ!」
鋭い声だった。
僕たちは反射的に距離を取る。
女性が首を傾げた。
「どうしてですか?」
笑っている。
だが。
目が笑っていない。
いや。
そもそも。
何かがおかしい。
僕は地面を見た。
そして凍り付く。
女性の足元。
そこに。
影がなかった。
「……っ!」
息が止まる。
完全に消えている。
太陽は出ている。
周囲の木々にも影がある。
僕たちの影もある。
なのに。
女性だけない。
「触るな!」
ガラムドのメッセージが飛んできた。
『絶対に近付くな』
遅い。
いや。
十分間に合っている。
なぜなら。
その女性はもう人間には見えなかったからだ。
「なるほど」
女性が呟く。
声色が変わる。
さっきまでの震えた声ではない。
平坦だった。
感情がない。
「観測対象を発見」
空気が凍る。
「対象名」
女性の視線がエルザさんへ向く。
「識別番号欠損」
機械音声みたいだった。
「再照合開始」
その瞬間。
エルザさんが舌打ちした。
「最悪」
珍しい反応だった。
「知ってるのか?」
「知らない」
即答。
しかし続ける。
「でも嫌な予感はする」
女性――いや。
何か別の存在は、じっとエルザさんを見つめている。
そして。
次の言葉を発した。
「上位個体反応確認」
沈黙。
風が止まる。
蝉の声も聞こえない。
世界から音が消えたようだった。
「上位個体?」
僕が呟く。
すると、女性の顔がこちらへ向く。
「警告」
無機質な声。
「対象の記憶封印状態を確認」
エルザさんが固まる。
「回収プロトコルを開始します」
その瞬間。
トンネルの奥から現れた黒い人影たちが、一斉に動き出した。
まるで。
たった今、命令が下されたかのように。
そしてエルザさんは。
初めて本気で青ざめた表情で呟いた。
「……まずい」
「何が」
返ってきた答えは。
誰の予想も超えていた。
「もしかして私」
エルザさんは自分の頭を押さえながら言った。
「昔、あいつらに捕まったことがあるかもしれない」
その言葉と同時に。
頭痛に襲われたように彼女が膝をつく。
そして脳裏に浮かぶ。
知らないはずの光景。
白い翼。
崩れ落ちる空。
黒い刃。
そして誰かの声。
――逃げろ、エルディア。
その名前が響いた瞬間。
彼女の封印された記憶が、ほんの僅かに軋み始めていた。




