第19話 切り裂きジャック(8)
山が揺れた。
いや。
正確には違う。
揺れているように見えたのだ。
木々の輪郭が歪み、空間そのものが波打つ。
真夏の陽炎にも似ていたが、それよりもっと不気味だった。
まるで世界の表面だけが剥がれかけているような。
「……っ」
のぞみが息を呑む。
「何これ」
「私に聞かれても」
ひかりも顔を強張らせていた。
普段なら冷静な彼女まで動揺している。
無理もない。
目の前で物理法則が仕事を放棄しているのだから。
その時。
黒い人影が動いた。
いや、逃げた。
トンネルの方向へ。
音もなく後退し、そのまま木々の隙間へ溶け込むように消えていく。
「あっ」
思わず声が出る。
だが追う暇はなかった。
スマホが再び震えたからだ。
『追わないでください』
ガラムドだった。
『追うな』
珍しく短い。
そして必死だった。
『理由は』
『死にます』
即答だった。
僕は思わず眉をひそめる。
『お前、最近そればっかりだな』
『最近、本当に危険なんですよ』
珍しく神様が弱音を吐いた。
『旧刑部山トンネル内部で観測されている運命値の揺らぎが限界を超えています』
『だから何なんだ』
『世界の綻びです』
嫌な予感しかしない。
『説明』
『簡単に言うと』
返信が来る。
『あそこだけ現実が薄くなっています』
理解したくない説明だった。
だが。
何となく分かってしまう。
さっきから見ている光景がまさにそんな感じだからだ。
世界が不安定になっている。
それだけは確かだった。
「隼人」
エルザさんが呼ぶ。
見ると彼女はトンネルの方角を見ていた。
「どうする?」
「どうするって」
「帰る?」
意外な言葉だった。
てっきり突っ込むと言うと思っていた。
「帰ってもいいよ」
彼女は続ける。
「本来なら危険過ぎる」
「なら」
「でも」
そこで言葉が途切れる。
妙な沈黙。
「誰かが残ってる」
小さく呟いた。
「……誰か?」
「分からない」
エルザさん自身も困惑しているようだった。
「でも居る」
胸を押さえる。
「トンネルの中に」
その姿を見て僕は気付く。
彼女は推理しているわけではない。
知っているわけでもない。
感じているのだ。
本人にも理由が分からないまま。
まるで失われた記憶の欠片が引っ掛かっているように。
「エルザさん」
ひかりが言う。
「さっきの話」
「うん?」
「人間じゃないって」
空気が少し重くなる。
エルザさんは苦笑した。
「冗談だったら良かったんだけどね」
「冗談じゃないの?」
「分からない」
またそれだった。
だが。
今回は誤魔化している感じがしない。
本当に分からないのだろう。
「私ね」
珍しく静かな声で言う。
「昔の記憶が曖昧なんだ」
初耳だった。
「どれぐらい?」
のぞみが尋ねる。
「気付いたら日本に居た」
「え?」
「それ以前が変なの」
エルザさんは笑った。
「思い出そうとすると頭が痛くなる」
誰も何も言えない。
軽い調子で語っているが。
内容は全く軽くなかった。
「名前は覚えてる」
「エルザ?」
「うん」
そこで彼女は首を傾げた。
「でも、それも本当かなって」
妙な言い方だった。
「どういう意味だ」
「分からない」
やっぱりそれだった。
だが。
今の彼女を見ていると、何か大きな秘密があることだけは分かる。
その時。
後ろから声が聞こえた。
「あの」
登山客の女性だった。
まだ顔色は悪い。
「皆さん」
「どうしました?」
「帰った方がいいです」
震えた声。
「ここ、おかしいです」
それはそうだ。
全員が思った。
だが女性は首を振る。
「そういう意味じゃなくて」
ゆっくりと振り返る。
来た道を指差した。
「帰り道が」
嫌な予感。
「消えてます」
一斉に振り返る。
そして。
誰も言葉を失った。
あるはずの道路がなかった。
正確には。
見えていた。
だが繋がっていない。
景色が途中で途切れている。
切り取られた写真を無理やり貼り合わせたような。
不自然な空間。
「……は?」
ひかりが呟く。
珍しく完全に動揺していた。
「何これ」
誰にも答えられない。
するとスマホが震える。
嫌な予感しかしない。
『報告』
ガラムドだった。
『遅い』
『予想より早く進行しました』
『何が』
数秒後。
『閉鎖です』
『閉鎖?』
『旧刑部山トンネル周辺が局所的に切り離されました』
頭痛がする。
『もっと分かりやすく』
『閉じ込められました』
その一文を見た瞬間。
全身から嫌な汗が噴き出した。
『誰に』
『まだ不明』
『出られるのか』
返信は少し遅れた。
そして。
『普通なら無理です』
最悪だった。
神様が最悪と言う時は大抵最悪だが。
今回は本当に最悪だった。
帰り道が消えた。
山から出られない。
しかも原因不明。
「ガラムド?」
エルザさんが聞く。
「何て?」
「閉じ込められたらしい」
「なるほど」
驚くほど落ち着いた返事だった。
「じゃあ予想通りだ」
「予想してたのか?」
「少しだけ」
エルザさんはトンネルを見た。
その目が鋭くなる。
「向こうも私たちに見つかったくなかったんだろうね」
「向こう?」
「切り裂きジャック」
その名前が出た瞬間。
山の奥から風が吹いた。
冷たい風だった。
真夏とは思えないほど。
そして。
トンネルの闇の中で。
何かが動いた。
一つではない。
二つでもない。
三つ。
四つ。
五つ。
黒い人影が。
ゆっくりと闇の奥から姿を現していた。
まるで。
こちらを迎えに来るかのように。
その光景を見た瞬間。
エルザさんだけが、苦い顔で呟いた。
「思ったより状況が悪いな」
そして。
誰にも聞こえないほど小さな声で続けた。
「――こんな数、昔でも見たことない」
その一言は。
彼女自身すら気付いていない記憶の断片だった。




