第18話 切り裂きジャック(7)
誰も動けなかった。
目の前の存在が何なのか理解できなかったからだ。
黒い人影。
輪郭だけで構成されたような不自然な姿。
そして手に握られた巨大な刃。
実体があるのかどうかすら分からない。
にもかかわらず。
その異様な存在感だけは圧倒的だった。
「隼人」
エルザさんが低い声で言った。
「下がって」
「は?」
「いいから」
振り返らない。
視線を一瞬たりとも人影から逸らさない。
その態度だけで分かった。
冗談ではない。
本気だ。
僕は思わず一歩後ろへ下がる。
ひかりとのぞみも同じだった。
「エルザさん」
ひかりが呼ぶ。
「アレ、何なの?」
「知らない」
即答だった。
だが。
その返答に妙な引っ掛かりを覚えた。
知らない。
……そう言いながら、まるで知っている相手に向けるような目をしていたからだ。
その時だった。
黒い人影が動く。
音もなく。
一歩だけ前へ出た。
すると周囲の景色が揺らいだ。
蜃気楼のように。
あるいは映像のノイズのように。
木々の輪郭がぼやける。
地面が滲む。
空気そのものが不安定になったようだった。
「何だこれ……」
僕は思わず呟いた。
するとスマホが震える。
ガラムドだった。
『見えていますね』
『見えてるどころじゃない』
『予想通りです』
『説明しろ!』
珍しく既読がすぐ付いた。
『観測装置です』
『何の』
『世界の』
意味が分からない。
いや。
分かりたくない。
『もっと分かるように言え』
『簡単に言うと』
返信が届く。
『あれは人を見ています』
『だから何だ』
『見られたものは記録されます』
嫌な予感しかしなかった。
『記録されると?』
『複製可能になります』
頭痛がしてきた。
神様の説明はいつも分かりにくい。
だが今回は特に酷い。
『つまり?』
『世界を保存するための装置です』
そこでメッセージが止まる。
『ただし』
再び続く。
『正常な用途ではありません』
その一文だけは妙にはっきり理解できた。
正常ではない。
つまり誰かが悪用している。
謀反天使。
おそらくそちら側だ。
その時。
人影が再び動いた。
今度は僕たちへ向かって。
ゆっくりと。
一歩。
また一歩。
近付いてくる。
「逃げよう」
のぞみが言った。
珍しく震えた声だった。
「流石に無理だよこれ」
「賛成」
ひかりも頷く。
だが、エルザさんだけは動かなかった。
「エルザさん!」
僕が呼ぶ。
「逃げるぞ!」
「まだ駄目」
「何で!」
「確かめたいことがあるから」
その瞬間。
人影が消えた。
「――え?」
誰かが声を漏らした。
次の瞬間。
エルザさんの目の前に現れる。
速い。
いや。
速いというより。
途中の動作が存在しなかった。
まるで映像が飛んだみたいに。
「危ない!」
僕は叫んだ。
黒い刃が振り下ろされる。
だが、エルザさんは避けない。
代わりに右手を伸ばした。
そして。
刃に触れた。
金属音は鳴らなかった。
手応えもなかった。
刃は半透明だった。
いや。
半透明という表現も違う。
そこに存在しているのに存在していない。
そんな矛盾した感覚。
だが。
触れた瞬間。
エルザさんの顔色が変わった。
「――っ!」
苦痛。
初めて見る表情だった。
頭を押さえる。
よろめく。
そのまま膝をついた。
「エルザさん!」
僕は駆け寄ろうとした。
しかし。
「来るな!」
鋭い声。
反射的に足が止まる。
そして。
彼女の口から。
聞き慣れない言葉が漏れた。
「……エル……」
小さな声。
「エルディア……?」
誰の名前だろう。
少なくとも僕は知らない。
しかし。
エルザさん本人が一番驚いていた。
「何……今の……」
呆然としている。
まるで自分の口から出た言葉ではないみたいに。
その時。
黒い人影が後退した。
一歩。
二歩。
警戒するように。
いや。
怯えているように。
「……そういうことか」
エルザさんが呟く。
頭を押さえながら立ち上がる。
「思い出せないけど」
人影を見る。
「私はお前を知ってる」
空気が変わった。
黒い人影が初めて反応を見せる。
揺れたのだ。
輪郭が。
不安定な映像のように。
「なるほどね」
エルザさんは苦笑した。
「だからガラムドは私を警戒してたんだ」
その言葉に。
僕の心臓が嫌な音を立てる。
ガラムド。
警戒。
全部繋がる。
「エルザさん」
僕は静かに尋ねた。
「何を知ってるんだ」
数秒の沈黙。
そして。
彼女は困ったように笑った。
「分からない」
「は?」
「本当に分からない」
冗談ではないらしい。
「ただ」
彼女は自分の胸を押さえた。
「今ので一つだけ確信した」
「何を」
返ってきた答えは。
あまりにも奇妙だった。
「私」
エルザさんは言う。
「多分、人間じゃない」
蝉の声が遠く聞こえた。
誰も何も言えなかった。
冗談なら笑える。
だが。
今の状況でそんな冗談を言う人ではない。
そして何より。
目の前の黒い人影が。
その言葉を肯定するかのように。
一歩だけ後退した。
まるで。
エルザという存在そのものを恐れているように。
その直後だった。
山の奥から。
低い地鳴りのような音が響く。
ごごごごご、と。
地面が微かに震える。
全員が反射的に振り返った。
音は旧刑部山トンネルの方向から聞こえていた。
そしてスマホが震える。
ガラムドからの緊急通知だった。
『最悪です』
短い文章。
だが。
神様がそう言う時は、本当に最悪なのだ。
『トンネル内部の封印が破損しました』
次のメッセージを見た瞬間。
僕の背筋を冷たいものが走った。
『切り裂きジャックは一体ではありません』
山の奥。
旧刑部山トンネルの闇の中で。
何かが目を覚まそうとしていた。




