手帳4-6
続く制裁
私をリンチしたクラスメイトは停学になっていた。
2週間の停学処分。
今考えるとかなり甘い処分だった。
そんな中で教室に入り、自分の席に着くと大声で、私に声を掛けて来た奴が居た。
「お前の親、ヤクザだったのか!このヤクザの息子が!」
退院してから初めての登校日、私はリンチの見張りだった1人に食って掛かられた。
「何の事だ。話し掛けるな気分が悪い。」
言葉通りだった。
まだ目が回る。
大声でフラフラする。
今よく考えると、父と刺青のおじさんとで、加害者の関係者に、追い込みを掛けたのだろうと思う。
「テメェ…徹底的にやってやるからな!」
私の顔にツバを吐いて彼は去って行った。
ここで私は死ぬべきだったのかもしれない。
生きている事を後悔するような事が私を待っていた。
まるで針の筵のようだった。
筆舌に尽くしがたい、存在しないような扱いと、サンドバッグのような扱いを学校で受けた。
教員に助けを求めるも、更に事態を悪化させるような行動を取られ、私は学校に居場所を失った。
食べる物全てが砂を噛むような気分だった。
実際に砂を入れられた事もあった。
弁当を捨てられたのか、中身が無かった事もあった。
幸いにして、カツアゲ、つまり恐喝などの被害は、私はお金を持っていなかった。
だから恐喝の被害は無かった。
無い物は取れない。
学校もアルバイトを禁止していた。
そして学生を雇うような会社や企業は無かった。
私を恐喝出来ないのを知った、頭の悪いチンパンジーのようなクラスメイトたちが「貧乏人、貧乏ヤクザの子。」と良く言っていたのを覚えている。
カッとなって1度だけ殴りつけた事があったのだが、100倍になって返されて、目が回り嘔吐して、農家の息子が多かった学校では、痩せた私はケンカで勝てるはずも無かった。
私は何を言われても、何をされても黙っているだけが、私が学校に存在出来る、唯一の手段だったのだ。
私は早く大人になりたかった。
そうしたら両親のように好き勝手に生きる事が出来るのにと思っていた。
そんな中で教員の1人が「大学へ行かないか?」と話しかけてきた。
「大学。」
進路の中で大学というものがある。
このふざけたチンパンジーの檻の外にある施設に興味が沸いた。
絵が描きたい。
デザインの仕事がしたい。
それで生きて行けたらどんなに良いだろう。
私はそう思って高校3年間を針の筵の中で過ごした。
2017.7.28 金曜日 平成29年




