第4話 これは、お手伝いです
結婚して二年目。
私の専業主婦生活は、順調そのものだった。
朝は好きな時間に起きて、家事を済ませたら自由時間。午後は買い物に出かけたり、気になっていたお店でお茶をしたり、家でのんびり過ごしたり。
誰かに時間を拘束されることもないし、面倒な人間関係に悩まされることもない。
働かなくていい生活、最高。
そんなある日の夕食後、直人さんが少し申し訳なさそうに切り出した。
「美咲、ちょっと相談があるんだけど」
「なに? もしかして、お金の話?」
「いや、仕事の話」
その瞬間、私は箸を置いた。
「私、働きたくないって言ったよね?」
「うん。もちろん覚えてるよ」
直人さんは苦笑した。
以前、直人さんは大手IT企業で業務改善やシステム導入を担当していた。
半年前に独立し、現在は株式会社ネクストワークという会社を経営している。
中小企業向けに、ITツールを使った業務効率化を支援する会社だ。
社員は五人。設立してまだ間もないけれど、少しずつ顧客も増えてきたらしい。
私は会社の詳しいことまでは知らない。ただ、直人さんが毎日忙しそうにしていることくらいは分かっていた。
顧客の情報は専用の管理ツールで共有しているが、新しい問い合わせが増えると、その内容を整理して登録するまでに手間がかかるらしい。
「最近、新しいお客さんが増えてきてね。問い合わせの情報をまとめて、既存の顧客データと照らし合わせる作業に時間がかかっているんだ」
「それを直人さんがやっているの?」
「最終確認は僕が担当しているよ。ただ、その前段階の情報整理に手間がかかっていてね」
「それで?」
「簡単なデータ入力や情報の整理を手伝ってもらえないかなと思って」
「嫌です」
即答した。
「うん。そう言うと思った」
「分かってるなら聞かないでよ」
「でも、前に手伝えることがあったら言ってって言ってくれただろ?」
「……それは、そうだけど」
本当に頼みごとをされるなんて思っていなかったから、とは言いづらい。
あのときは、夫婦の会話として何となく口にしただけだった。
まさか本当に仕事を頼まれるとは。
「お願い。美咲は、こういう細かい情報を整理するのが得意だろう? 前に旅行の予定をまとめてくれたときも、すごく見やすかったから」
「旅行の予定と会社の仕事は違うでしょ」
「もちろん。だから、簡単な作業だけお願いしたいんだ」
直人さんが両手を合わせた。
申し訳なさそうな顔をされると、少し困ってしまう。
直人さんが忙しいのは知っている。少しくらいなら力になってあげたい。でも、それと働きたいかどうかは別問題だ。
私は働きたくない。
できることなら、これからも家事をして、好きなことをして、穏やかに暮らしていたい。
「本当に一回だけだからね」
「うん。ありがとう」
「難しいことはできないよ」
「分かってる。無理のない範囲で大丈夫だから」
こうして私は、一度だけという約束で引き受けることになった。
◇
翌日、直人さんから共有されたのは、既存の取引先情報を一覧表に整理する作業だった。
会社名や担当者名、電話番号、住所などを確認し、指定された形式にまとめていく。
担当者がそれぞれ確認していた取引先情報を、一つの表に集めて見比べられるようにしたいのだという。
直人さんから送られてきた資料を開く。
思ったより項目は多いけれど、作業そのものは単純そうだ。
特別な知識は必要ない。
これなら、私でもできそうだった。
私はノートパソコンの前に座り、作業を始めた。
会社名を確認して、担当者名を入力する。次に電話番号と住所。入力が終わったら、元の資料と見比べて間違いがないか確認する。
同じ作業の繰り返しだ。
普段の家事と違って、目の前の作業に没頭できるのは、思いのほか気持ちがよかった。
ただ、会社名や住所を別々に確認するのは面倒だった。そこで、直人さんに確認すると、作業用の表なら自由に整えていいと言われた。
会社名、住所、電話番号。
それぞれの項目が横並びになっている方が、後から確認するときにも楽だ。
表の幅を調整し、文字が見切れないように整える。
せっかく作るなら、自分が確認するときにも見やすい方がいい。
そんなことを考えながら作業を進めていると、思っていたより早く終わった。
時計を見ると、まだ一時間も経っていない。
「終わった……」
私は小さく息を吐いた。
家事の合間に少し作業をするくらいなら、そこまで大変ではないかもしれない。
もちろん、毎日やりたいとは思わないけれど。
「美咲、もう終わったの?」
様子を見に来た直人さんが、パソコンの画面を覗き込んだ。
「うん」
「早いね。もう少しかかると思っていたよ」
「項目が決まっていたからね」
直人さんは画面をスクロールしながら、一覧表に目を通した。
「ありがとう。確認もしやすい形になっているね」
「こっちの方が見やすいと思って」
「確かに。会社名と住所も並んでいるから、見比べやすいよ」
「そうでしょ?」
少し得意げに答えてしまった。
「これなら、確認にかかる時間も短くなりそうだ」
直人さんは笑顔で、入力内容を一つずつ確認していく。
「うん。間違いもなさそうだ。助かったよ」
「どういたしまして」
お礼を言われると、悪い気はしない。
それに、思っていたより簡単に終わった。
これなら、最初からそんなに嫌がらなくてもよかったかもしれない。
……いや、違う。
簡単だったからといって、仕事をするのが好きになったわけではない。
私は専業主婦なのだ。
その日の夜、直人さんは私の好きなモンブランを買ってきてくれた。
「仕事のお礼」
「一時間もかかってないのに?」
「時間だけじゃないよ。きちんと仕上げてくれたからね」
「ふうん」
私はモンブランを一口食べた。
栗のクリームは甘くて、土台の生地もおいしい。
うん。悪くない。
お手伝いをすると、ケーキがもらえるらしい。
そう考えると、少しだけ得をした気分になった。
今日はたまたま少し働いてしまったけど、良いだろう。
専業主婦生活に支障が出るほどのことでもない。
その日の私は、そう結論付けた。




