第六章 最後の蕾
それから数日。
エレノアの日常は、何事もなかったかのように過ぎていった。
朝は始業前に校舎を一巡し、誰とも顔を合わせないまま教室へ向かう。
昼休みは図書館。
放課後も図書館。
読み終えた本を棚へ戻し、また新しい本を手に取る。
誰とも話さない。
誰にも話しかけられない。
それでも、その静けさだけは彼女にとって落ち着ける場所だった。
図書館の窓から差し込む午後の光が、机に広げた本の頁を柔らかく照らしている。
今日読んでいるのは、古い農業政策について書かれた専門書だった。
紙をめくる音だけが、かすかに響く。
やがて窓の外の光はゆっくりと傾き、館内にも夕暮れの気配が忍び込んでくる。高い窓辺に落ちる光は金色から淡い橙へと変わり、静まり返った書架の間には、紙と木の匂いに混じって、どこか冷えた空気が漂い始めていた。
生徒の姿は一人、また一人と消えていく。
司書も返却作業のため奥へ入っている。
気づけば広い図書館には、エレノア一人だけが残っていた。
「ローゼンベルク嬢。」
すぐ近くで声がした。
エレノアの肩がびくりと跳ねる。
恐る恐る顔を上げると、目の前にレオニードが立っていた。
「……殿下。」
あまりにも近かった。
本に集中しすぎて、近づいてきた気配にまるで気づかなかったのだ。
エレノアは反射的に立ち上がる。
視線が周囲をさまよう。
今日座っていた席は壁際だった。
本棚と壁に挟まれ、逃げるにはレオニードの横を通るしかない。
指先が無意識に本を強く握る。
レオニードはゆっくり歩み寄った。
その歩幅は一定で、決して急がない。
「少し、お話をしたいのです。」
穏やかな声だった。
エレノアは返事ができない。
胸の奥が落ち着かない。
数日前、思わず逃げ出してしまったことまで思い出してしまう。
沈黙が流れる。
レオニードは無理に返事を求めなかった。
代わりに、小さく窓の外へ目を向ける。
「マツリカ。」
その一言に、エレノアがぴくりと反応した。
「最後の蕾が、今日咲きそうでした。」
エレノアは思わず顔を上げる。
「……本当ですか。」
「ええ。」
その瞳に、温室で見た柔らかな光が宿った。
その時だった。
図書館の入口へ続く廊下のほうから、複数の足音が近づいてくる。石張りの床を打つ音は次第に大きくなり、静かな館内にいやでも響いた。
誰かがこちらへ歩いてくる。
エレノアの表情が、一瞬で変わった。
肩が強張り、視線が入口へ向く。
レオニードはその変化にすぐ気づいた。
彼女と目が合う。
その青い瞳は、何かを確かめるように静かだった。
そして彼は、一歩だけ横へ退く。
通路が開く。
「私は今夜、温室へ参ります。」
穏やかな声だった。
「もし、ご都合がよろしければ。」
それだけ言うと、それ以上は続けなかった。
足音はもう近い。
エレノアは小さく息を呑み、通路を抜ける。
「……失礼いたします。」
ほとんど消え入りそうな声だった。
そのまま図書館を飛び出す。
廊下に出ると、少し冷えた空気が頬をかすめた。窓の外では空が暗くなり始めている。走るたびに、制服の裾が揺れ、胸の奥で速く打つ鼓動が耳の内側まで響いてくる。
◇◇◇
温室へ着く頃には、息が少し上がっていた。
扉を開けた先には、湿った土と青い葉の匂いが満ちている。ガラス越しに夕陽が差し込み、室内を柔らかな橙色へ染めていた。
エレノアは真っ直ぐマツリカの前へ向かった。
昨日まで固く閉じていた最後の蕾。
その先端が、ほんの少しだけ開き始めていた。
「……本当に。」
今日咲く。
香りも、微かに漂い始めている。
エレノアは静かにしゃがみ込む。
昨日までの緊張が、少しだけほどけた。
図書館での出来事が、頭に浮かぶ。
人の気配。
王子。
通路を開けてくれたこと。
あのまま引き止めることもできたはずなのに。
それはしなかった。
「……。」
王子は。
私が人目を気にしたことに、気づいたのだろうか。
そこまで考えて、エレノアは首を小さく振る。
違う。
そんなことを考える必要はない。
むしろ。
一度きちんと話した方がいい。
「もう、私に関わらないでください。」
そう伝えれば。
きっと終わる。
静かな毎日へ戻れる。
そのはずだった。
……そう思いたかった。




