↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
6/11

第六章 最後の蕾

それから数日。


エレノアの日常は、何事もなかったかのように過ぎていった。

朝は始業前に校舎を一巡し、誰とも顔を合わせないまま教室へ向かう。

昼休みは図書館。

放課後も図書館。

読み終えた本を棚へ戻し、また新しい本を手に取る。

誰とも話さない。

誰にも話しかけられない。

それでも、その静けさだけは彼女にとって落ち着ける場所だった。

図書館の窓から差し込む午後の光が、机に広げた本の頁を柔らかく照らしている。

今日読んでいるのは、古い農業政策について書かれた専門書だった。

紙をめくる音だけが、かすかに響く。

やがて窓の外の光はゆっくりと傾き、館内にも夕暮れの気配が忍び込んでくる。高い窓辺に落ちる光は金色から淡い橙へと変わり、静まり返った書架の間には、紙と木の匂いに混じって、どこか冷えた空気が漂い始めていた。

生徒の姿は一人、また一人と消えていく。

司書も返却作業のため奥へ入っている。

気づけば広い図書館には、エレノア一人だけが残っていた。


「ローゼンベルク嬢。」


すぐ近くで声がした。

エレノアの肩がびくりと跳ねる。

恐る恐る顔を上げると、目の前にレオニードが立っていた。


「……殿下。」


あまりにも近かった。

本に集中しすぎて、近づいてきた気配にまるで気づかなかったのだ。

エレノアは反射的に立ち上がる。

視線が周囲をさまよう。

今日座っていた席は壁際だった。

本棚と壁に挟まれ、逃げるにはレオニードの横を通るしかない。

指先が無意識に本を強く握る。

レオニードはゆっくり歩み寄った。

その歩幅は一定で、決して急がない。


「少し、お話をしたいのです。」


穏やかな声だった。

エレノアは返事ができない。

胸の奥が落ち着かない。

数日前、思わず逃げ出してしまったことまで思い出してしまう。


沈黙が流れる。


レオニードは無理に返事を求めなかった。

代わりに、小さく窓の外へ目を向ける。


「マツリカ。」


その一言に、エレノアがぴくりと反応した。


「最後の蕾が、今日咲きそうでした。」


エレノアは思わず顔を上げる。


「……本当ですか。」


「ええ。」


その瞳に、温室で見た柔らかな光が宿った。

その時だった。

図書館の入口へ続く廊下のほうから、複数の足音が近づいてくる。石張りの床を打つ音は次第に大きくなり、静かな館内にいやでも響いた。

誰かがこちらへ歩いてくる。

エレノアの表情が、一瞬で変わった。

肩が強張り、視線が入口へ向く。

レオニードはその変化にすぐ気づいた。

彼女と目が合う。

その青い瞳は、何かを確かめるように静かだった。


そして彼は、一歩だけ横へ退く。

通路が開く。


「私は今夜、温室へ参ります。」


穏やかな声だった。


「もし、ご都合がよろしければ。」


それだけ言うと、それ以上は続けなかった。

足音はもう近い。

エレノアは小さく息を呑み、通路を抜ける。


「……失礼いたします。」


ほとんど消え入りそうな声だった。

そのまま図書館を飛び出す。

廊下に出ると、少し冷えた空気が頬をかすめた。窓の外では空が暗くなり始めている。走るたびに、制服の裾が揺れ、胸の奥で速く打つ鼓動が耳の内側まで響いてくる。


◇◇◇


温室へ着く頃には、息が少し上がっていた。

扉を開けた先には、湿った土と青い葉の匂いが満ちている。ガラス越しに夕陽が差し込み、室内を柔らかな橙色へ染めていた。

エレノアは真っ直ぐマツリカの前へ向かった。

昨日まで固く閉じていた最後の蕾。

その先端が、ほんの少しだけ開き始めていた。


「……本当に。」


今日咲く。

香りも、微かに漂い始めている。

エレノアは静かにしゃがみ込む。

昨日までの緊張が、少しだけほどけた。

図書館での出来事が、頭に浮かぶ。

人の気配。

王子。

通路を開けてくれたこと。

あのまま引き止めることもできたはずなのに。

それはしなかった。


「……。」


王子は。

私が人目を気にしたことに、気づいたのだろうか。

そこまで考えて、エレノアは首を小さく振る。

違う。

そんなことを考える必要はない。

むしろ。

一度きちんと話した方がいい。


「もう、私に関わらないでください。」


そう伝えれば。

きっと終わる。

静かな毎日へ戻れる。

そのはずだった。

……そう思いたかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。