第五章 雨の気配
放課後。
授業を終えた生徒たちは、それぞれ帰り支度を始めていた。
エレノアは誰よりも早く教室を出る。その歩みにはどこか落ち着かなさがあった。
向かう先は、温室だった。
昼間の陽射しを浴びた温室は昨夜とはまるで違う。
ガラス越しに差し込む夕陽が植物を淡く照らし、葉の緑を鮮やかに浮かび上がらせている。
静かな空気の中を歩き、昨夜マツリカが咲いていた場所へ向かった。
白い花はもう萎んでいた。
細くしぼんだ花弁は静かに俯き、昨夜の香りもほとんど残っていない。
エレノアはしゃがみ込み、そっと花を見つめた。
その指先は花に触れる寸前で止まり、ためらうように一度だけ空中で揺れた。触れてしまえば何かが変わるとでも思っているような、慎重すぎる動きだった。
「……また夜に会いましょう。」
誰へ聞かせるでもない、小さな独り言だった。
その時。
「ローゼンベルク嬢。」
静かな声が響く。
エレノアの肩が跳ねる。
振り返る。
入口の前。
レオニードが立っていた。
彼女は一瞬だけ息を止め、次の瞬間には花のそばから半歩だけ身を引いた。逃げようと反射的に足を動かそうとして、止まる。
入口には王子。
反対側はガラス張り。
逃げ道はなかった。
エレノアは小さく息を吸う。
「……殿下。」
声は落ち着いていたが、どこか硬い。視線もすぐには合わず、レオニードの肩越しに出口の位置を確かめるように揺れた。
「安心してください。」
レオニードは穏やかに微笑んだ。
「今日は驚かせるつもりはありません。」
その声は昨夜と同じだった。
柔らかく、落ち着いている。
だがエレノアは、ほんのわずかに眉を寄せたまま、すぐには緩まなかった。安心したというより、相手の言葉を慎重に測っているようだった。
「昨日見た花のことを少し知りたくて来ました。」
「……マツリカ、ですか。」
「ええ。」
少しだけ沈黙が流れる。
エレノアはこわばったまま、その場に立ち尽くしていた。
レオニードも無理に距離を縮めようとはしない。
「それと。」
彼は静かに続けた。
「図書館で置き忘れていた本ですが。」
エレノアの身体がぴくりと反応する。
その反応はあまりに小さかったが、すぐに彼女は表情を整えた。けれど、ほんの一瞬だけ、指先が強く握られる。
「医学書でした。」
「……はい。」
「薬学へ興味があるのですか。」
エレノアは少しだけ視線を下げた。
「植物が好きなので。」
「植物。」
「薬になるもの……多いですから。」
短い返事。
けれど嘘ではなかった。
ただ、その言い方には、必要以上に踏み込まれたくないという気配が混じっていた。説明はしているのに、そこから先へは進ませない。そんな距離の取り方だった。
レオニードは静かに頷く。
「なるほど。」
昨日の夜。
花。
今日。
医学書。
点だったものが、少しだけ線になった気がした。
エレノアは胸の奥で小さく安堵する。
薬学まで説明すれば、それ以上聞かれない。
そう思った。
だが、彼女の視線はどこか落ち着かないまま、温室の天井近くにある小窓へと何度も吸い寄せられていた。
その時だった。
ふわりと風が吹き、鳥が羽ばたいた。
エレノアの表情が変わる。
それまで保っていた静けさが、ほんの一瞬で崩れた。ゆっくりと顔を上げる。
窓の外。
西の空。
「……。」
「どうしましたか。」
「帰ります。」
あまりにも突然だった。
レオニードが目を瞬く。
「何かございましたか。」
「雨が降ります。」
短く答える。
その声は、先ほどより少しだけ硬かった。まるでそれ以上聞かれたくないとでも言うように、言葉が切り詰められている。
レオニードは外を見る。
夕焼け空だった。
それでも彼は止めなかった。
エレノアは小さく頭を下げる。
「失礼いたします。」
そう言うと、足早に温室を後にした。
扉が閉まる直前、彼女は一度だけ振り返った。けれどその視線はレオニードではなく、温室の中のどこか、花の影のあたりをかすめるようにしてすぐ逸れた。
レオニードはその背中を見送る。
なぜ急に帰ったのか。
分からない。
だが、彼女は先ほどまでとは違う空気を纏っていた。
胸の奥に、小さな違和感だけが残る。
◇◇◇
生徒会室。
レオニードは書類へ目を通していた。
向かいではヴィンセントが報告書を整理している。
部屋は静かだった。
やがて、窓の外から雨音が聞こえ始める。
ヴィンセントが顔を上げる。
レオニードは雨を見つめていた。
「……殿下。」
「なんだ。」
「今日は、何か良いことでもございましたか。」
レオニードは少しだけ目を瞬く。
「なぜそう思う。」
「いえ。」
ヴィンセントは小さく首を振る。
「少しだけ、楽しそうなお顔をされていましたので。」
レオニードは答えなかった。
窓を叩く雨音を聞きながら、温室での最後の言葉を思い返していた。
『雨が降ります。』
あの時は、まだ降っていなかった。
それなのに。
本当に降った。
静かな雨音を聞きながら、レオニードは小さく目を細める。
「なぜわかった‥」
その呟きは、雨音の中へ静かに溶けていった。




