第四章 残された本
夏季休暇が明けて二日目の朝。
王立アストレア学園の中庭では生徒たちが談笑し、校舎へ向かう廊下には明るい笑い声が響いていた。
その中心に立つのは、第一王子レオニード・アルヴェインだった。
「殿下、おはようございます。」
「夏季休暇はいかがお過ごしでしたか?」
「ぜひこちらもご覧くださいませ。」
次々と令嬢たちが集まり、穏やかな笑みを浮かべるレオニードへ声を掛ける。
彼は一人ひとりへ丁寧に返事をし、誰にも分け隔てなく微笑みを向けていた。
完璧な王子。
それが、皆の知るレオニードだった。
だが、その輪から少し離れた廊下に目を向けたとき、彼の視線はふと止まる。
エレノアが本を抱え、いつも通り静かに歩いていた。
誰とも目を合わせない。
誰にも気づかれないように、ただ通り過ぎていく。
その姿は、周囲の喧騒から切り離されたように見えた。
レオニードは一瞬だけ彼女を見つめる。
昨夜の温室。
月明かりの下で咲いていたマツリカ。
そして、あの笑顔。
彼女は確かに、あのとき笑っていた。
それなのに今は、まるで最初からそこにいなかったかのように視線を伏せている。
ほんのわずかな違和感が胸の奥に残ったが、レオニードはすぐに令嬢たちへ穏やかな笑みを返した。
昼間の学園で不用意に声を掛ける理由はない。
そう判断したのは自然なことだった。
けれど、彼女があまりにも早く視界の端から消えていったことだけが、妙に気に掛かった。
◇◇◇
昼休み。
レオニードは図書館へ足を運んだ。
昨夜見た花。
夜にだけ咲くというマツリカ。
昼間はどのような植物なのか、少し興味が湧いたのだ。
静かな館内へ入る。
紙と革表紙の香り。
高い窓から差し込む柔らかな光。
その奥で、一人の少女が本を読んでいた。
エレノアだった。
彼女は分厚い本へ集中し、周囲にはまるで気づいていない。
レオニードは足音を抑え、静かに近づいた。
「ローゼンベルク嬢。」
声は穏やかだった。
図書館で司書へ話し掛けるような、ごく自然な調子だった。
エレノアが顔を上げる。
目が合った。
その瞬間、彼女の表情が強く揺れる。
「……っ!」
びくりと肩を震わせた彼女は、立ち上がった。
「あ……。」
何か言おうとしたようだった。
だが言葉になる前に、彼女は踵を返す。
次の瞬間には書架の向こうへ走り去っていた。
まるで、そこにいること自体が許されないとでもいうように。
静寂。
レオニードはその場へ立ち尽くす。
逃げた。
そう理解するまで、ほんの一拍遅れた。
「……逃げられた。」
思わず小さく呟く。
話しかけ方が悪かっただろうか。
何か失礼なことを言っただろうか。
考えても思い当たらない。
だが、彼女の反応はあまりにも明確だった。
昨夜、あれほど柔らかく笑っていた少女が、今は一言も交わせないまま逃げ去った。
その落差が、胸の奥に小さな棘のように残る。
ふと、机の上へ目を向ける。
一冊の本だけが置かれていた。
慌てて立ち去ったため、置いたままになってしまったらしい。
レオニードは静かに本を手に取る。
題名を見て、わずかに目を見開いた。
『王立医学大全 第五巻』
医学書。レオニードは指先でそっとページを繰った。乾いた紙が擦れ、静かな図書館に小さな音を落とす。高度な専門書に分類される難解な本だった。
「……これを?」
男爵令嬢が読むには、あまりにも高度な内容だった。
昨夜は花。
今日は医学。
逃げるように去った背中と、机に残された重い専門書。
その組み合わせが、ますます彼の中の違和感を強めていく。
花を調べに来たはずだった。
それなのに、気づけば彼女が何を読んでいるのか、なぜ逃げたのか、そのことばかり考えている。
その時、司書が近づいてきた。
「殿下、何かございましたか。」
レオニードは本を軽く持ち上げる。
「こちら、返却をお願いできますか。机に置き忘れてしまったようです。」
司書は表紙を見るなり、小さく頷いた。
「かしこまりました。」
レオニードはもう一度、本へ視線を落とした。
「そうか。」
短く答え、本を司書へ渡す。
だが、手放したあとも、彼の意識はしばらくその本から離れなかった。
花を調べに来たはずだった。
それなのに。
彼女が何を読んでいたのか、なぜあれほど慌てて逃げたのか。
その二つが、頭の中で何度も重なっては離れない。
図書館を出る。
廊下へ戻ると、再び令嬢たちが集まってきた。
「殿下!」
「午後のお時間はございますか?」
「ご一緒できましたら――」
レオニードはいつも通り穏やかに微笑む。
誰もが見慣れた、完璧な王子の笑顔だった。
けれど、その笑みを浮かべながらも、彼の意識はどこか落ち着かなかった。
昨夜は笑っていた。
今朝は視線を逸らした。
昼には逃げた。
その変化が、ただの気まぐれや偶然とは思えない。
少しずつ、胸の奥に残る違和感が形を持ちはじめていた。
その頃、図書館から少し離れた渡り廊下の陰で、エレノアは足を止めていた。
胸が苦しいほど早く脈打っている。レオニードの声を聞いた瞬間、驚きのあまり逃げ出してしまった。
けれど、走り去ったあとで気づく。机の上に、本を置き去りにしてきてしまったことに。
「……私、何をしているの」
小さく呟き、エレノアは唇を噛んだ。
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