第三章 月夜の違和感
彼はエレノアの緊張を和らげるように微笑み、
「……ローゼンベルク嬢、お邪魔をしてしまいました。私はこれで失礼します」
と告げた。
静かに一礼し、温室を後にする。
外へ出ると、夜風が頬を撫でた。
昼の熱を失った石畳はひんやりと冷たく、月明かりだけが静かな学園を照らしている。
レオニードはゆっくりと歩き出した。
夜の学園。
人のいない校舎。
昼間とは違う表情を見せるこの時間を、彼は嫌いではなかった。
今日ここへ来たのは、散歩のためではない。
国王教育。
卒業まで残り半年。
学園で学ぶ時間も、もう長くはない。
だからこそ、昼間では見えないものを見ておきたかった。
警備体制。
建物の老朽化。
夜間の巡回経路。
非常時の避難経路。
将来、この国を治める者として知るべきことは、教科書の中だけにはない。
実際に歩き、自分の目で見て、自分の頭で考える。
それが幼い頃から身についた習慣だった。
静かな廊下を進みながら、小さく息を吐く。
今夜も有意義だった――そう思った、そのときだった。
「ローゼンベルク嬢、か」
自然と名前が口をつく。
エレノア・フォン・ローゼンベルク。
男爵家の令嬢。
五年生。
授業には真面目に取り組み、成績も平均よりやや上。
教師の口にのぼることも、社交界でその名を耳にすることもほとんどない。
良くも悪くも目立つ人物ではない。
だからこそ、覚えていた理由は一つだけだった。
レオニードは、学園に在籍するすべての生徒の名前と家柄を把握していた。
それは王子として当然の務めだ。
ただ、それだけだった。
今日までは。
歩みを止め、月を見上げる。
静かな夜だった。
ふと、白い花が脳裏に浮かぶ。
夜にだけ咲く花、マツリカ。
その前に立つ少女は、細い指先を花弁のすぐそばに添え、月明かりを受けた横顔を静かに花へ向けていた。
淡い光に縁取られた唇が、ほんのわずかに緩む。
昼間のような怯えも緊張もそこにはなく、息を殺すような静けさの中で、ただ花の香りを確かめるように見つめていた。
やがて、
「綺麗……」
と零れた声は、夜気に溶けるほど小さかった。
思い出したのは、その笑みだ。
唇の端がほんの少しだけ上がり、目元まで柔らかくほどけた、控えめで、けれど確かに温かい笑み。
誰かに見せるためのものではなく、目の前の花にだけ向けられた、静かな喜びがそのまま形になったような表情だった。
派手ではない。
誰かを魅了しようとするものでもない。
それでも、不思議と目を離せなかった。
だからこそ、逃げようとする彼女の手を咄嗟に掴んでしまった。
自嘲気味に苦笑しながら、
「女性に何をしているんだ」
と小さく呟いた。
本当に少しだけ、今まで知っていた「ローゼンベルク嬢」という名前に、新しい輪郭が加わった。
夜に咲く花を見に、一人で温室へ忍び込む少女。
そんな令嬢は、他に知らなかった。
王城へ戻る道すがら、レオニードは静かに目を閉じた。
白い花の白さも、あの笑みの柔らかさも、月明かりの中でひとつに溶けていた。その全部が、静かに胸を打つほど美しく感じられた。
「……良いものを見た。」
誰へ言うでもなく呟き、レオニードはゆっくりと歩き出した。




