第二章 夜に咲く花
新学期初日。
王立アストレア学園は、夏季休暇を終えた生徒たちで賑わっていた。
久しぶりに再会した友人同士が笑い合い、休暇中の出来事を語り合う声が中庭へ響いている。
エレノアは、その輪から少し離れた場所を静かに歩いていた。
誰とも話さず、自分の席へ座る。
それが、彼女の日常だった。
授業は滞りなく進み、昼休みも図書館で過ごす。
昨日聞いた「夜に咲く花」が気になり、植物図鑑を何冊も開いてみた。
その中の一冊に、ようやく「マツリカ」の記述を見つける。
――夜に香りを強める白い花。月明かりの下でひっそりと咲く。
細い文字を指でなぞりながら、エレノアは小さく息を呑んだ。
「……学園の温室なら。」
ぽつりと呟く。
この学園には王都でも有数の温室がある。
珍しい植物も多く育てられていると聞いたことがあった。
◇◇◇
夜。
王都が眠りにつく頃。
エレノアは黒い外套を羽織り、屋敷を抜け出した。
慣れた道を歩く。
人気のない裏道。
石塀。
古い樹木。
月明かりだけを頼りに、静かに学園へ近づいていく。
夜気はひんやりとしているのに、土と草の匂いを含んでいて、どこか生き物の息づかいを感じさせた。
忍んで入った夜の学園は静かだった。
昼間とはまるで別の場所のようだ。
風が木々を揺らし、虫の声だけが遠くで響いている。
やがて温室へ辿り着く。
古いガラス戸を静かに開けると、むっとするほど柔らかな湿気を含んだ空気が、ふわりと頬を撫でた。
夜露を抱いた葉の匂い、土の甘い香り、花弁から滲む淡い芳香が重なり合い、胸の奥まで静かに満ちていく。
ガラス越しに差し込む月光は白く澄み、温室の床や葉の輪郭を銀色に縁取っていた。
奥へ進む。
昼間には咲いていた花々のほとんどは、夜の気配に合わせて花弁を閉じたままだった。
その中に、一輪。
白い小さな花が目に留まった。
花弁は薄絹のように繊細で、月光を受けて静かに透けている。
「……マツリカ。」
近づく。
甘く、どこか懐かしい香り。
それは強すぎず、静かな夜に溶けるような匂いだった。
誰かへ誇るためでもなく。
誰かに見てもらうためでもなく。
ただ静かに咲いていた。
エレノアはそっと微笑む。
「綺麗……。」
その時だった。
背後で、小さく足音が鳴る。
エレノアの身体がびくりと跳ねた。
一瞬で血の気が引き、指先が冷たくなる。
息を吸うことさえ忘れたまま、背中に鋭い視線を感じた気がして、喉の奥がきゅっと締まった。
誰かいる。
振り返るより先に、反射的に一歩後ろへ下がる。
暗がりの向こうから、一人の青年が姿を現した。
白銀の髪。
整った顔立ち。
その存在だけで、温室の空気が一変したように感じる。
第一王子、レオニード・アルヴェイン。
エレノアの顔から血の気が引く。
――どうして、ここに。
心臓が嫌なほど速く打ち始める。
逃げなければ。
見つかってはいけない。
この場にいること自体が、あまりにも危うい。
踵を返そうとした、その瞬間。
白い手が伸び、エレノアの手首をそっと掴んだ。
「お待ちください。」
穏やかな声が響く。
それなのに、背筋をなぞるような緊張が走る。
エレノアは反射的に、その手を振り払ってしまった。
指先が離れた瞬間、しまった、と息が止まる。
王子の手を払い退けるなんて、不敬だ。
血の気が引き、身体が強張る。
振り返ったまま、エレノアは固まってしまった。
レオニードは怒るでもなく、優しい微笑みを浮かべる。
「驚かしてしまいましたね。ローゼンベルク嬢。」
名前を呼ばれ、エレノアは目を見開く。
まさか、こんな夜更けに、しかもこの場所で見つかるとは思っていなかった。
レオニードは静かに周囲へ目を向けた。
月明かり。
温室。
閉じたままの花々。
そして、マツリカの前へ立つ少女。
視線が自然と白い花へ移る。
「……花がお好きなのですね。」
「……はい。」
それだけ答える。
声が思ったよりも硬くなった。
葉の上の水滴は月光を受けて微かに揺れ、遠くで夜の虫が一声だけ鳴いた。
レオニードはマツリカを見つめた。
「……夜にだけ咲く花なのですね。」
小さく漏れた独り言。
エレノアは小さく頷いた。
そして、もう一度だけ白い花へ視線を向ける。
花弁は夜風にも揺れることなく、静かに月明かりを受けて咲いている。
エレノアは、その白い花から目を離せなかった。
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