第一話 夏の終わり
初投稿作品です。読んでいただけたら嬉しいです。
第一話 夏の終わり
夏の終わり。
領地での数か月を終えたエレノア・フォン・ローゼンベルクは、王都の屋敷へ戻ってきていた。
屋敷へ荷物を運び終えた使用人たちは、軽く一礼すると帰り支度を始めた。
「お嬢様、お帰りなさいませ。」
「ありがとうございます。」
「それでは、また明日参ります。」
「はい。よろしくお願いします。」
扉が閉まる。
その音が消えると同時に、広い屋敷は静寂へ包まれた。
冷えきった空気。
磨き上げられた床。
夕暮れの淡い光だけが長い廊下を照らしている。
広い屋敷なのに、人の気配はもうない。
父はまだ領地に残り、仕事を片づけていた。
エレノアは静かに自室へ戻る。
椅子へ腰を下ろす。
硬い木の感触が背中へ伝わる。
それだけのことなのに、身体の奥がひやりとした。
ここは安全だと、頭ではわかっている。
けれど、静かすぎる部屋にひとりでいると、胸の奥に沈めていたものが、ゆっくりと浮かび上がってくる。
気づけば両手を強く握り締めていた。
指先が白くなるほど。
小さく震えていた。
――まただ。
胸の奥が軋む。
雨音。
稲光。
幼い自分。
泣き叫ぶ声。
暗闇。
あの夜の断片が、何の前触れもなく胸の内側を叩く。
「……っ。」
息が詰まる。
肩が震える。
違う。
ここは王都。
雨など降っていない。
窓の外に広がるのは、静かな夕暮れだけだ。
何度そう言い聞かせても、身体だけはあの日へ戻ってしまう。
ゆっくり目を閉じる。
大丈夫。
もう終わったこと。
何度も、何度も心の中で繰り返す。
それでも震えは止まらない。
喉の奥がきゅっと狭くなり、呼吸が浅くなる。
コンコン。
控えめなノックが響いた。
「エレ。」
聞き慣れた声だった。
その声だけで、張り詰めていた糸が少しだけ緩む。
「……どうぞ」
扉が開く。
赤い髪を後ろで一つに結んだ青年が顔を覗かせた。
ルーカスだった。
彼は部屋に入るなり、すぐにエレノアの様子を見た。
握りしめたままの手。
少し強張った肩。
伏せられたままの視線。
何も言わなくても、十分だった。
「おかえり。夕飯できてるぞ。」
いつも通りの、少し明るい声。
けれど、その明るさは無理に空気を変えようとするものではなく、彼女が息をしやすいように、そっと差し出されたものだった。
エレノアは慌てて手をほどき、膝の上へ置く。
「……ごめんなさい。」
「何が?」
「待たせたかと思って。」
ルーカスは小さく肩をすくめた。
「俺も今来た。」
嘘だった。
少し前から部屋の前に立ち、物音を待っていた。
扉を叩くタイミングを、何度も見計らっていた。
けれど、それを言えば彼女が気にする。
だから言わない。
代わりに、彼はわざと軽く息をついてみせた。
「今日はお袋が、お前の好きなシチュー作ってる。」
「本当?」
「ああ。」
その一言だけで、エレノアの表情が少しだけ柔らかくなる。
ほんのわずかに緩んだその顔を見て、ルーカスは内心でほっとした。
「行こう。」
「……うん。」
立ち上がったエレノアは、部屋を出る前に一度だけ窓の外を見つめた。
夏の終わりの空は穏やかだった。
それでも、指先は無意識に小さく握られていた。
その手を見て、ルーカスは何も言わず、少しだけ歩調を落とした。
◇◇◇
「おかえりなさい、エレちゃん。」
食卓では、ルーカスの母が優しく微笑んだ。
「いただきます。」
穏やかな夕食だった。
他愛のない話を交わしながら時間は過ぎていく。
エレノアも、最初はどこか硬かった表情を少しずつ和らげていった。
ふと、窓の外へ視線を向けた母が、小さく笑った。
「もう少ししたら、夜だけ咲く花が見頃になるわ。」
「夜だけ?」
「ええ。昼間は蕾のままなのに、月が昇る頃になると静かに花を開くの。」
エレノアは少しだけ目を細めた。
「……素敵ですね。」
その小さな笑顔を見て、ルーカスの母も微笑み返した。
その夜。
自室へ戻ったエレノアは、静かな天井を見つめていた。
眠気は来ない。
いつものことだった。
けれど、さっきまでの胸のざわめきは、夕食の温かさで少しだけ和らいでいる。
机の上に積んだ本を開き、夜に咲く花について書かれた頁を一つずつ探していく。
植物図鑑。
古い花の記録。
庭園の本。
月明かりの下で咲く花の名を知りたくて、指先で紙をめくる。
明日から学園。
何事もなく過ごせますように。
その願いを胸に、エレノアは本の頁へ視線を落とした。
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