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第七章 静かに過ごしたいだけ

夜。


昼間の熱を失った温室には、静かな月明かりが差し込んでいた。

湿り気を含んだ空気の中へ、草花の匂いがゆっくりと溶け込んでいる。

レオニードはマツリカの前で静かに立っていた。

 

誰もいない。

 

昼間なら令嬢たちの視線が集まるこの場所も、夜は虫の声だけが響いている。

彼は小さく息を吐いた。


「……夜の温室へ女性を呼び出すなど。」


自嘲気味に苦笑する。

冷静になれば、王子として褒められた行動ではない。

昼間に話しかければ彼女は逃げる。

人目があれば、もっと困らせる。

だから夜を選んだ。

それでも、これが正しいとは思えなかった。

だが。

彼女と一度だけ、落ち着いて話がしたかった。

それだけだった。

静かな足音が聞こえた。

振り返る。

温室の入口に、エレノアが立っていた。

黒い外套を羽織り、少しだけ息を弾ませている。

レオニードは思わず表情を和らげた。


「来てくださって、ありがとうございます。」


王子らしい穏やかな微笑みだった。

エレノアは一歩も近づかないまま、小さく首を横へ振る。


「……花を見に来ただけです。」


その答えに、レオニードは少しだけ笑った。


「それでも構いません。」


二人の間へ沈黙が落ちる。

 

風が吹き、開き始めたマツリカが小さく揺れた。

レオニードはその花を見つめながら口を開く。


「一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか。」


「……はい。」


「先日の雨です。」


エレノアはわずかに瞬きをした。


「降る前に分かっておられました。」


「……はい。」


「どうしてですか。」


エレノアは窓の外へ目を向ける。


「風です。」


「風。」


「匂いも変わります。」


少し考えてから続ける。


「鳥も低く飛びます。」


「なるほど。」


「農村では、皆わかります。」


あまりにも自然な口調だった。

特別なことではない。

そんな言い方だった。

レオニードは静かに頷く。

王城で育った自分にはない感覚だった。

だからこそ、新鮮だった。

けれど同時に、彼女にとっては本当に当たり前のことなのだと、その言葉の端々から伝わってきた。誇るでもなく、教えようとするでもなく、ただ事実として口にしている。その素朴さが、かえって彼女の暮らしを思わせた。

 

少し間を置き、今度は彼女へ視線を向ける。


「もう一つ。」


「……。」


「図書館で読んでおられる本です。」


エレノアの肩がわずかに揺れた。


「医学書だけではありませんでした。」


静かな声が続く。


「農政。」


「経済倫理。」


「社会学。」


「どれも専門書でした。」


エレノアは黙ったまま視線を伏せる。

レオニードは責めるような口調ではなかった。

純粋な疑問だった。


「植物がお好きだから薬学を学ぶ。」


「それは理解できます。」


「ですが、それだけでは繋がらない本も多い。」


エレノアはしばらく黙っていた。

やがて、短く答える。


「必要だからです。」


「必要?」


「知っていなければ、困ることがあります。」


「……誰が、ですか。」


「私が。」


それだけだった。

レオニードは言葉を失う。

本を読むだけの令嬢ではない。知識を飾りにしているのでもない。彼女は、学んだことを自分の暮らしと結びつけて考えている。だからこそ、あの図書館で見た本の並びも、先ほどの雨の読み取りも、すべて一本の線で繋がって見えた。

そして同時に、別のことにも気づいてしまう。

彼女は、ただ静かに過ごしたいだけなのだ。

目立ちたくない。

誰かに見られたくない。

王子に話しかけられることすら、負担になる。

それなのに自分は、興味のままに近づき、問いかけ、彼女の逃げ場を少しずつ狭めていたのではないか。

その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥がひやりとした。

やがて。

エレノアが小さく息を吸った。


「……殿下。」


「はい。」


「お願いがあります。」


その声は震えてはいなかった。

けれど、どこか張りつめていた。

言葉を選ぶように、ほんの少しだけ間を置く。


「もう、私に構わないでください。」


静かな言葉だった。

だが、その静けさの奥には、はっきりとした拒絶があった。

エレノアは視線を上げないまま続ける。


「私は目立ちたくありません。」


「殿下とお話ししているだけで、周りに見られます。」


「噂になります。」


「……私は、静かに過ごしたいだけなんです。」


最後の一言は、ほとんど願いに近かった 

温室は再び静寂へ包まれた。

レオニードは彼女を見つめる。

ようやく分かった。

逃げていた理由。

図書館で怯えていた理由。

人が近づいた瞬間、表情が変わった理由。

全部、繋がった。

彼女は自分を避けていたのではない。

ただ、これ以上波風を立てたくなかったのだ。

誰かに注目されることが、どれほど彼女にとって重いのか。どれほど気を張らせるのか。今の言葉で、ようやくそれが胸に落ちた。


「……そうでしたか。」


小さく頷く。

責める気持ちは、不思議なくらい湧かなかった。

むしろ。

申し訳なさの方が大きかった。

自分は善意のつもりだった。

けれど、その善意が彼女を困らせていた。

その事実を、今ようやく理解した。

胸の奥に、遅れて痛みが広がる。

彼女がどれほど気を遣ってここまで来たのかを思うと、軽々しく呼び出した自分がひどく無神経に思えた。王子としての立場を持つ自分なら、なおさら配慮すべきだったはずなのに。

レオニードは一度、深く息を吸った。


「……申し訳ありません。」


言葉は自然にこぼれた。


「あなたがそう望んでいたのに、気づくのが遅れました。」


「私の興味で、あなたを困らせていたのですね。」


月明かりの下で、彼は静かに目を伏せる。


「もう、無理に話しかけません。」


それは取り繕った約束ではなかった。

本当に、そうしなければならないと思った。

エレノアは何も答えない。

ただ、わずかに肩を強ばらせたまま、視線を落としている。

月明かりの下で咲くマツリカが、静かに最後の花を開き始めていた。

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