第二十章 二人だけの一曲
「……疲れていらっしゃいますか?」
その問いに、レオニードは一瞬だけ目を瞬かせた。
それから、思わず小さく笑う。肩の力がふっと抜けるような、柔らかな笑みだった。
「そう見えますか?」
いつもの王子らしい微笑みではない。
どこか気の抜けた、自然な笑みだった。
エレノアはわずかに首を傾げる。
先ほど一瞬だけ見えた疲れた表情は、もうどこにもない。
見間違いだったのだろうか。
少し迷ってから、彼女は小さく口を開いた。
「……たくさんの方と踊られていましたから」
「お疲れになるのも、当然かと」
そう言って、照れ隠しのように本へ目を落とす。
レオニードは、その横顔をしばらく見つめていた。
誰かに、そんなふうに気遣われたことはなかった。
王子だから。
踊れて当然。
笑って当然。
疲れなど見せてはいけない。
そう思われ続けてきた。
だからこそ。
「疲れていますか」
その一言が、胸の奥へ静かに染み込んでいく。
窓の外から、舞踏会の音楽がかすかに届いていた。
遠く、けれど確かに、華やかな旋律だけが静かな資料室にまで流れ込んでくる。
レオニードは音のする方へ耳を傾けると、静かに彼女の前へ歩み寄った。
一歩。
また一歩。
エレノアが顔を上げる。
レオニードは丁寧に一礼した。
完璧な所作。
舞踏会で何度も繰り返してきた動き。
けれど今は、誰かに見せるためのものではない。
ただ一人に向けた礼だった。
「……せっかくですから。」
そこで一拍、言葉を切る。
「ここなら、誰にも見られません。」
「一曲だけ、いかがでしょう。」
エレノアは目を丸くする。
「ここで、ですか?」
「ええ」
「ですが……」
資料室を見回す。
本棚に、机に、椅子。
とても踊るような場所ではない。
レオニードは小さく笑った。
「身体を動かすのは、お好きなのでしょう?」
エレノアは少しだけ目を伏せる。
確かに、嫌いではない。
踊ることも。
窓の外から届く音楽だけがある。
少し迷ったあと、エレノアはそっと手を差し出した。
「……よろしくお願いいたします」
白く細い指先。
レオニードは静かにその手を包む。
触れた瞬間、思っていたよりも小さく、柔らかく、温かいことに気づいた。
それだけのことなのに。
胸の奥で、とくん、と心臓が大きく鳴る。
……なんだ、この感覚は。
エレノアは何も気づいていない。
自然に立ち上がると、美しい礼を返した。
その動きは驚くほど滑らかだった。控えめでありながら、どこか品のある所作だった。
「失礼いたします」
重ねられる手。
もう片方の手を、そっと腰へ添える。
その距離が近い。
普段は丸い眼鏡の奥からしか見えない栗色の瞳が、今はすぐ目の前にあった。
目が合う。
エレノアは少しだけ微笑む。
レオニードだけが、息をするのを忘れていた。
音楽に合わせて、一歩。
もう一歩。
エレノアのステップは軽やかだった。
正確で、無駄がない。
王妃教育で叩き込まれた令嬢たちとも違う。
型どおりではなく、音楽そのものを楽しむように自然だった。
レオニードも、それに合わせる。
二人だけのダンス。
誰も見ていない。
拍手も、歓声もない。
聞こえるのは、遠くの音楽と二人の靴音だけだった。
気づけば、一曲はあまりにも早く終わっていた。
二人は静かに礼を交わす。
エレノアは小さく笑った。
「……やっぱり、ここでは少し狭いですね」
その一言に、レオニードも思わず笑う。
「そうですね」
「でも」
エレノアは少しだけ首を横に振る。
「楽しかったです」
そう言ってから、少し照れたように目を逸らした。
「殿下も、お疲れだと思いますので」
「私は、そろそろ失礼いたします」
本を抱え、一礼する。
レオニードは何か言おうとした。
けれど、言葉は出なかった。
扉が静かに閉まる。
資料室には、再び静けさが戻った。
レオニードはその場に立ち尽くしたまま、自分の右手を見つめる。
つい先ほどまで、そこには彼女の温もりがあった。
指先に、まだその感触が残っている気がした。
しばらく黙っていたあと、誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。
「……もう一曲、踊りたかった」
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