第十八章 仮面の夜
学園舞踏会当日。
王立アストレア学園の大広間は、普段の厳かな空気を一変させ、まるで宮殿のように輝いていた。
天井には無数のシャンデリアがきらめき、壁面には季節の花々が贅沢に飾られている。淡い香りが空気に溶け込み、揺れる灯りと相まって、会場全体を華やかな祝祭の色に染め上げていた。
生徒たちもまた、色とりどりの正装に身を包み、華やかな音楽が流れ始めるたびに笑い声や衣擦れの音が重なり合う。広間は、まるで一枚の絵画のような賑わいを見せていた。
重厚な扉がゆっくりと開く。
生徒会役員たちが、整然と、そして優雅に入場する。
その最後を歩くのは、第一王子レオニード・アルヴェイン。
深い紺色を基調とした礼装は、彼の端正な体躯をいっそう引き立て、白銀の髪はシャンデリアの光を受けて柔らかく輝いている。まるで夜空に差し込む月光をそのまま纏ったかのような、気品と存在感に満ちた姿だった。
その姿が現れた瞬間、会場のあちこちから小さな歓声が波のように広がった。
「今日も素敵……」
「やっぱり殿下は違うわ」
「本当にお美しい……」
レオニードは、そのすべてに穏やかな微笑みを返す。
誰の目にも、完璧な王子。
その立ち居振る舞いに、わずかな乱れすらない。
慣れているはずなのに、こうして注がれる熱の強さには、今もなお気を張らされる。王子として当然の役目だと理解していても、仮面のように笑みを保ち続けることに、ほんのわずかな疲れが滲む。
壇上へ上がると、静まり返った会場をゆっくりと見渡し、開会の挨拶を始めた。
落ち着いた声。
澄み渡るような響き。
王族として幾度となく繰り返してきた、慣れた役目だった。
挨拶を終え、ふと視線を上げる。
壁際。
落ち着いたオレンジ色のドレスを纏った少女が、一人静かに立っていた。
エレノアだった。
派手さはない。
それでも、その柔らかな色合いは彼女の雰囲気によく似合っていた。控えめでありながら、どこか温かな光を宿したような佇まいに、レオニードの視線は一瞬だけ止まる。
だが、すぐに気持ちを切り替えた。
副生徒会長である公爵令嬢セシリア・フォン・クラウゼルが、静かに一歩前へ出る。淡い金髪をきちんとまとめ上げ、深い青のドレスに身を包んだ彼女は、凛とした気品と柔らかな優雅さを併せ持っていた。端正な所作に無駄はなく、微笑みひとつにも洗練がある。会場の視線が自然と集まるのも当然の、まさに副生徒会長にふさわしい存在感だった。
「殿下」
「ああ」
二人は自然な足取りでフロア中央へ向かった。
音楽が流れ始める。
レオニードはセシリアの手を取り、優雅に踊り始めた。
息の合った動きに、会場中から感嘆の声が漏れる。次から次と変わる相手…流れは何も変わらない。レオニードは変わらぬ笑みを浮かべ、礼儀正しく応じるだけ…
「ありがとうございます」
「本日はお誘いいただき光栄です」
「素敵な時間でした」
社交辞令を重ねるうちに、時間だけがきらめく音楽に乗って淡々と過ぎていく。
その合間に、ふと壁際へ視線が向く。
エレノアはまだそこにいた。
誰とも話さず、静かに会場を眺めている。
次の曲が始まり、また一人、また一人と踊りを終えるたびに、同じやり取りが続いた。笑顔を返し、手を取り、礼を述べる。その繰り返しの中で、レオニードは何度も壁際を確かめる。
――いない。
いつの間にか、エレノアの姿は消えていた。
周囲を何気なく見渡しても、誰かと踊っている様子はない。
……帰ったのだろうか。
そんな考えが、胸の奥をかすめる。
「殿下」
令嬢の声に我に返る。
「ああ、失礼しました」
すぐに微笑みを浮かべ、再び音楽へ身を委ねた。
それでも。
今日は不思議だった。
笑うことが。
言葉を交わすことが。
いつもより少しだけ長く感じる。
同じ挨拶。
同じ微笑み。
何度繰り返しただろう。
けれど、そのたびにふと壁際を探してしまう自分がいた。王子としての務めは完璧にこなしているはずなのに、心のどこかが落ち着かない。こんな感覚は珍しい。いや、珍しいというより、記憶にないのかもしれない。
ようやく最後の曲が終わる。
レオニードは再び壇上へ上がった。
「本日はご参加ありがとうございました」
穏やかな声が会場へ響く。
「この後も、どうぞ最後までお楽しみください」
拍手が起こる。
生徒たちは二次会のような和やかな時間へ移っていく。
レオニードは静かに壇上を降りた。
もう一度だけ。
壁際へ目を向ける。
そこにはもう、落ち着いたオレンジ色のドレスはなかった。
今日はなぜだろう。
笑顔を浮かべることが、少しだけ重い。
疲れではない。
いや、疲れているのかもしれない。
自分でも理由は分からなかった。




