第十六章 最初の議論
レオニードは柔らかな笑みを浮かべ、机の上の書類を静かに引き寄せた。
「では」
そう言って、一枚の羊皮紙を取り出す。
厚手の紙には、王家の紋章が小さく押されていた。
「現在取り組んでいる、国王教育の課題の一つです」
エレノアは思わず背筋を伸ばした。
王族だけが学ぶ課題。
自分が見てもよいものなのだろうか、と一瞬ためらう。
その様子に気づいたのか、レオニードは穏やかに微笑んだ。
「心配はいりません」
「機密事項ではありませんし、教師からも他者の意見を聞くよう勧められております」
その言葉を聞いて、エレノアはようやく小さく頷いた。
「失礼します」
羊皮紙へ視線を落とす。
そこには、こう記されていた。
『ある山間の領地では、春になると雪解け水によって用水路が氾濫する。一方、夏には深刻な水不足が起こり、農作物の収穫量が年々減少していた。
領主へ与えられる予算は限られている。
あなたなら、何から着手するか。』
最後まで読み終えたエレノアは、静かに顔を上げた。
レオニードが先に口を開く。
「私なら、まず現地へ赴きます」
「机上だけで判断できる問題ではありません」
「水路の状態、地形、農地、村の様子。すべて自分の目で確かめた上で、優先順位を決めます」
エレノアは素直に頷いた。
「私も、まず現地を見ます」
「ですが」
ほんの少しだけ間を置く。
「最初に見るのは、水門です」
レオニードがわずかに目を細めた。
「水門、ですか」
「はい」
エレノアは羊皮紙へ視線を戻す。
「用水路が溢れる原因は、壊れているとは限りません」
「春先は雪解け水と一緒に、枝や落ち葉、流木が流れてきます」
「それが水門に詰まるだけでも、水は簡単に溢れてしまいます」
レオニードは腕を組み、小さく頷いた。
「なるほど」
エレノアは続ける。
「もし詰まりだけなら、村人総出で半日ほどで取り除けます」
「費用もほとんど掛かりません」
「水の流れが戻れば、大規模な工事を急がなくても、その年を乗り切れる可能性があります」
部屋が静かになる。
レオニードは少しだけ考え込んだあと、小さく笑った。
「現地確認は、私も考えていました」
「ですが、水門の詰まりを最優先で確認する発想までは至りませんでした」
エレノアは少しだけ首を傾げる。
「農村では、よくあることです」
「春になると毎年、水門に流木が引っかかりますから」
その声には、自慢も誇張もなかった。
幼い頃から見てきた景色を、そのまま話しているだけ。
だからこそ、レオニードは静かに感心する。
知識ではない。
経験だった。
自分には王族教育がある。
彼女には、領地で積み重ねてきた日々がある。
同じ問題を見ても、最初に目を向ける場所が違う。
それが、妙に新鮮だった。
「では」
レオニードは次の問いを投げかける。
「もし、水門に異常がなかった場合は」
エレノアはすぐには答えなかった。
丸い眼鏡の奥で栗色の瞳が静かに揺れる。
羊皮紙へもう一度目を落とし、小さく考え込む。
そして数秒後。
ゆっくりと口を開いた。
「その場合は……。」
エレノアは羊皮紙から顔を上げた。
「村の方に聞きます。」
「聞く?」
「はい。水の流れや困る場所は、毎年だいたい同じです。畑を持つ方や長く暮らしている方なら、『ここは昔から水が溜まる』『ここは夏になると干上がる』と知っています。地図だけでは分からないことも多いので、暮らしている人のお話が大切です。」
レオニードは少し目を細めた。
「私は地形や水路ばかりを見ていました。住民の話を、最初に聞くという発想はありませんでした。」
エレノアは小さく首を振る。
「殿下のお考えも必要です。長く使う水路を造るには、地形を知らなければいけません。私は今困っている方を見ることしかできませんが、十年後まで考えるのは領主のお仕事です。」
レオニードは思わず笑った。
「なるほど。目の前を見る者と、未来を見る者。どちらも必要ということですね。」
「はい。」
短い返事のあと、部屋に静けさが落ちる。
レオニードは羊皮紙に目を落とし、羽根ペンを取った。
『現地確認の前に水門を確認』
『住民への聞き取り』
『短期対応と長期計画を分ける』
書き終えると、ペンを置く。
「……ありがとうございます。」
エレノアは少し驚いた。
「私は何も。」
「いいえ。今日のお話は本にはありませんでした。領地で暮らしてきた、あなただからこその考えです。」
エレノアは照れたように視線を伏せる。
「……そのようなことは。」
「あります。私は、あなたのその視点をとても素晴らしいと思います。」
エレノアは困ったように小さく笑った。
「殿下の方こそ、すごいです。」
「え?」
「私は水門を見ることは思いつきます。でも、その先にある国全体や十年先のことまでは考えられません。課題を見た時も、私は目の前の村しか浮かびませんでした。でも殿下は最初から、領地全体をご覧になっていました。私は、その考え方がすごいと思います。」
今度はレオニードが少し言葉を失った。
自分に向けられる称賛には慣れている。けれど、美貌でも王族だからでも天才だからでもなく、考え方を評価されたのは初めてだった。
「……ありがとうございます。」
自然と笑みがこぼれる。
それは人前で浮かべる完璧な微笑みではなかった。
エレノアもまた、小さく微笑み返す。
静かな部屋に、心地よい沈黙が訪れた。
ただ、一つの課題について考えを重ねただけだった。
それなのに、二人とも不思議なほど満たされていた。
レオニードは静かに羊皮紙を閉じる。
「……やはり、あなたと考えを交わす時間は、とても有意義です。」
エレノアは少し照れたように笑う。
「私も……勉強になります。」
その返事を聞いたレオニードは、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じていた。
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