第十五章 初めての質問
資料室へ通う日々は、穏やかに続いていた。
放課後になると、エレノアは北棟へ向かう。
人の気配のない廊下を抜け、古い階段を上り、鍵を開ける。
そこにはいつも、レオニードがいた。
「こんにちは。」
「……こんにちは。」
最初は緊張していたエレノアも、今では自然に挨拶を返せる。
それ以上の会話はほとんどない。
レオニードは国王教育の課題に向かい、エレノアは本棚から選んだ本を黙々と読む。
部屋に響くのは、ページをめくる音と羽根ペンの走る音だけ。
その静けさが、いつしか二人には心地よくなっていた。
◇◇◇
その日、エレノアが読んでいたのは経済学の専門書だった。
同じページを何度も読み返す。
最初から読み直しても、どうしても一つだけ理解できない。
「……うーん。」
思わず声が漏れた、その時だった。
「どうかなさいましたか。」
穏やかな声に、エレノアは肩を震わせた。
丸い眼鏡の奥の瞳を上げると、すぐ隣にレオニードが立っている。
「……声、出ていましたか。」
頬を赤くして尋ねると、レオニードは少し笑った。
「少しだけ。」
「……申し訳ありません。」
エレノアが本へ視線を落とすと、レオニードも同じページをのぞき込む。
「失礼。」
そう言って本を手に取り、ぱらぱらとめくった。
「ああ、この部分ですね。」
エレノアは頷く。
「どうしても、この考え方だけ理解できなくて……。」
レオニードは椅子を引き、向かいに座った。
「少し説明してもよろしいですか。」
「ぜひ、お願いします。」
彼は難しい言葉を避け、一つひとつ噛み砕いて説明した。
例を挙げ、図を書き、必要に応じて別の本も開く。
エレノアは夢中で聞き入った。
「つまり、この場合は……長期的な利益を見据えている、ということですか。」
「その通りです。」
「なるほど……。」
表情が少しずつ明るくなる。
「では、この場合は。」
「はい。」
「交易路が増えたら。」
「その場合は――。」
質問は次々に続いた。
レオニードは迷わず答えていく。
時間を忘れるほど自然なやり取りだった。
「……すごいですね。」
気づけば、エレノアは小さく微笑んでいた。
レオニードはその笑顔に、思わず見入って言葉を飲み込んだ。
「ありがとうございます。」
静かに礼を返した、その時だった。
エレノアは何か思い出したように立ち上がる。
「もしかしたら。」
本棚へ向かい、一番上の棚にある本へ手を伸ばす。
背伸びをしても、あと少し届かない。
すると横から白い手が伸びた。
「こちらですか。」
レオニードは自然に本を取り出す。
「あ……。」
少し驚くエレノアに、彼は本を開いて目的のページを探した。
やがて手を止める。
「今の話でしたら、こちらも参考になると思います。」
「ありがとうございます。」
エレノアは本を受け取り、その場で読み始めた。
部屋は再び静けさを取り戻し、ページをめくる音だけが小さく響いていた。
数分後。
エレノアはゆっくりと本を閉じた。
「……なるほど。」
先ほどまで理解できなかった内容が、すっと一本の線で繋がる。
思わず、小さく息を吐いた。
「ありがとうございました。」
レオニードは穏やかに微笑む。
「お役に立てたなら何よりです。」
エレノアは本を胸元へ抱えたまま、少しだけ視線をさまよわせる。
先ほどまで自然に質問できていたのに、今度は何を聞けばよいのか分からなくなる。
静かな部屋には、ページをめくる音だけが戻っていた。
王子の教育について尋ねるなど、ただの男爵令嬢である自分が口にしてよいのだろうか。
国王教育という言葉の響きだけでも、そこには自分の知らない重みがある気がした。
王族の学びは、きっと簡単に踏み込んでよいものではない。
無遠慮だと思われたらどうしよう。
失礼だと受け取られたら。
そんな考えが胸の内で何度も行き来し、エレノアは本の背を指先でそっとなぞった。
聞きたい。
けれど、聞いてはいけない気もする。
唇を開きかけては閉じ、視線を落としてはまた上げる。
やがて意を決したように、小さく口を開く。
「……あの。」
「はい。」
「もし、差し支えなければ……。」
レオニードは静かに顔を上げる。
丸い眼鏡の奥から向けられた栗色の瞳が、真っ直ぐこちらを見ていた。
「殿下は、普段どのような課題に取り組まれているのですか。」
静かな資料室に、その問いだけが穏やかに響いた。
レオニードは一瞬だけ目を丸くする。
それは、初めてだった。
エレノアの方から、自分自身について尋ねられたのは。
胸の奥が少しだけ温かくなる。
彼は静かに本を閉じた。
「もちろんです。」
柔らかな笑みを浮かべる。
「ちょうど今取り組んでいる課題があります。」
「もし興味がおありでしたら、一緒に考えていただけませんか。」
エレノアは驚いたように目を瞬かせた。
そして、小さく頷く。
夜にもう1話投稿致します。スローペースなストーリーにお付き合いいただいてありがとうございます。もう少しすると動き出しますので、もう少しお付き合いください。




