第十一章 小さな一歩
図書館。
閉館間際。
エレノアは、机の上へ置かれた鍵を見つめたまま動けずにいた。
黒く鈍い光を帯びた、小さな鉄の鍵。
その重みは掌にはないはずなのに、不思議と胸の奥へ残っている。
――古い専門書。
――領地運営の記録。
――今ではなかなか目にできない貴重な文献。
その言葉だけが、頭の中で何度も浮かんでは消えた。
「貴重な文献……。」
ぽつりと呟く。
気にならないはずがなかった。
幼い頃から、本は何より身近な存在だった。
知らないことを知る喜び。
新しい考え方へ触れる楽しさ。
その先に、自分の知らない世界が広がっていることを知っている……。
だからこそ……。
「……。」
眉間へ小さく皺が寄る。
行ってはいけない気もする。
けれど、知りたい。
二つの気持ちが胸の中で静かに揺れていた。
その時だった。
「ローゼンベルク様。」
司書の穏やかな声が聞こえる。
顔を上げると、閉館準備を始めた司書が申し訳なさそうに微笑んでいた。
「閉館のお時間です。」
「あ……。」
エレノアは慌てて本を閉じる。
机の上へ置かれた鍵へもう一度視線を落とした。
忘れ物として司書へ預けるべきだろうか。
そう思った。
思ったはずなのに。
気づけば、手が鍵を包み込んでいた。
「……失礼します。」
小さく頭を下げ、図書館を後にする。
◇◇◇
帰り道。
夕暮れはすっかり終わり、王都には淡い夜が降り始めていた。
石畳を歩きながら、エレノアは何度も鞄へ視線を向ける。
中には、あの鍵が入っている。
「どうして持って帰ってしまったのかしら……。」
思わず立ち止まりそうになる。
司書へ預ければよかった。
明日返せばいい。
いや、最初から持ち帰るべきではなかった。
考えれば考えるほど、自分でも理由が分からない。
ただ一つだけ分かるのは。
返さなければ、という気持ちより。
中を見てみたい、という気持ちの方が、ほんの少しだけ強かったことだった。
「……もう。」
小さくため息をつきながら屋敷へ戻る。
その時。
隣家の庭から木剣の音が響いた。
「おかえり。」
赤い髪を汗で濡らしたルーカスが、木剣を肩へ担いで笑っていた。
「ただいま。」
「今日は遅かったな。」
「図書館にいましたから。」
何気ない会話。
いつものやり取り。
それなのに、今日は胸の奥がどこか落ち着かない。
少し迷ってから、エレノアは口を開いた。
「ルーカス様。」
「ん?」
「新しいことを始める時って……怖いですか?」
ルーカスは一瞬だけ目を丸くした。
それから、くすっと笑う。
「怖いに決まってるだろ。」
肩をすくめるように言って、木剣を地面へ立て掛ける。
「怖くないやつなんて、たぶんいない。俺だってそうだし。」
エレノアは黙った。
その言葉が、胸の中へ静かに落ちていく。
ルーカスはそんな彼女を見つめた。
何かあった。
そう思った。
けれど、無理に聞くことはしない。
代わりに、いつものようにぽん、と頭へ手を乗せる。
「怖かったら、無理に飛び込まなくていい。」
優しく頭を撫でる。
「でも、ちょっとでも楽しそうなら、試してみるのもありだろ。」
にっと笑った。
「案外、そっちの方がうまくいくかもしれないしな。」
エレノアは思わず小さく笑った。
「……そう、かもしれないです。」
「だろ?」
ルーカスは満足そうに頷く。
「じゃ、俺はもう少し振ってくる。」
再び木剣を振る音が響き始める。
エレノアはその音を背中で聞きながら、自室へ戻った。
◇◇◇
部屋へ入る。
机へ鞄を置く。
静かな部屋。
いつもなら本棚から薬学書か植物図鑑を取り出す。
けれど今日は違った。
視線は自然と、鞄の中へ向かう。
鍵を取り出す。
月明かりを受けた真鍮の鍵は、昼間より少しだけ冷たく見えた。
古い専門書。
領地運営の記録。
今では読めない文献。
知らない世界。
知らない知識。
指先で鍵をそっと握る。
胸の奥が、小さく高鳴った。
「……。」
しばらく見つめる。
やがて、小さく息を吸い。
エレノアは静かに頷いた。
「……明日、行ってみよう。」
その呟きは、静かな部屋の中へ優しく溶けていった。




