第十章 渡された鍵
放課後。
生徒会室。
窓の外では夕陽が校舎の屋根を赤く染め、昼間の賑わいの余韻が少しずつ遠ざかっていた。
レオニードは机へ向かい、国王教育の課題へ目を通している。
その向かいでは、ヴィンセントが書類を整理していた。
「殿下。」
「どうしました。」
「ご依頼の件ですが、学園長より正式な許可が下りました。」
そう言ってヴィンセントが机へ置いたのは、黒く鈍い光沢を帯びた真鍮の古い鍵2本だった。
「北棟資料室の鍵です。」
レオニードは静かに手に取る。
「立ち入りについては、教職員にも通達済みです。国王教育に関わる資料を扱うため、無断で近づかぬようにと。」
「そうですか。」
北棟は今ではほとんど使われていない校舎で、資料室には古い専門書や歴代の記録、各領地の資料が保管されている。王族教育で必要となる文献も少なくない。
静かに課題へ取り組むには、ちょうど良い場所だった。
「ありがとうございます。」
ヴィンセントは一礼する。
「それと、机と椅子はあります。必要最低限ですが、執務には支障ないかと。」
「十分です。」
レオニードは鍵を見つめる。
その視線は、やがて静かに窓の外へ向いた。
――ローゼンベルク嬢なら。
そう思った瞬間、自分でも少しだけ驚いた。
彼女のため。
そんな言葉が頭をよぎったからだ。
いや。
違う。
静かな場所を好む彼女なら、この資料室は役に立つ。
それだけのこと。
そう結論づけると、レオニードは静かに立ち上がった。
「少し図書館へ行ってまいります。」
「かしこまりました。」
◇◇◇
閉館間際の図書館。
昼間の喧騒はすでになく、館内にはページをめくる音だけが静かに響いていた。
窓際の席。
そこに、エレノアは座っていた。
いつものように本へ集中している。
レオニードは歩み寄る。
今度は驚かせないよう、少し離れた位置で声を掛けた。
「ローゼンベルク嬢。」
エレノアが顔を上げる。
驚いたように肩が小さく揺れた。
だが、以前のように逃げることはなかった。
「……殿下。」
「少しだけ、お時間をいただいてもよろしいでしょうか。」
その口調は穏やかで、どこか司書へ話しかけるような自然さがあった。
エレノアは静かに本を閉じる。
「はい。」
短く返事をしたものの、やはり少し緊張しているようだった。
レオニードは懐から鍵を取り出す。
「北棟資料室の鍵です。」
エレノアが目を瞬く。
「資料室……ですか。」
「ええ。古い専門書や各種資料がまとまっていて、医学書や薬学書はもちろん、領地運営の記録や、今ではなかなか目にできない貴重な文献もあります。」
エレノアの瞳が、ほんの少しだけ大きくなった。
その反応を見て、レオニードは小さく笑う。
「私は今後、国王教育の課題でその部屋を使う予定です。学校からも正式に許可を得ています。」
「ですから――」
そこで一度言葉を切る。
来てください。
そう言いかけて、飲み込んだ。
代わりに、近くの机の上へ静かに鍵を置く。
「…もしご興味がおありでしたら、お使いください。」
静かな声だった。
押しつけではない。
ただ、一つの選択肢を差し出しただけ。
エレノアは机の上の鍵とレオニードを交互に見つめた。
「……私に、ですか。」
レオニードは静かに頷いた。
本当は、静かに本を読む彼女へ似合う場所だと思った。
だが、それを言えば困らせる気がした。
エレノアはしばらく黙っていた。
レオニードは穏やかに微笑む。
「それでは、失礼いたします。」
一礼すると、そのまま図書館を後にした。
◇◇◇
扉が静かに閉まる。
館内は再び静寂へ包まれた。
エレノアは動けなかった。
机の上には、一つの鍵。
重い。
思っていた以上に。
静かな図書館で、本を読むだけだった日常。
その日常へ、突然渡された新しい扉。
「……。」
鍵を見つめる。
これを持っていて、本当にいいのだろうか。
「……どうしましょう。」
誰へ聞かせるでもない、小さな呟きだけが、静かな図書館へ溶けていった。




