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第4話 失われていく香り

日が暮れる頃、三人は森の開けた場所で足を止めた。

「今日はここで野宿よ」

キャサリンが手際よく薪を並べる。

「野宿……」

ハルは周囲を見回した。

元の世界なら、こんな場所で夜を過ごすなんて考えもしなかった。

だが、今は異世界。

しかも、帰る方法すら分からない。

クロはハルの隣に丸くなった。

やがて焚き火に火が灯る。

パチパチと薪が燃える音。

森の夜は静かだった。

キャサリンは鍋を取り出すと、簡単なスープを作り始めた。

「ほら、食べなさい」

「ありがとうございます」

ハルはスープを口にした。

「……おいしい」

しかし、食べながらハルは首を傾げた。

「キャサリンさん」

「何?」

「この世界って……料理の匂いが少なくないですか?」

キャサリンの手が止まった。

「……気づいたのね」

「俺の鼻がおかしいのかと思ってました」

「違うわ」

キャサリンは静かに薪を見つめた。

「この世界から、香りが消えているの」

「香りが?」

「ええ」

キャサリンは真剣な顔になった。

「食べ物の香りだけじゃない」

「花の香り」

「森の匂い」

「雨上がりの土の香り」

「果物の甘い香り」

「海の潮の香り」

「人が暮らしている町の匂いまで……」

ハルは黙って聞いていた。

「今、この世界では――」

キャサリンが指を一本立てる。

「およそ三割の香りが、すでに失われている」

「三割……」

「そして、少しずつ増えている」

ハルは森を見回した。

確かに、花が咲いているのに、その香りがほとんどしない。

木々があるのに、森らしい匂いが薄い。

「どうして……?」

キャサリンは首を横に振った。

「原因は、まだ分かっていない」

「でもね」

キャサリンは焚き火を見つめた。

「香りが消えることは、鼻だけの問題じゃないの」

「どういうことですか?」

「香りには、人の記憶が結びついているからよ」

ハルは黙った。

「故郷の料理の香り」

「母親が作ってくれた食事の香り」

「子どもの頃に遊んだ森の香り」

「大切な人が使っていた香水」

「雨の日の匂い」

キャサリンの声が少し低くなる。

「香りを失えば、そこに結びついていた記憶まで薄れていく可能性がある」

「……」

「そして記憶だけじゃない」

キャサリンはハルを見る。

「希望」

「夢」

「大切な人への想い」

「生きる理由」

「そういうものまで、少しずつ弱くなっていると言われているの」

ハルは言葉を失った。

「そんな……」

「だから、この世界は今、静かに危機へ向かっている」

クロが小さく鳴いた。

「グル……」

ハルはクロの頭を撫でる。

「じゃあ……俺が呼ばれた理由は?」

キャサリンはしばらく黙っていた。

そして、夜空を見上げた。

「古い予言があるの」

「予言?」

「ええ」

「世界から香りが失われし時――」

「人々の希望が薄れし時――」

「夢が消え、想いが失われようとする時――」

キャサリンはハルをまっすぐ見た。

「異世界より、ひとりの勇者が降臨する」

「その者は――」

キャサリンがハルの鼻を指差す。

「香りを嗅ぎ分ける者」

「……俺?」

「そう」

ハルは自分の鼻に触れた。

「俺の、この鼻が?」

「あなたの鼻は、ただ匂いを嗅ぐだけじゃない」

キャサリンは微笑んだ。

「失われた香りを見つけられる可能性がある」

「そして、その香りに込められた記憶や想いを取り戻すことができるかもしれない」

ハルは焚き火を見つめた。

異世界に来た。

帰る方法も分からない。

自分がなぜ選ばれたのかも分からない。

それでも――

「……だったら」

ハルは拳を握った。

「俺にできることを探したい」

キャサリンは目を細めた。

「その言葉を待っていたのよ」

その夜。

ハルはクロの隣で眠りについた。

だが眠る直前、ハルの鼻に――

ほんの一瞬だけ、不思議な香りが届いた。

懐かしくて。

温かくて。

なぜか胸が締めつけられるような香り。

「……なんだろう、この匂い……」

ハルはその正体を知らない。

それは、この世界で最初に失われた――

誰かの大切な記憶の香りだった。

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