第16話 香りの消える夜
夜。
町は静まり返っていた。
昼間まで咲いていた花々が、月明かりの下で揺れている。
けれど――
「……匂いがしない」
ハルが呟いた。
鼻を動かしても、何も感じない。
花の香り。
土の匂い。
夜風の匂い。
すべてが薄い。
まるで、この町だけが世界から切り離されたようだった。
「昼間までは、確かにあったのに……」
リリアが不安そうに辺りを見る。
キャサリンは黙っていた。
ミルフィーユも、いつものような冗談を言わない。
そして――
ネズミだけが、地面に鼻をつけていた。
「……」
クンクン。
一度。
二度。
三度。
「おかしいです」
「何が?」
ハルがしゃがみ込む。
「香りが消えているんじゃありません」
ネズミが顔を上げる。
「何かに吸われています」
「……!」
ハルの表情が変わった。
「分かるの?」
「はい」
ネズミは地面を嗅ぎながら歩き始める。
「こちらです」
一行はネズミの後を追った。
町の路地。
花屋。
古い家。
そして、誰も使っていない小さな広場。
クロが突然立ち止まった。
「グル……」
「どうした?」
クロの毛が逆立っている。
耳が立ち、暗闇を睨んでいる。
「何かいるの?」
クロは答えない。
ただ、広場の中央を見つめている。
そこには一本の木があった。
枯れているわけではない。
葉もある。
花も咲いている。
なのに――
「……真っ白」
リリアが呟いた。
花から色が抜けていた。
まるで色だけが、何かに奪われたように。
ハルが近づく。
その瞬間。
「――っ!」
強烈な違和感。
匂いがない。
なのに、鼻の奥が痛い。
「何だ……これ」
ネズミが震える。
「この匂い……」
「何か分かる?」
「……怖いです」
いつもキャサリンの後ろを追いかけているネズミが、初めて怯えた。
「こんな香り……知りません」
クロが低く唸る。
「グルルル……」
次の瞬間。
木の影が――
ゆらり。
動いた。
「!」
ハルが剣を抜く。
しかし、そこには誰もいない。
影だけが伸びている。
「今、何かいた!」
ミルフィーユが叫ぶ。
キャサリンが目を細める。
「全員、動かないで」
風が止まった。
虫の声も消えた。
そして――
町中の花が一斉に揺れた。
ザワ……。
ザワザワ……。
「……」
ハルは息を呑む。
花から黒い霧のようなものが立ち上っている。
それは空へ昇るのではなく――
一か所へ集まっていく。
「香りが……」
ハルが呟く。
「集められてる」
黒い霧は、広場の地面へ吸い込まれていく。
ネズミが突然走り出した。
「こっちです!」
「待って!」
地面の隅。
そこには、小さな穴が開いていた。
ネズミが覗き込む。
「地下があります」
クロが穴の周囲を嗅ぐ。
そして――
「グルッ!」
突然、クロが地面を引っ掻いた。
ガリッ。
土の下から、何か硬いものが出てくる。
ハルが拾い上げる。
「……瓶?」
古びた小さな瓶だった。
蓋には、不思議な紋章が刻まれている。
ハルが触れた瞬間――
「……!」
頭の中に声が響いた。
――香りは、記憶。
――香りは、夢。
――香りは、人の心。
「誰だ!」
ハルが叫ぶ。
返事はない。
ただ瓶の中で――
ほんの少しだけ、淡い光が揺れた。
キャサリンが瓶を見つめる。
「これは……」
「知ってるんですか?」
「……いいえ」
珍しく、キャサリンが迷った。
「でも、この紋章は見たことがある」
「どこで?」
キャサリンは答えなかった。
その代わり、ネズミを見る。
「あなた、よく見つけたわね」
「……はい」
ネズミは嬉しそうにする。
しかし、その直後。
クロが突然ハルの前へ飛び出した。
「グルルッ!」
「クロ?」
暗闇の奥。
何かがいる。
ハルの鼻にも――
初めて感じる匂いが届いた。
それは、
花でも。
土でも。
魔物でもない。
「香りがない」という匂い。
ハルの背筋が凍る。
「……来る」
闇の中で、何かが動いた。
キャサリンが剣を構える。
リリアのペンダントが光る。
ミルフィーユは震えながら発明品を握る。
ネズミはキャサリンの足元へ――
……ではなく。
一歩前へ出た。
「キャサリン様」
「何?」
「今度は、私も戦います」
キャサリンが微笑む。
「ええ。頼んだわ」
クロが低く唸る。
ハルが剣を構える。
そして――
町の夜が、完全な闇に包まれた。




