5眩暈
『もう一度良く考えて--』
九許斐ノナとのカウンセリング相談は、ひとまず保留に終わった。
帰り際。診察室を出ると、飯田健介が追ってきた。
「これ、落ち着きますよ。良かったら」
彼が差し出したのは、青いシガレット形の清涼菓子だった。
「チョコミント味です。あまり思い詰めないで」
切れ長だけど円らな瞳が、優しく細められる。マスクをしているから鼻と口は見えないけど、二枚目俳優のようだ。
左手の薬指が銀色に光っている。もしかして九許斐ノナと……? いや、九許斐は指輪をしていなかった。
礼を言ってシガレットを受けとると、飯田先生は白衣を翻して非常階段のほうへ消えていった。
「--もしもしミク?」
と、先ほど扉を閉めた診察室の内側から微かに声がした。
「これまた面白い子が来たわ」
九許斐の声だ。誰かと電話で話している……? わたしは耳をそばだてた。
「〝父親に遺伝子移され病〟--そう。症例データが少なくて、今までに無いタイプ。かなりバイアスが掛かってるから、手強いけど遣り甲斐あるわ。腕が鳴るのよね、ああいう子を施術するのは。利用できるものは何でも利用する。それが私のモットーよ」
重い足取りで秋日部駅に着くと、シガレット形の清涼菓子を口に放り込んだ。チョコミント味のシガレットは、チョコミントの味しかしなかった。
バイアスが掛かっている? どういう意味なのか。利用するって、単なる金蔓という意味だろうか。もう一度、診察室に乗り込んでいって問い質すべきだっただろうか。
九許斐は、わたしの気持ちなんか解らないのだ。女の子として産まれ、父に顔の遺伝子を移されることがどれほど絶望的なことなのか。元・精神科医のくせに患者の傷みに寄り添わない、利己的で打算的な一面を垣間見た気がする。あの女医に一任して本当に大丈夫だろうか……?
しかし、もう後戻りはしないと決めた。クソジジイの腐った遺伝子にメスを入れて潰すことができるなら、どんな手段も厭わない。
但しどんなにメスを入れて潰しても、あの野郎の質の悪いDNAは、しつこく細胞の奥まで食い込んでくるような恐怖を感じた。
恐ろしい想像を振り払って改札をくぐると、ホームに向かう階段の側に空間ができていた。此処は要らなくなったものを手離す人と、必要としている人が必要なものを拾っていく小さな交換所。
『あなたが濡れないために。良かったら使ってください』と看板が打ち込まれた傘立てに、数本の傘が刺さっている。わたしも昔、飽きて使わなくなった傘を寄付したことがあったっけな。
傘立ての横の棚は、ボールペンに修正液、時計、フランス人形とペンダント。等々、文具や雑貨が置かれていた。『気に入ったものを見つけたら、ご自由にお持ち帰りください』というプレートが備えられている。
ふと、目が止まった。小さな青い鏡台。玩具のドレッサー。おままごとか、お人形さん遊びをする時に重宝しそうな。
わたしは吸い寄せられるように手を伸ばしていた。観音開きになっていて、両側から取っ手を掴むと鏡が出現した。使い込んでいたのが解る。古めかしくて所々は錆びているが、まだ使えそうだ。
鏡台の下は引き出しになっていて、中から筒状のものがカランと音をたてた。
青い印鑑……?
手に取って断面を返してみると、文字が彫ってある。平仮名で『よしえ』。どんな字を描くんだろう。『好恵』、『良枝』、『由絵』?
ドレッサーのミラーに、そっと印鑑を当ててみる。文字がくっついた。ポップな丸ゴシック体、青のインクで『よしえ』と。鏡台同様、古びているから朱肉はとうに乾いていると思われたが、魔法のスタンプみたいに印鑑は青い液体が染みだしていた。
突如、眩暈に襲われた。




