第25話 潜熱
#第25話 潜熱
沈黙の中、誰の声もない。
それでも、ふたりの体温は、まだ地面の上でかすかに震えている。
鞭は、落ちかけたまま引っかかり、宙を撓ませていた。
義手のドスも、半開きのまま――役目を失って、冷たく沈黙していた。
風もない。
息もない。
時間だけが、音もなく通りすぎる。
その空白を、踏みしめるように。
「……そのへんで、いいだろ。」
ゆっくりと歩いてきたのは――ナオだった。
しゃがみこみ、ルカの無事を確認するわけでも、臣に声をかけるでもなく。
ただ、戦いの幕にそっと“終わり”を告げるような、低い声。
ひとつの区切りを、その喉の奥から静かに、突きつける。
それを合図にするように、臣が義手を振り払い、地面を片膝で叩いた。
「……やるじゃん、ジュニア。」
「その呼び方、やめろよなー……。」
ルカがようやく身体を起こしながらぼやく。
鼻筋から、血が一筋伝っていた。
「あー……ナオ、どうなってる?」
「出てる。盛大に。」
「……マジか……ったく、顔はやめろよ……」
鼻を押さえながらも、ルカはどこかぼんやりしている。
目の奥に、まだ戦いの熱が残っていた。
その横で、臣は耳のあたりを指で拭った。
ついた赤を見て、ふっと笑う。
「俺も出てるわ、耳。
鼓膜いってねぇといいけど……まあ、聞こえてるからいっか。」
義手のカバーをバチンと嵌めながら、臣はすっくと立ち上がる。
血と汗の余熱を背負ったまま、肩を揺らし、少年のような笑みを浮かべて言った。
「よし、キャバ行くか!キャバ!」
唐突すぎる言葉に、ナオは呆れたように吐息を漏らし、低く返す。
「……こんな格好で、行けるわけねぇだろ。」
「命の火花バチバチさせたあとってさ、やっぱキャバで語らいだろ?
――俺、“ジュニア”のこと、興味持ったし。」
その最後のひと言だけは、妙に静かで、低いトーンだった。
ナオは懐からティッシュの小袋を取り出し、
ぽん、とルカの膝に放る。
そのまま、ゆっくりと臣に視線を向けた。
目元は細められ、微笑のようにも見えるが――
その奥には、探るような気配が滲んでいる。
「随分、フレンドリーだな。」
「あ?……あー、妬くなよ。
お前のことも聞きてぇって、な?」
ナオはしばらく視線を外さないまま、静かに指先を顎にあてる。
そして、ぽつりと落とす。
「……居酒屋、なら。」
「お、悪くねぇ。ちゃんと飲めて、ちゃんと喰えるとこな。」
「……なぁ。俺、鼻血止まってからでもいい?」
ルカがティッシュを鼻に当てたまま、小さく手を挙げる。
その仕草に、臣がくくっと笑って肩をすくめた。
「何やってんだよ、行くぞジュニア。血が乾く前にな?」
義手の表面に残る、ひと筋の乾きかけた赤。
臣はそれを気にも留めず、ジャケットの袖を無造作に引き直す。
三人はふらつく足で立ち上がり、
命のやりとりの余韻を背負ったまま、夜の路地を後にした。
命の火花を交わしたその直後にしては、あまりに雑で、くだらない会話。
けれどその背中には、確かに熱が残っていた。
夜の喧騒のなか、三つの影がゆっくりと溶けていく。
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暖簾をくぐった途端、ふわりと炙り魚の香りが鼻をくすぐった。
カウンターだけの小さな店内。
左奥へ折れるL字のカウンターに、先客の背中が数人。
「……いいじゃん、こういうの。」
臣が一歩前に出る。
奥の席を見定めるように歩き出した、その横を――ルカが、ひょいと追い越した。
「じゃ、俺ここ。」
まるで当然のように、曲がり角の“内側”、臣の左隣に腰を下ろす。
折れ曲がったカウンターが、ふたりの角度を微妙にずらしていた。
「へぇ……そっち、座んだ?」
臣が肩越しにちらと視線を投げる。
声の調子は軽いが、目元だけ、どこか底を探るような色。
「なんか落ち着くじゃん。隣どうぞー?」
ルカは涼しい顔でメニューを開いた。
ナオも無言で、その奥の席に腰を下ろす。
視線を、ちらとルカに送った。
(……図ってんな、あいつ。)
まるで自然なフリして、“角”を取りにいったあの動き。
相変わらず、こういう時だけは、妙に勘が鋭い。
臣の斜め横。
情報は拾いやすく、内情は探らせない――そんな場所だった。
(……でも、あっちも気づいてるな。わざと乗っかって、探り返してる。
どっちもどっち、か。)
火花はもう散らない。
けど――空気だけが、静かに熱を帯びていた。
カウンターに湯呑が並び、箸袋がコトンと置かれる。
その些細な音を合図にするように、ルカがメニューを開いた。
「俺、出汁巻きと味噌ラーメン。あとビール。」
「冷奴とホッケ。あと、ビール。」
ナオは短く答えて、視線は臣から外さない。
すると、臣が肩を揺らした。
「しっぶいなぁ、お前ら。じじいかよ!」
臣が笑いながら肩を揺らすと、ルカもそれに合わせて口角を上げた。
「大人の味わい方って言えよな、センパイ。」
「センパイセンパイって、年齢マウントかよ。
俺そんな歳くってねぇぞ?」
「先にマウント取ってんの、あんただろ?
ジュニアジュニア言いやがって。で、いくつだよ。」
ふふんと鼻で笑いながら、ルカはグラスの水をひと口。
その動作までが、なぜか楽しそうに見えた。
「可憐なアラサー、だよ。」
ルカはその言葉に、思わず鼻で笑いそうになった。
臣はメニューをくるくると回しながら、“本日おすすめ”の欄をトントンと指で叩く。
「じゃ、俺は――“おすすめ”で攻めてみっか。」
その顔には、どこか“試す”ような余裕が滲んでいた。
ナオはメニューを見つめながらも、ちらとルカを横目で見た。
(……なんか、ふつうに馴染んでんな。)
ナオは、ふたりの目線の動きと、角度のついたその距離をなぞるように見る。
どこか自然で、空気がゆるんでいく。
(……読みづれぇ。)
それでも。
水面の下で、何が泳いでいるかまでは、見えやしなかった。
「んじゃ、飲みもん揃ったし――」
臣がグラスを軽く持ち上げた。
「カンパーイ。」
カラン、と乾いた音が響く。
臣の声に合わせて、ルカのジョッキが軽く触れ合った。
ナオも少し遅れて、自分のグラスをふたりに向ける。
一口飲むと、ルカはジョッキを片手に、にやりと笑った。
「なぁセンパイ、知ってっか?
乾杯って、もともと“毒は入ってねぇ”って証明するための儀式なんだってさ。」
「へぇ……こえーな。」
そう答えた直後――
臣は何気ない素振りで、左手の指先を喉元にやった。
かすかに撫でるようなその仕草は、無意識の癖とも、なにかの隠れ蓑とも取れるものだった。
ルカはジョッキを傾けながら、それを見逃さなかった。
グラス越しに視線を送り、わずかに目を細める。
(……嘘、ついたな。)
「――まあつまり、これでお互い信用成立ってことで。」
ルカがそう締めるように言ったとき、
ナオはその横顔をちらと見た。
無言のまま、ビールをひと口――
だが、その眼差しには、静かに呆れた気配が滲んでいた。
(……また始まった。ほんと、隙がねぇ。)
「お前ら、ちゃんと飲めるんだろうなぁ?」
唐突に、臣がニヤニヤしながら口を開いた。
「酔ったら、どうなるんだよ?」
それに、ルカが水でも飲むような軽さで返す。
「脱ぐよ。」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、臣が吹き出すように笑った。
「うわー、食欲失せる!……キャバにしときゃ良かったな、マジで。」
茶化しながらも、どこか楽しそうにジョッキを傾ける臣。
そのやり取りを横で見ていたナオは、肩をすくめた。
「……お前ら、仲良しかよ。」
自分でも驚くくらい、口調は平坦だった。
それでも、口の端がかすかに緩んでいるのに気づいて――
ナオは、ほんの少しだけ腹が立った。
(……何、笑ってんだ、俺。)
そのとき、視線の端に映ったルカの横顔は、
まるで本当に、心から楽しんでいるように見えた。
――もう、どこまでが“演技”で、
どこからが“本音”なのか。わからないほどに。




