第21話 払え
#第21話 払え
――煙が、間を裂くように広がっていく。
その向こう、蜂須賀の背が、じわじわと遠ざかる。
(……また、手が届かない――)
息を詰める。喉が焼ける。
奥歯がきしむほど噛みしめながら、ルカはにじり寄ろうとした。
そのときだった。
冷たく、けれど一点を貫くような声が、鼓膜を震わす。
「……つぐみ。――払え。」
音が止まったような錯覚。
世界が、一瞬だけ静止した。
――ドン。
地鳴りのような音が、腹の底を打ち抜いた。
続いて、空気が爆ぜる。
紫煙が裂けた。
まるで“神の手”が空を払ったように、濃霧が左右へ吹き飛ばされていく。
視界が――開けた。
蜂須賀の背が、そこにあった。
傷ひとつなく、焦りを交えた目で、こちらを見据えている。
――だとしても。
(……道が……できた……っ!!)
「っ……!」
喉の奥が震えた。
迷いはなかった。
反射的に、ルカの足が、風の中を駆けた。
――遠く離れた、屋上。
風の音だけが、世界を満たしていた。
巨大な対物ライフルにしがみつくようにして、少女が息を吐いた。
体格には不釣り合いな銃身を、三脚と重りで必死に安定させながら、
微細な照準修正を指先で終える。
そのつぶらな瞳は、静かに、
スコープ越しに蜂須賀の姿を捉えていた。
「……着弾、確認。非命中。」
ヘッドセット越しのVの声に、つぐみは淡々と答える。
「通路、確保完了。――次のポイントへ、移動します。」
――風が、また吹いた。
駆ける足音。
肺が焼けるように痛む。
視界を切り裂いて、ルカの身体が宙を蹴っていた。
(――行ける。今度こそ、届く……!)
開けた煙の先に、蜂須賀の背中。
振り返ったその顔に、一瞬の硬直――
目が見開かれ、眉間にかすかな皺。
歪んだ口元に、もう余裕はなかった。
額に滲む汗。
足がわずかに後退しかける。
(見えた――)
「――ぜってぇ……逃がすかよッ!!」
咆哮と同時に、ルカの足が風を裂き、鞭が唸りを上げた。
疾風のような軌道で唸りを上げ、狙い澄ました一撃が、蜂須賀の足に絡みつく。
「――ぐッ……!」
バランスを崩した蜂須賀の体勢が傾ぐ。
足が止まる。それだけで、追いついた意味があった。
(――止めた……)
けれど――
「っ、く……!」
次の瞬間、ルカの膝が崩れた。
肺が焼け、頭が回らない。
毒の侵蝕が、確実に内側を蝕んでいた。
(……やべぇ、吸いすぎた……)
視界がぐらつく。
脚がもつれて、そのまま瓦礫の上に、ずしゃ、と倒れ込む。
荒い呼吸の中で、それでもルカは目を逸らさなかった。
霞む視界の先――蜂須賀を、決して見失わないように。
――逃がさねぇ。
地面に倒れ伏しながらも、ルカの右腕は震えながら鞭を握り締めた。
その先端は、確かに蜂須賀の足首を絡め取っている。
まるで執念のように、締めつける。
「逃げんなよ……蜂須賀ぁ……ッ!!」
嗄れた声が、毒に濁った空気を突き破った。
「お前は……奪ったんだよ。……一方的に、」
荒い息を吐きながら、言葉を絞り出す。
喉の奥が焼けるように痛い。それでも――声は止まらない。
「誰かの指示で動いて……言われたままに毒ばら撒いて……
どうせ、自分の手ぇ汚したつもりにもなってねぇんだろ?」
顔を上げる。
汗と灰塵にまみれた視界の先に、蜂須賀の姿があった。
鞭に捕らわれた足を引き剥がそうともがいているその様が、無様に見えた。
「俺が……全部、ぶっ潰してやる……ッ!」
目が、怒りに濁る。
「お前も――お前の後ろにあるもんも……
その正義ヅラした地獄も、全部だ!!」
手が滑りそうになる。
けれど、力は抜けなかった。
「逃げんなよ……お前がやったんだ……!」
鞭が、ぎち、と音を立てて締まる。
「――離さねぇぞ。もう、逃さねぇからな……ッ!!」
――足が、動かない。
焦ったように、何度も引き剥がそうとした。
だが、足首に絡んだ鞭は、まるで蛇のように喰らいついて離れない。
(……こんな…こんなことが……)
視線の先。
倒れたままのルカが、顔を上げてこちらを睨んでいる。
毒で朦朧としてるはずの目に、まだ“執念”が残っていた。
もう、逃げられない。
駒としての役目も、もう終わった。
(あぁ……)
喉の奥で、小さく乾いた笑いが漏れた。
(……捨て駒に…なるつもりは、無かった……)
だが失敗した時点で、回収なんてされない。
捕まれば、情報の秘匿のため、殺されるだろう。
――それなら、自分で幕を引くしかない。
舌の奥を、ゆっくり押し当てる。
奥歯に仕込んでおいた、割れば即死の毒入りカプセルが、そこにあった。
(……せめて、)
せめて、“この瞬間”だけでも。
支配されて死ぬんじゃない。
自分の意志で終わらせる。
相手の目を見て――自分で、引き金を引く。
ぐっと首を傾け、ルカを見下ろす。
「――私がいなくなっても、もう、“毒”は回っている。」
その目に焼きつけてやる。
“自分じゃ届かない場所”にいる者の顔を。
「――何も、変わりはしない。」
カチリ、と音がした。
次の瞬間、蜂須賀の喉がびくりと激しく跳ねた。
口の端から、泡立つような血がにじみ、
吐息とともに泡立ち始める。
「……ッ、が……あ……」
断続的に喉を鳴らしながら、肩が大きく揺れる。
その身体が、震えるように痙攣し、ぐらり、と後ろへ――
そして。
――音もなく、崩れ落ちた。
血の混じった唾液が、顎から地面へ垂れ落ちる。
目は、虚空の何かを見据えたまま、もう動かない。
まるで、笑っているような、
皮肉な安堵を、わずかに滲ませた表情を残して。
「……は……?」
その様子を、ルカは――ただ、見つめることしかできなかった。
「……なに、してんだよ……」
喉の痛みも、肺の灼ける感覚も――今はもう、どうでもよかった。
それよりも、胸の奥を刺した“何か”が、ずっと抜けずに残っていた。
「おい……嘘だろ……っ」
声が震える。
言葉にならない音が、喉の奥で何度も引っかかる。
「なんでだよ……! 逃げんなって言っただろ……っ!」
地面を這った指先から、爪が割れた。
握る力も残ってないくせに、ただ、何かを掴みたくて――手が、勝手に動いていた。
「話せよ……答えろよ……!っざけんなよ……ッ!!」
目の前の死体に怒鳴ったところで、もう何も届かない。
それでも、言わずにはいられなかった。
「なんでてめぇだけ……っ、てめぇだけ、楽になってんだよ!!
てめぇは……っ、あんなもん残して、全部投げ出し残して……逃げんのかよ!!」
喉が潰れるような声が、咆哮となってこぼれる。
「ふざけんな……!ふざけんな、ふざけんなッ!!」
崩れ落ちるように、地面に額をぶつけた。
震える肩が、噛み殺せない悔しさに、ぎし、と音を立てる。
「…くそ…、くそ、っくッ……そォ……!!!」
ぼろぼろと、涙が混じる。
声にならない叫びだけが、毒の残滓の中に響いた。
――その声が、耳の奥に残っていた。
うまく聞き取れなかった。
けれど、誰よりも知っている声だった。
(……ルカ……)
目も、動かない。
身体は、とっくに限界だった。
それでも、その声だけが――
心の底に、焼きついて、離れなかった。
(……無事、で……よかっ……た……)
それが、最後に浮かんだ想い。
意識は、ゆっくりと、
あの声を抱えたまま、静かに闇へと沈んでいった。
…そして、ルカもまた。
肩を揺らしながら、地に額を押しつけたまま、
そのまま――意識を手放した。




