第18話 クソ野郎
#第18話 クソ野郎
ナオの目が、見開かれる。
その瞳に、一瞬だけ――光が宿った。
「……」
沈黙。
張り詰めた空気に、誰も踏み込めず、時間が凍る。
ルカの叫びが、空間ごと呑み込んだまま、静止していた。
だが――
最初に動いたのは、那智だった。
「……ナオってさ。」
ゆっくりと笑う。
その声音は、驚くほど穏やかだった。
「言葉、いらないよね。黙ってても、伝わってる……って顔、するから。」
そのまま、棒を構える。
一歩。深く踏み込み、
「だからほんと…扱い易い。」
正面から、ルカの腹を狙った鋭い横薙ぎ。
「……ッ!」
咄嗟に鞭で受ける。
受け流すように後退するルカに、
那智は間髪入れず、二撃目を振るう。
棒の“抑え”の角度で、ルカの視線を下に誘導しながら、
三撃目、真上から――
「ッ、おいおい、テンポ早ぇな……!」
頭上からの一撃を、鞭の柄で押し返すように逸らす。
その横から――ナオが斬り込んだ。
「っ!」
初動のタイミングが微妙にズレる。
呼吸が合ってない。
刃は棒の外側を削っただけで――本命には、届かない。
「ナオ、横!」
「分かってる…!」
返すように、那智が棒を横一文字に払う。
ナオが跳ぶように避け、ルカと背中合わせに戻る。
「……何?それ。」
那智が、ぽつりと呟く。
「全然ダメだね。
ルカ、お前、"ナオの使い方"…分かってないよ。」
「……あ?」
「ちゃんと、"GO"って指示して"やらないと"。」
にやりと笑いながら、再び前へ。
「ナオ、お前、だいぶ腑抜けた顔になったよ。
前はもっと、いつも必死だった。」
「……へぇ、羨ましいならそう言えよ。」
ルカが鞭を握り直す。
「羨ましい、ねぇ……」
棒を肩に担ぎながら、一歩。
あえて攻め急がない那智に、警戒が滲む。
「それ、」
棒を、構え直す。
「勘違いも、甚だしいな。」
棒が、ルカの視界を奪うように横から払われる。
動きを読むような、封じ込める一撃。
受けた鞭が力に負けて、少し押される。
「チッ……ナオ、来るな!」
ナオはルカの声を無視し、
抜けるように回り込み、左脇から斬り込む。
だが――那智が棒を引いて、距離を取った。
「ナオって、ほんと素直で可愛いんだよね。」
ふと、口調が変わる。
棒をくるりと回しながら、にこりと笑って言った。
「優しくて、情に脆くて、馬鹿みたいに真っ直ぐで……」
その声には、皮肉よりも哀れみが滲んでいた。
「――まぁ、“愚か”…って意味だけど。」
その一言で、何かが――音を立てて、切れた。
「…………は?」
ルカの足が、自然と前へ出る。
反射でも、衝動でもない。
けれど、そこには確かな“意思”があった。
鞭を巻き上げる。
風を裂く音が、短く、鋭く響く。
「ナオは――」
怒鳴っているわけじゃない。
けれど、声の芯には確かに、熱があった。
「バカみたいに素直で、優しくて。
情に脆くて、真っ直ぐで――」
言葉に合わせて、鞭が打ち込まれる。
棒と金属がぶつかり合い、火花が散った。
「それが、“愚か”?」
ルカの声が、今度は低く吠えた。
「――ふざけんなよ!!」
金属音が連続する。
だが、那智の棒の軌道が――一瞬、狂う。
「ナオはなぁ……素直で……」
ルカの瞳に、燃えるような光が灯る。
「――俺と同じ、クソ野郎なんだよ!!!!」
叫ぶように、吠えるように。
だが、その言葉には怒りでも、憎しみでもなかった。
むしろそこには、
――“誇り”と“肯定”が、確かにあった。
空気が、一瞬、裏返る。
那智の足が、半歩だけ止まる。
目が、わずかに見開かれる。
「……クソ野郎、ね…。」
そのまま、視線がナオへと移る。
「お前は、それでいいの?」
間を置いて、声を落とす。
「――飼い慣らされてる方が、性に合ってたはずだろ。」
そう呟いた那智は、
右手をゆっくりと持ち上げた。
人差し指と小指だけを立て、
中指と薬指を折り――親指で軽く押さえる。
犬を模したその手で、
押さえた指を離し、ぱくっ、と口のように動かしてみせる。
「…………わん。」
薄ら笑いを浮かべ、
わざとらしく首を傾けたまま、ナオを見つめる。
その仕草にあったのは、
侮辱でも怒りでもない。
“懐かしむような支配欲”――
かつて首輪をつけていた者だけが持つ、
歪んだ“愛着”のようなものだった。
「“犬”か…“クソ野郎”か、」
言いながら、指先を揺らす。
「……どっちが、お前に似合ってると思う?」
その声は、ただの煽りではなかった。
選ばせる。
自分の意思で、どちらかを。
それこそが、那智の“支配のやり方”だった。
だが――
その時、ナオの目がゆっくりと動いた。
まっすぐに。
一点の迷いもなく。
那智を――見返していた。
その瞳には、迷いも、恐れもなかった。
ただ静かに――答えを持っていた。
「……那智さん、俺……」
口を開く。
わずかな間を置いて、
まるで“言葉を噛み締める”ように、低く続けた。
「……クソ野郎、なんで。」
淡々と、けれど明確に。
肯定でも、自嘲でもない。
そこにあったのは、“選択”だった。
“犬”じゃない。
誰かの命令で動くでもない。
ただ、自分で選んで、ここにいる。
ルカと、並ぶために。
「……ほんとお前、つまらなくなった。」
那智が、眉を僅かに動かす。
わずかに、動揺の色が走った。
だが、もう遅い。
ナオの足が動く。
一歩、踏み出した瞬間には――既に斬撃が走っていた。
鋭く、静かに。
迷いのない一撃。
「…なら、それでいいです。」
ナオの声が、風を切る。
それは、“肯定”ではない。
“宣言”だ。
かつて首輪をつけていた男が、
その手で、紐を断ち切った証だった。
──この一歩は、“命令”じゃない。
──自分で選んだ、“自由”だ。
その背中を、ルカが見ていた。
一瞬、目を奪われる。
ナオの気配が――変わっていた。
「……ナオ……」
その名前が、自然と漏れた。
怒りでも焦りでもない。
胸の奥から湧いた、誇りと確信だった。
そして、そこには――
同じタイミングで踏み込んだ、ルカの姿があった。
呼吸が、合った。
速度が、重なった。
二人の動きが、ぴたりと揃う。
もう言葉を交わさなくても、目線を交わさなくても…
――次にお互いがどう動くのか、手に取るように分かっていた。
那智が、わずかに後退する。
棒が間に合わない。
思考が追いつかない。
初めて、那智の目に――焦りが滲んだ。
ルカが吠える。
「――よそ見すんなよ!!」
鞭が地を這い、那智の棒へと絡みついた。
金属同士が擦れる、低く軋む音。
一瞬、那智の動きが止まる。
「チッ……!」
那智が力で引き剥がそうとするが、
ルカは離さない。
「今だ、ナオッ!!」
ナオが走る。
一直線に、ためらいなく。
――この瞬間。
ルカもナオも予測していなかったことが、一つだけあった。
那智の左手が、静かに動く。
カチリ、と。
重みのある音とともに、棒に隙間が生まれる。
収納された鎖が走り、
――瞬時に、三節棍が展開された。
「……はあ……」
那智が、息を吐く。
それは、まるで“溜め込んでいた熱”を吐き出すような音だった。
「…気に入らないな。」
ナオが踏み込む。
だが、ほんのわずか――刹那の遅れ。
三節棍が、うねるように旋回し――
「飼い主に噛み付くような犬には…"躾"が必要だ。」
次の瞬間。
音すら消えるような勢いで、棍がナオの腹部を捉えた。
鈍く、重い音が響く。
「――ッ……かはっ……!」
ナオの身体が、空気を裂いて吹き飛ぶ。
ルカの目が、見開かれる。
「ナオッ――!!」
壁に叩きつけられるように、ナオの身体が落ちる。
口元から、血が滲む。
那智が、肩で息をしながら、ぽつりと呟く。
「……もういいや。」
那智は肩で息をしながら、
ナオとルカを見下ろすように目を細めた。
「これ以上見てたら、…吐きそうだ。」
視線を逸らす。
その声音には、もう笑いも皮肉もなかった。
「せいぜい――クソ同士で舐めあってなよ。」
ぽつりとそう呟くと、
三節棍を折り畳みながら、背を向けた。
軽い足取り。
けれど、その背中は、どこまでも重たく見えた。
ルカが、追おうとした。
けれど――
「ルカ……ッ!」
ナオのかすれた声が、その背を引き止めた。
その一言で、ルカは足を止める。
振り返る。
ナオはまだ、地に伏したまま――それでも、彼を見ていた。
「……ッ…、ナオ、大丈夫か!?」
――那智の姿は、もう路地の奥に消えていた。
風が吹いた。
ナオとルカの間を、静かにすり抜けるように。
どこか冷たく、乾いていた。




