第15話 沈む祈り
#第15話 沈む祈り
――視線の奥で何かが動いた気がして、ルカは足を止めた。
景色が、ゆっくりと滲んでいく。
焦りか、ただの疲れか。
……いや、もっと性質の悪い“何か”だ。
足音がした。
コツ、コツ、と乾いた音が、ゆっくりと近づいてくる。
この叉道街には似合わない、静かで整った歩調。
ルカはふっと息を詰めた。
警戒も、焦りもない。
ただ“当然のように”こちらへ向かってくる足取り。
――狙ってきてる。
本能が告げた。
目線を向けるまでもなく、ルカの中の警戒網が全方位に張り詰める。
(こんな歩き方、こんな空気、ここじゃまず見ねぇ……)
やがて視線の先に、男が現れる。
無機質なスーツ、黒革の手袋、隙のない姿勢。
街の濁りから、ひとりだけ浮いている。
――眼鏡の奥の、その瞳が。
光のない湖のように、こちらをじっと見つめていた。
(こいつか……)
ルカの背筋に、冷えた鋼のような緊張が走る。
何日も、何も掴めないまま動き回った。
けれどそれは、ただの空振りじゃない。
――情報がないなら、自分が餌になるしかねぇ。
そう思って撒いた足音に、ようやく獲物が――喰いついた。
小さく唇を噛み、ルカは一歩だけ前へ出た。
「……てめぇ、なんだ……?」
口にしてから気づく。
喉が、思った以上に乾いていた。
「――困るんですよ、そうやって目立たれると。」
男は静かに立ち止まった。
声には熱がない。
ただ、こちらを“処理対象”として見定めるような無機質な眼差し。
「……目立ってんのはお前のほうだろ。
この街でそんな身なり、逆に浮いてんぜ?」
ルカは笑わなかった。
けれど、言葉には毒を含ませる。
相手の出方を慎重に、静かに探るように。
「私はただ、仕事をしているだけです。
騒ぎ立てられては……我々“大人の輪”が困る。」
“大人の輪”――どこかで聞いたような、擦れた言い回し。
けれどその声音には、罪悪のかけらもなかった。
「へぇ。
じゃあ、その“大人”の手が、ガキの血管にまで届いてるのは――お前の趣味か?」
低く、抑えた声。
笑っているようで、牙の奥まで剥き出しだった。
「届くものは届く。それが流通です。
……誰がどこで使うかなんて、私は関知しない。」
蜂須賀の表情は微動だにしない。
人間としての“情”という概念が、最初から欠落しているような無機質さ。
「へぇ……それが“ビジネス”ってか。立派なもんだ。」
ルカの手が、ゆっくりとポケットへ潜る。
ただの癖か、それとも――“準備”か。
「だったら、“後悔”って単語も――辞書から消しとけ。」
その一言に、ほんの一瞬だけ――
蜂須賀の視線が、ルカの動きに反応した。
「…“手を汚さない仕組み”こそ、我々の強みですから。」
その瞬間、ルカの警戒網がもう一段、強く張り詰める。
(……こいつ、最初から“自分の手”を使う気なんざ、ねぇ)
ルカの手が、ポケットの中の鞭へと静かに触れる。
言葉の応酬は終わりだ。
もう、こちらから仕掛ける――そう決めた瞬間だった。
チッ……
耳に届いた、わずかなノイズ。
振り返るより早く、何かが、首筋に触れた。
「――……ッ⁉」
反射的に手を伸ばすも、すでに遅かった。
頸のすぐ後ろ――神経が集まるその一点に、何かが刺さったという感触だけが残る。
思わず後ずさりながら、視線を泳がせる。
その先に、わずか5センチほどの蜂型ドローンが浮かんでいた。
音もなく、影のように、背後から迫っていたのだ。
「……な、んだよ……これ……」
言葉がうまく出てこない。
声が、喉の奥で空回る。
脚が――ぐらつく。
何が起きたのか、最初は分からなかった。
いや、分かってはいた。
ただ、それを“起きたこと”として認めたくなかった。
(――毒……!?)
首筋に残る、ひりついた痛み。
そこから、皮膚の下を這うように広がっていく“何か”。
汗が噴き出す。呼吸が浅くなる。
喉の奥が焼けるように熱い。
なのに、指先は死んだように冷たい。
「っ、……チッ……」
舌打ちも、うまく音にならない。
視界が、かすんで滲む。
まるで水の中に沈んでいくような、奇妙な浮遊感。
立っているはずの地面が、重力ごとゆっくり傾いていく。
(落ち着け……まだだ。まだ立てる……)
そう思って、足に力を込める。
――込めたつもりだった。
だが、足元はわずかに揺れ、膝が言うことを聞かない。
何かを言おうとして、喉を鳴らした。
けれど、声が――出ているのか、分からなかった。
そんなルカを前にして。
「……では、私はこれで失礼します。」
声は、あくまで静かに、他人事の温度で通り過ぎていく。
まるで、“作業の終了”を告げるだけの音だった。
わずかに視線を上げた先に、蜂須賀の姿は――もう、なかった。
足音も、気配もないまま。
ルカの膝がわずかに折れる。
(……逃げ、やがった……)
その事実だけが、頭の片隅に引っかかる。
それ以上に、今、自分の身体が異常だと――
そのことが、何よりも重くのしかかってくる。
聴覚が、すうっと剥がれ落ちるように遠ざかる。
世界が、ラップ越しの空間みたいに隔絶していく。
けれど――心臓の音だけは、妙に生々しく耳の奥に響いていた。
どくん、どくん、と耳鳴りのように響く鼓動。
焦りが、浮上してくる。
呼吸が浅く、早くなる。
目の前の風景が揺れ始める。
何かが、おかしい。
何もかもが、おかしい。
けれど、それを言葉にする余裕もない。
「………………っ」
喉が震える。
けれど音は、出ない。
……出ていないように思えた。
ああ――これは、やばい。
その自覚だけが、脳に焼きつくように突き刺さった。
(……ナオ……)
そう呼びかける声が、喉から漏れたのか、それとも心の中だけだったのか。
ルカには、もう分からなかった。
けれど――気づけば、その名前を、繰り返していた。
「……ナオッ……」
耳が、世界の音を拒絶するように閉ざされている。
名前が、聞こえない。
それでも、ルカは呼んだ。
「……ナオ……っ、……ナオ……!」
指も、足も、動かない。
喉が焼けるように熱い。
視界が闇に沈んでいくなかで、
ただ一つ――“彼の名前”だけが、そこに在った。
その名を呼べば、来てくれる気がした。
いや、違う。
来てくれなきゃ困ると思った。
もはや命令でも、期待でもない。
祈りに近い、かすかな願いのように。
「ナオ……っ……ナオっ!!!」
喉は震えていた。
けれどそれが音になっているのか、判別できない。
意識が揺らぐ。
世界が、濁った水の底へ沈んでいくように、遠ざかっていく。
それでも、まだ立っていようとした。
身体を支えようとした。
けれど――膝が、限界だった。
崩れるように片膝をつく。
地面の冷たさが、皮膚を通して神経にまで染み込んでくる。
……そのときだった。
――足音が、した気がした。
それは、自分の意識が生んだ幻かもしれない。
ただの風の音だったかもしれない。
けれど、それでも。
(……ナオ……?)
微かに、誰かの気配を感じた。
視界の端に、白い何かが揺れた気がして。
ルカは、半ば本能でその名前を呼ぶ。
(来た……のか……?)
返事はない。
気配もすぐに、また遠ざかったように思えた。
けれど、ほんの一瞬――
その存在だけが、確かにここにあった気がした。
……だから、もう大丈夫だと。
そう思ったのかもしれない。
意識の端が、静かに、音もなく崩れ落ちていく。
(……ナオ……)
もう一度その名前を思った瞬間。
ルカの身体が、力尽きるように、完全に地面へと沈み込んだ。
――夜の叉道街から、音が消えた。




