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第13話 暗中模索

#第13話 暗中模索


空調の音だけが、静かに部屋を撫でていた。

書類に目を通していたナオの手が、一度止まる。

ペンを置き、背もたれに体を預ける。


……気づけば、ここ数日、事務室には自分しかいなかった。


その沈黙を破るように、ドアが開く。


「おつかれサマね〜……って、あら?」


蘭子が、濃いめのサングラスを頭に乗せて現れる。

ナオを見つけると、わざとらしく首を傾けた。


「ナオちゃんだけ?あの子は?」


ナオは一拍置いて、軽く息をつく。


「……“あの子”は、ここ数日、姿を見てない。」

「へえ。やる事、溜まってるでしょうに。」

「……ああ。あいつが放り出して、俺に丸投げしてるだけだ。」


語気は淡々としていたが、声の奥に、かすかな苛立ちが滲んでいた。

だが、それ以上は言葉を継がない。


蘭子は眉をひそめ、ぽつりと呟く。


「……あの子らしくないわね。」


ナオは目を伏せたまま、何も返さなかった。


――それは、どこか“間違った静けさ”だった。


彼のいない事務室。

頼まれもしない書類整理。

妙に落ち着かない椅子の感触。


どこかが、狂い始めている。


――その違和感は、言葉にならずに、静かに消えていった。


そして、その声は、彼には届かない。


---


同じ頃、別の場所。

叉道街の裏通りを、ルカは歩いていた。


気づけば、また同じ路地。

もう、何日が経ったのかも分からない。


焦げた壁、薬の匂い、潰れた屋台。

一度見た風景なのに、「もしかしたら」と思ってまた覗いてしまう。


――あの子供たちと、似たような子が。

今もどこかで、同じ粒を拾っているかもしれない。


(……違う路地でも拾ってるかもな。

向こうの区画じゃもう、口にしてるかもしれない。

そのさらに向こうでは――)


思考が止まらなかった。

止まると、怖かった。


情報は掴めないまま、時間だけが削れていく。

ルクシオンには顔を出していない。

ナオに何か言う気にもなれなかった。

何を言えばいいのか、自分でも分からない。


「……なんなんだよ、これ……」


呟きは、喉の奥にへばりついたままだった。


何も分からないくせに、何かしなきゃって思ってる。

けど、何ができるか分からない。

ただそれだけで、足だけが勝手に動いていた。


気づけば、また別の路地を覗いている。


汗が肌に張りつく。

靴の裏が汚泥に沈みかける。

喉が乾いているのに、どこにも水はない。


それでも、止まれなかった。



――そのときだった。


前方の路地で、不意に、誰かの気配を感じた。


ルカは足を止める。

見覚えのあるそのシルエットに、眉がひときわ跳ねた。


「……なんで、てめぇがここにいんだよ。」


ルカの声には、苛立ちというより、疲労が滲んでいた。

それでも目は、鋭く那智を捉え続けている。


「やあ、偶然だね。」


那智は、路地の入り口に立っていた。

目線は街の奥を見ているようで、しかし確実に、ルカを見下ろしていた。


「偶然、ね……」


ルカは舌打ちし、視線を逸らす。


「この辺、なんかキナ臭いよね。

“ルクシオン”も気づいてたんだ。さすがだ。」

「……うるせぇ。」

「今日は、あの“おともだち”は一緒じゃないんだ?」


那智の口元に、悪意を帯びた笑みが浮かぶ。

ルカの足が、わずかに止まった。


「……関係ねぇ。」

「“ビジネスパートナー”ってとこ?……違うか。」

「……うるせぇって言ってんだろッ!!」


怒鳴り声と同時に、足元の空き缶が宙を舞った。

壁にぶつかり、乾いた音が路地に響く。


「おっと、怖い怖い。」


那智は肩をすくめ、ひと呼吸おいてから言う。


「……機嫌が悪いね。

“相方”が頼りないからかな?大変だねぇ。」


ルカの瞳が、ひときわ鋭く光る――

だが、それ以上は何も返さなかった。


那智は踵を返しかけて、ふと立ち止まる。

軽く振り向き、いつもの調子で、けれど低い声で告げた。


「……ま、いいや。でもさ、ルカ。」


声のトーンが、ほんの僅かに低くなる。


「“余計なとこに手ぇ出すの、おまえの悪癖だ”。

ルクシオンって、もっと賢い連中かと思ってた。」


その射抜くような眼差しに、ルカの足が、わずかに止まる。

そのまま、何も言わずに那智は闇の奥へと姿を消した。



ルカは、ただその背中を睨み続けていた。

胸の奥に残った、ざらつく感触を抱えたまま――


---


路地の奥へと姿を消した那智は、人気のない裏路地で足を止める。

短い沈黙のあと、耳元の小型端末に軽く触れた。


「……報告します。対象、単独での調査行動を継続中。

行動範囲は叉道街に集中。接触済み、反応は予想通りです。」


一拍置いて、口元に笑みを浮かべる。


「相方とは別行動のようで、“ルクシオン”全体の動きではありません。

…どうやら、息子のワンマンプレーのようですね。」


語尾が楽しげに跳ねた。


「こちらとしては、もう少し泳がせた方が良いかと。

感情で動くタイプですから――いずれ、自壊しますよ。」


通信を終えると、指先が静かに端末から離れた。


夜風が、髪を揺らす。


那智はふと空を見上げ、ぽつりと呟いた。


「……あいつも、あんなのが趣味だったなんて。

ちょっと意外だったなぁ。」


その目元には、笑っているのに笑っていないような、

奇妙な温度の光が宿っていた。


音もなく、那智は闇の中へと消えていった。


---


広々とした執務室には、静寂が満ちていた。

壁際には重厚な書棚。

その中央に、鷹宮忠勝が腰を据えている。


その前に、ミツと蘭子が並んで立っていた。


「ごめんね、僕のせいで……」


ミツが眼鏡のブリッジを押し上げ、静かに息を吐いた。


「まさか、お使いが引き金になるとは思ってなくて。

ルカくん、あれから戻ってきてないんだ。」

「えぇ。任務も、連絡も。全部ナオちゃんに丸投げ。

……不安定なのは分かってたけどね。」


蘭子は腕を組んだまま、忠勝を見やる。

いつもの軽口は消え、瞳には鋭さが宿っていた。


「――このままじゃ、もう“個人の暴走”じゃ済まなくなるわよ。」

「……あの、バカ息子が……」


忠勝の声が、地を這うように低く響く。

その視線は、机上の地図の一点に吸い寄せられていた。


「ルカが掴んだ“蝶”の粒。

もしあれが新種なら――撒いてるのは、レーヴァじゃねぇのかもな。」

「そうね…ここ数ヶ月、薬の流れ方が妙だった。

ルートも、手口も……顔が違ったわ。」


蘭子の声に、ぴんと張り詰めた空気が走る。


「バックに、かなり大きなものが動いてる。

新興のちゃちなちょっかいじゃない。」


ミツが苦い顔で頷き、目を伏せた。


「……ごめん。僕の読みが甘かった。

あんなもの、見せるべきじゃなかったのに……」

「違ぇよ。」


忠勝が、静かに立ち上がった。


「ルカは、いずれ自分の足でそこに辿り着いてた。

ただ――問題は、その先だ。」


窓の外、夕陽が煌都を赤く染める。


「以前から薬に太いレーヴァとは、やり方が違う。

…誰かが、この街の均衡を“内側から”壊そうとしてる。これはもう――」

「毒を餌に、民から沈める、か……」


ミツの言葉に、蘭子が頷いた。


「まるで、戦争の常套手段ね。

……あの子らは、まだ気づいてないけど。」

「……ったく。あのバカには口を酸っぱくして言ってるんだ。

“ルクシオンは、手の届くところを見極めて動く”ってな……。

こりゃ、また説教だな。」


忠勝の目が鋭く光る。


「だが、街が喰われるなら――」


その言葉は、重く、揺るぎない決意の色を帯びていた。


「……こっちも、考えねぇとな。」



静かな執務室に、わずかな気流が走る。

それは、嵐の前の、張り詰めた静けさだった。

――誰よりも早く、“嵐”の匂いに気づいた者たちの沈黙だった。


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