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第9話 暁光

# 第9話 暁光


ルクシオンの地上階、昼下がりの事務室。

壁際のホワイトボードには依頼の進行状況がびっしりと書き込まれ、ソファには背もたれに凭れたまま脚を組むルカ。

窓際のカウンターでは、ナオが新しく届いた資料のファイルを整理していた。


室内は静かだった。

けれどその静けさは、休息というより、何かを“待っているような”緊張感を孕んでいた。


ガチャ、と扉が開く音がする。


「……こんちはー……って、あ。いた」


クラウンが小さく呟きながら顔を出す。

普段はほとんどAbyssの中に籠っている少年が、地上階に姿を見せるのは珍しい。


「おーめずらしいな、お前が顔出すの。」


ルカが片手を軽く上げ、口にくわえたスティックキャンディを指で摘まんだ。

どこか面倒くさそうな仕草だが、それなりにクラウンへの関心も含まれている。


「雪に頼まれてさ。なんか、古い紙の資料が欲しいって。

たぶん、デジタル化されてないやつ。棚、見てもいい?」

「ダメ。つーか雪って呼ぶな"雪さん"と呼べ。」

「…めんど。」


クラウンが肩をすくめたその瞬間、ルカがソファから体を起こした。

組んでいた脚を解き、立ち上がってゆっくりと近づいてくる。


「お前なぁ……まず“入っていいですか?”だろ?

それからドアはノックな、ノック。“失礼します”くらい言ってから入ってこい。あと"雪さん"。」

「うわ、うるさ……。

……ルカ兄って、もっと適当な人かと思ってたのに。」

「…お前の兄じゃねぇ、ルカ"さん"な。」


すっと声の温度が下がる。


「もういいよ。ナオ、こいつ止めてよ。」


クラウンがそう言って視線を送ると、

ナオはファイルを閉じながら無表情でルカにだけ目を向けた。


「……反論するだけ疲れるからな。」

「うわぁ、放棄……」


クラウンが肩をすくめた瞬間、

ルカはふ、と肩の力を抜き――次の瞬間には、口元を悪戯っぽく吊り上げた。


「ダーリンからも言ってやってくれよ、敬意を持てって。」


ふざけた声音と一緒に、ナオの方へ視線を滑らせる。

その目は、擦り寄るでも甘えるでもなく、“わざとらしく演じてみせている”ような軽さだった。

ナオはその視線を一瞥だけして、反応を返さない。


けれどクラウンは――

完全に思考を停止していた。


しばらくの沈黙のあと、ようやくその口を開いた。


「……ねぇ、思ってたんだけどさ。」

「ん?」

「“ダーリン”って、何?」


一拍置いて、眉をしかめる。


「っていうか、なんなのそれ。……キモいんだけど。」


クラウンが眉をしかめると、ルカは吹き出しかけた声を喉で飲み込んだ。


「ははっ、若いって素直でいいなー!」

「いやいやいや…最初はネタかと思ってたけど……マジっぽいし……マジなの?ノリなの?……なんなの?」


クラウンが目を細めてじっと睨むと、ナオはため息を一つだけついて、ファイルを机に戻した。


「まぁ、子供にはまだ早い。」

「そうそう、大人には大人のジジョウがあんの。」


ルカが笑いながら口を挟む。


「……やっぱ、キモいわ。」


クラウンが突き放すように言いかけた、そのとき――


――部屋のスピーカーから、雪の声が割り込んだ。


『あっははっ……ちょっと、待って、今のやり取り……お腹痛い……!』

「雪、聞いてたの――」「"雪さん"な。」


クラウンが眉間を押さえる。

ルカの遮りも、雪の笑い声に軽やかに上書きされる。


『聞いてた聞いてた。クラウン、普通に気になるよね。うん、わかるよ。……じゃあ、これ見て?』

「え、何を――」


言うが早いか、部屋のモニターが明滅し、ゆっくりと1枚の画像が浮かび上がる。


「…………は?」


表示されたのは、豪奢なシャンデリアがきらめくパーティー会場。

その一角で、ナオがルカの顎に手を添え、腰を抱くように引き寄せていた。

ナオの目元は無表情のまま。 それが逆に、仕草の艶やかさを際立たせていた。


あと数センチで唇が触れる。

その緊張感に、周囲の視線が釘付けになっているのが、写真越しにもわかる。


一方、引き寄せられたルカはというと――

完全に虚を突かれた顔で、目線を泳がせていた。

主導権を握られたまま、どうにも身動きが取れない。


クラウンの口が、ぱくぱくと魚のように開閉する。


『ふふっ……ね?“ダーリン”って呼びたくなるでしょ。』


雪の悪戯っぽい笑い声が、スピーカー越しに転がった。


ルカは画面を見つめたまま、口元を緩めた。

スティックキャンディをくわえ直しながら、どこか素直に感心したように言う。


「……やっぱこのナオ、カッコいいよなー。

俺、この写真、結構好きなんだよ。」

「やめろ。」


低く返された一言は、窓際からだった。

ナオは机に突っ伏し、肩まで覆うファイルで顔を隠している。


「なにその反応。お前、いまさら照れるタイプだったっけ?」

「照れてねぇ。……思い出したら死にたくなっただけだ。」

「照れてんじゃん。」


クラウンが困惑したようにルカとナオを交互に見ていると、

スピーカー越しに雪の笑い声がふたたびこぼれた。


『あはっ、ナオ……すっごく似合ってるのにね。』

「うわー……。てか完全にこれ、王子じゃん。」


クラウンが口を尖らせて呟くと、ナオの肩がビクリと揺れた。


「……っ、二度と使うな、その単語。」

「王子?」

「黙れ。」

「うわ、王子怒った。」

「刺すぞ。」


ソファに戻ったルカが、どこか満足げにそのやり取りを眺めていたが、

やがて、スティックを口から外し、ぽつりと呟いた。


「ま、全部――事情があるんだよ」


その声音は、ふざけているようで、どこか少しだけ真面目だった。

口調の端々に、どこか懐かしむような熱を含んでいる。


ルカはちらりとクラウンを見やり、ゆっくりと姿勢を正した。


「しゃーねぇな。……耳かっぽじって聞けよ、クラウン。

あれはな――“バディが生まれた日”なんだよ」


+++


「お前、結婚しろ。」


ルクシオン最上階、応接室。

ルカは組んでいた手をふと止め、向かいに座る父親をまじまじと見た。


「……は?」

「結婚しろって言ってんの。ん? 聞こえてるよな?」


平然とそう告げるのは――鷹宮忠勝。

煌都の裏で名を馳せた伝説の男にして、ルクシオンの創設者。

だがその重々しい肩書きに、目の前の“ふざけた提案”はあまりにも似つかわしくない。


「どの脳味噌からその発想が湧いた。」


ルカが眉をしかめると、忠勝は茶菓子をつまみながら口角を上げる。


「だってよ、可愛い孫が見てぇんだわ、俺も。

それに戦争の火種は、できるだけ潰しときたいじゃん?」


……笑い混じりの口調が逆に、ぞっとする。

本気か冗談か――判断を迷わせる絶妙なライン。


「昨日話が来た。相手はヘリオス、風見獅堂の娘だ。……薫って子な。

で、“ルカ様じゃなきゃやだ!”って全力駄々こね中。お前、なんかした?」

「……は? いやいやいや、記憶にねぇし。」


ルカは両手をわずかに広げ、額に手をやる。


「この間の懇親会でよ。

お前があんま気にせず軽口叩いてたら、勝手に火ぃ点いたらしい。

可愛いよなー、若いって。」

「全然可愛くねぇし。てかなんで俺に直接言ってこねぇの?」

「お前に直接振ったら逃げるだろ? だから親ルート。効くだろ?…風見はかなりの武闘派だからなぁ。」


忠勝はにやりと笑ってカップを掲げた。


「まぁ俺も、変にヘリオスとの関係拗れたくはねぇ。

お前が首縦に振ってくれりゃ、一番丸い。」

「おいおいおい、ちょっと待て。

なあ、そこを丸くおさめんのが“親”の役目だろ? “ルクシオンのボス”の手腕だろ?」

「ほらルーカぁ、そろそろ女の子ともちゃんと付き合っとけよ。孫見せろよ。」

「殺すぞ、あとルーカって呼ぶな。」

「ま、孫ができたら名前は俺が決めてやるよ。“尊”とか“大和”とか。

あ、女の子だったら“楓”とか……」

「うるせぇ黙れ帰れ。」


忠勝は相変わらず軽い調子のまま笑っていたが、

その瞳の奥にある硬質な光だけは、消えることがなかった。


ルカはようやく、腹の底で確信する。


――これは、“冗談を装った命令”だ。

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