第9.5話 僥倖
#第9.5話 僥倖
Abyssは、今日も静かだった。
世界のどこにも似ていない深海の青が、ふたりを包んでいる。
言葉はなかった。
ただ、隣にいる――それだけが、空間を満たしていた。
クラウンは、雪を見た。
雪は、それに気づいて、静かに視線を返す。
「……なぁ。」
「ん?」
小さく、クラウンが言った。
いつもの軽口じゃない。
なにか、深く沈んだものを引き上げるような声。
雪は、少しだけ微笑んで頷いた。
クラウンは身体を寄せた。
迷いながら、それでも、雪の耳元にそっと顔を近づけ――
ほんの一瞬、空気が止まった。
そして、クラウンは囁いた。
誰にも聞こえない、読者にも届かない声で。
彼の“ほんとうの名前”を。
雪は、目を瞬かせた。
驚いたように、でもすぐに――ふわりと笑った。
「……雪だけは、知っててよ。みんなは、"クラウン"でいい。」
「…ありがとう。」
やさしく、まっすぐに。
そしてクラウンの耳元にそっと近づき、
彼の名前を、小さく呼んだ。
その声は、水面に浮かぶ光みたいに、やわらかくて、ぬくもりがあった。
クラウンの肩が、ほんの少しだけ揺れる。
「……やべぇ…嬉しい。」
息を吐くように、笑った。
照れでも、冗談でもない。
たぶん、彼の人生で初めての――
心から、満ち足りた笑み。
沈黙が、再びふたりを包み込む。
けれどその静けさは、もう以前のものではなかった。
名前を呼ばれた瞬間、
胸の奥に火が灯った気がした。
……ああ、これはきっと、
もう誰にも渡せない。




