第8.5話 メルトダウン
# 第8.5話 メルトダウン
灯りの落ち着いた事務所に、夜の静けさが滲んでいた。
半地下の雪の部屋を後にして、時計の針はすでに深夜を指している。
ルカはソファに仰向けになり、天井をぼんやりと見つめていた。
片腕をだらりと垂らし、もう片方の手で、空をゆるく扇ぐように。
「……せっちゃん、大丈夫かなぁ……」
ぽつりと漏れた声に、隣の椅子で書類を整理していたナオが顔を上げる。
「……何が?」
「いや……さぁ……」
ルカは足を組み替え、視線を天井から外した。
「認めたくねぇけどさ……せっちゃんに彼氏できたみたいで……いや、師弟……か?」
ナオは小さく肩をすくめた。
「親目線かよ。」
「親だよ、悪ぃか。」
ルカはそう言って、ようやく上半身を起こす。
冷蔵庫の方へちらりと目をやった。
「……なぁ、ダーリン。飲もうぜ。」
「……は?」
「こういう夜はさ、飲まなきゃやってらんねぇだろ。」
ナオが目を細め、呆れたように息を吐く。
「まさか、また姉さんの酒に手ぇ出す気か。」
「“勝手に借りる”って言ってくれよ。父の情緒は今、急務なんだよ。」
ルカは立ち上がり、迷いなく冷蔵庫を開けた。
中には、ラベルの洒落た瓶――蘭子の自家製レモンウォッカがある。
「よし、いた。」
グラスを二つ、手際よく並べる。
とろりとした液体を注ぐ音に、ナオも観念したように立ち上がった。
氷の転がる音が軽やかに響く。
「……仕方ねぇな、ハニー。一緒に怒られてやるよ。」
「さすがダーリン。」
ルカが差し出したグラスに、ナオが静かに自分のグラスを合わせる。
コン、と軽やかな音が、夜の事務所に響いた。
――レモンの香りが鼻に抜けた。
一口、喉を滑ったそれは思ったよりもまろやかで、甘みがふわりと残った。
「……なんだ、意外と飲みやすいな。もっとエグいのかと。」
「蘭子の手作り、舐めんなよ?」
ルカがにやりと笑い、グラスを軽く揺らす。
ナオは、目を細めてルカを見やった。
「舐めてたわけじゃない。」
「ふぅん?ダーリンって意外と口悪いよなぁ。」
「……酔わせたいなら、もっと注げよ。」
「おっ、来たな。じゃあ、おかわりってことで――」
グラスがテーブルに軽く置かれ、ルカが瓶に手を伸ばす。
その途中、ナオがぽつりとこぼした。
「……クラウン、すげぇ顔してたな。」
手を止めたルカが、ちらりとナオを見る。
「……な。」
一瞬、空気が落ちた。
けれどルカは、すぐに笑みを取り戻す。
「でも、せっちゃんがいるから。もう大丈夫だろ。」
「……ああ。」
ナオは再び、グラスを口に運んだ。
――二杯目は、ルカの手で注がれた。
レモンの香りにも、もう慣れてきた頃だった。
「……にしても、よくやるよな、俺たち。」
グラスの縁を指でなぞりながら、ルカがぽつりとこぼす。
「あれだけ駆けずり回って、血まみれになってさ……
で、最後はガキの恋路に胃を痛めるとか。」
「……まあ、そんな日もある。」
ナオの声は低い。
けれど、棘はなく、ほんの少しだけ肩の力が抜けていた。
「それが俺たちの“普通”か。どうかしてるな。」
ルカが笑いながら呟く。
けれどその笑みは、少しだけ遠かった。
「でも……時々、見失うよなぁ。自信。」
ナオは応えない。
ただグラスを手に取り、口元まで運ぶ。
「……ハニー?」
ルカが、いつもの軽い調子より少し低い声でそう呼んだ。
「……ん。」
ナオが静かに応じる。
どこかくすぐったそうな余韻を目の端に浮かべて。
「頼りにしてんだぜ、俺は。」
その言葉にナオが少しだけ目を伏せる。
グラスの中の氷が、わずかに揺れた。
「……酔って言ってんなら、明日忘れろよ。」
「……あぁ、忘れるよ。」
そう言いながら、ルカの目はどこか静かだった。
本当に忘れるつもりなんて、きっとなかった。
――三杯目のグラスが、また静かに満たされる。
氷がひとつ、控えめな音を立てて転がった。
「……結局、全部雪に任せて……これで良かったのか……」
ぽつりと、ナオが呟いた。
「……何を今さら。」
ルカがやわらかく返す。
けれど、その目線はナオの指先に添えられたままだ。
「なんか……どこまでが俺の責任で、どこまでが自分のエゴなのか……
分かんなくなる時、あるんだよな。」
グラスを揺らしながら、ナオは視線を落とす。
さっきまで真っ直ぐだった背筋が、少しずつ前へ傾いていた。
「“ああすればよかった”とか、“俺がいなければ”とか。
そればっか、ぐるぐる考えてさ……バカみてぇだよな。」
「……ナオ。」
ルカが名前を呼ぶ。
ふざけた口調ではなかった。
「……バカだな。そういう時こそ、頼れよ。」
ナオは応えず、左腕に顔を埋めた。
そのまま、かすかに笑ったような気配がする。
頬が袖に隠れ、表情は見えない。
けれど、その姿勢が、どこか諦めにも似ていて、
ルカは黙ってグラスを手元に戻した。
「……ほんと、何やってんだろうな、俺……」
酒が回っているのか、声がすこし滲んでいた。
「なぁルカ……もっと、俺のこと……使ってくれよ……」
それは、掠れるような声だった。
もはや相手に届かせるつもりもないような。
それでも、ルカは黙って聞いていた。
グラスの中の氷が、かすかに泣いた。
――――しばらくの沈黙が、部屋に滲んでいた。
ナオの腕に埋もれた顔は、もう動かない。
そのまま、感情を沈めるかのように、ゆっくりと呼吸している。
ルカは、立ち上がらなかった。
けれど、グラスをそっと卓上に置いた瞬間、
その手がほんのわずか、空気を掴むようにふらついた。
小さく息をついてから、ナオの隣へと腰をずらす。
「……お前さ、酔うとほんっと扱いづれぇな。」
そんな言葉とは裏腹に、
その声はやさしかった。
ナオの肩に、ゆっくりと手が伸びる。
そして、髪の上にそっと触れる。
「でも……俺が“使う”んじゃねぇよ。
お前が勝手に、俺に甘えればいい。」
ぽん、ぽん、と、
ゆるやかに、何度か撫でる音が落ちる。
ナオは何も言わない。
けれど、腕の奥でかすかに、息を呑むような気配があった。
「お前がそうしてる間は、ちゃんとここにいるからさ。
だから、たまにはちゃんと……頼ってこいよ。」
それは命令じゃない。
甘えでもない。
ただ、そこにあるというだけの言葉だった。
しばらくして、ナオが小さく頷いた気がした。
それきり、また静かな夜が戻ってきた。
グラスの中の氷は、溶けきっていた。
+++
翌朝、事務所の扉がゆっくりと開いた。
入ってきたのは、蘭子だった。
ソファでは、ルカとナオが身を預け合うように眠っていた。
テーブルには空のグラスがふたつ、
そして、瓶の半分ほど減ったレモンウォッカ。
蘭子は立ち止まり、しばし無言で部屋を見渡す。
酒の減りを見た瞬間、眉がぴくりと動いたが――
ふたりの寝顔に視線を落とした途端、その目元がほんのわずかに緩んだ。
あまりにも静かで、
あまりにも、穏やかな顔だった。
それがどれだけの夜を越えてきたものか、
蘭子には、なんとなく察しがついた。
「……ったくもう。男って、ほんとバカねぇ。」
ぽつりとそう呟くと、
蘭子はそっと扉を閉め、壁にもたれるようにして腕を組んだ。
静かな室内に、時計の秒針だけが響いている。
「……起きたら、覚悟してなさいよ。ふたりとも。」
静かな朝の音だけが、ふたりの眠りを見守っていた。




