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自警団が都市部を中心に国を自分たちの支配下に置いたころのことである。国の最北端にある村で、何年も寝たきりだった一人の女性が〈真実〉とともに目覚めた。その名をセイランといった。そして、彼女は都心へと向かい始めた。道中の様々な土地に立ち寄り、人々が怪物や化け物と呼んでいるあの存在は神であり、いよいよこの世に審判の時が来ているのだと告げていた。初めはそれを聞いて馬鹿にし、嘘つきとこき下ろしていた人々だったが、彼女の持つ予言の力はそんな彼らをも惹きつけ、そして救っていった。
その噂は瞬く間に国中に広がり、多くの人々がその存在を無視できなくなっていった。
一人で始まったセイランの旅路は、彼女のカリスマ性と、預言者としての能力によって、国の中心部にたどり着く頃には百人以上の人々を伴うものとなっていった。
自警団と会の双方に残された記録によると、本部へと辿り着いたセイランは、当時の自警団の代表との会合を許された。そして彼に神殺しをやめるようにと告げた。しかし、その要望はあっさりと断られた。自警団としては、彼女のことを一切認めないという姿勢を見せたのだ。
彼らのその答えを聞いた彼女は「私は朔月の夜が好きだ」とだけ言い残し、また北へと戻っていった。
そして、それから数日後、再び怪物が出現した。月のない、真っ暗な夜だったと言われている。
【若手導師キシン】
「導師様、どうして息子は、あんなひどいことを……。父親が神に救われて以来、たった二人の家族で生きてきたと言うのに……」
「お気持ちはとてもわかります。私も母と二人で暮らしていました。息子さんのおっしゃったことは非常に残念なことです。ですが、身に降りかかることには全て原因があり、神が我々に気づかせてくれるためのチャンスなのです。特に子は親の鏡と言われます。認めたくないものが多くあるかとは思います。ですが、ご自身のこれまでの行いの中にある原因を一緒に探し、それを正すために祈りましょう」
キシンは目の前にいる会員にそう説き、祈りを唱え始める。それに合わせて、会員は、祈りの言葉が書かれている本を読み上げる。
キシンが導きの会に入会し、十年。導師となって五年。そんな短い信仰歴でありながら、キシンは異例の出世をしていた。普通であれば、まだまだ地方で指導導師の下についているはずのその若さで、彼は新たな地域での布教リーダーを任されていた。それも、自警団員が昔から強い力を持つ図書館の近くでである。
どうすれば君のように多くの徳を積むことができるのかと、周囲の人々に尋ねられるたびに、彼は「何も私が特別なのではありません。全ては神のお導きでしょう」と答えていた。けれど、それは紛れもない建前だった。彼は、自分が異例の出世を遂げた本当の理由は、導きの会を心の底から信じていないことにあると確信していた。信仰というものは信じることに重きを置く一方で、信じれば信じるほど客観性を失い、他者に訴えかける力も弱まっていくものだと考えていた。信仰に囚われていないからこそ、教えそのものではなく、それを求める人々の望むものを与えることができるのである。
キシン・トゥ・パリル、導きの会に入会したときにもらった名前だ。表向きは聖なる意味を持ち、身を守るために授けられる名だ。しかし実際には、自警団の戸籍システムから逃れるための手段としての意味合いが強くなっている。病院の全てが自警団に管理されているため、出生時はもちろん、一度でも病院に行けば、誰であろうと名前や身体的特徴などが戸籍に強制的に記録される。それによって、税金の徴収などから逃れることが難しくなっている。夫を失い、自警団への税金が払えなくなった母親の入会によって、キシンたちは税の取り立てに追われる生活から逃れることができた。そうした経験から、彼は導きの会が必ずしも非現実的な利益だけを追い求めているわけではないと、早くから理解していた。そして、その自分の無信仰を逆手にとって、優位な立場に自分の身を置き、成功してきた。
こんな世界で生きていくのはまっぴらだった。だが、コネも何もない人間が、新世界に行けるほどの金を稼ぐのは現実的ではなかった。であれば、導きの会の幹部として中心部へとたどり着くことで、安全圏の権力を手に入れる方が、よほど現実味があると判断したのであった。弱冠十二歳の時のことである。
しかし、そうして着々と会の中で一目置かれる存在になったキシンにとって、この街での布教は全く予想外のことであった。ここの図書館はこの国で最大のものであり、税金もあてられている。そして、周囲に住む人々は自警団肯定派がそのほとんどを占めている。また、この国に数少ない図書館のある街に住むぐらいである、今ではほとんどいなくなった知識人――または自分をそうだと思い込んでいる人々――が多い。導きの会は〈会〉と名乗ってはいるが、その実情は宗教団体である。そんな自分たちの布教活動が、彼らに好意的に見られることはないだろうとわかっていた。知識層と宗教は折り合いの悪いことが多い。最悪の場合、何かしらの因縁をつけられ、暴力行為を受けるかもしれない。そう恐る恐る始めた活動ではあったが、キシンは徐々に、却ってこの場所での布教が他の場所よりも容易いことに気がつき始める。自称知識人の彼らは、知識の量で勝った者の論理の方が正しいように聞こえてしまうようだった。一度議論で言い負かしてしまえば、一転してこちら側へ与することがわかった。
自警団がこの国を支配してから、もうかなりの年月が経っている。だが、社会は一向に良くなっていない。そのことに気づかれないよう、彼らが情報統制している部分があるはずだと気づき、その穴を突けるようになってからは、なんとも容易い日々の連続であった。
「本当にありがとうございました。導師様」
説教を受けにきた会員が頭を下げ、会館を出て行く。会館と言っても、キシンの寝室の他に説教のための部屋があるだけの小さな部屋である。導きの会が力を持つ地方であれば、豪邸のような会館が立っている場所もあるが、まだまだ布教を始めたばかりのこの街では、これが現状である。
「失礼します。お疲れ様でした、キシン様」
出て行った会員と入れ替わりで男がやってくる。この男も、元々は導きの会を強く否定していた私塾の教師であった。けれど、自警団が護衛費という名目のもと徴収している税が、国民の教育にほとんど充てられておらず、任意の寄付金だけで運営している導きの会のおかげで地方での識字率が著しく向上しているデータを見せると、コロリとその立場を変えた。望む者に望む物を与える。それだけのことである。
国全体を守るために常に武装し、武器や防具を整えなければいけない自警団と、身一つで活動できる導きの会では、人々のために使える予算にそもそもの差がある。田舎の方では、住人全員が導きの会に入り、その保護下に入ることで、税金の支払いを完全に拒否しているところもある。そこの自治は完全に会が行なっている。そんなところが増えていくと自警団はより予算に頭を悩ませることになるだろう。
しかし、それによって自警団の力があまりに弱まりすぎると、実際のところ武力をほとんど持たない導きの会も困ることになるのは目に見えていた。それもキシンがこの街での布教に驚いた理由の一つであった。体裁上は国民全てを導きの会に入会させたいと言いつつ、自警団とは持ちつ持たれつの関係を維持したいというのが上の考えだと思っていたので、これほどの規模の場所での布教は、何か意向の変更があったのかもしれないとキシンは考えていた。だからこそ、男の持ってきた話には、少し不安を覚えた。
「ところで、キシン様。事情はわかりませんが、自警団員の中でもかなりの武闘派で知られる那羅という者が、こちらに向かっているという情報が入りました」
「安心してください。こちらは武装も何もしていない一般市民です。我々はただ神の言葉を伝えているだけで、悪いことをしているわけではありません」
税金を払うのをやめた会員だって、別に導きの会が強制したわけではない。彼らの自発的な決定である。彼らを罰することができたとしても、自分たち導師をすぐにどうこうする理由はないはずだとキシンは高を括っていた。市民からの人気下落に怯えて、田舎町一つを武力で取り返すことすらできない集団である。だが、それでもこれが崩壊のきっかけにならないとは限らない。
「ですが、一応何名かで見張るように伝えておいてください」
キシンはそうとだけ伝えると、窓の外にある空を見上げた。
【自警団文書係 凛】
自警団の本部から数時間かけて歩き、空が赤みがかってきた頃、凛は久々にこの図書館へやってきた。車なら一時間もかからない距離だが、目当ての資料が見つかるかもわからない調べ物に、貴重なガソリンを使いたくなかった。そこで、自ら徒歩での移動を申し出た。同行する那羅には申し訳ないと思ったが、すでに足が棒のようになり、メガネのレンズにまで汗が垂れている自分に対し、息一つ乱れていない彼女の姿に、そんな気持ちはさっぱりと消え去った。
凛がそんな思いをしてまでもここに来たのには、それだけの価値があると考えているからに他ならなかった。自警団に関する資料だけでなくとも、基本的には自警団の本部にある図書室で事足りる。ごく稀に学生の質問が非常に複雑だったりしたときにのみここへ来るが、多く数えても、それは年に五度ほどであった。そんなこともあり、来るたびにここの蔵書数には新鮮に驚いてしまう。よくもこんな時代にこれだけの量の本を守れているものだと思う。
「……代表たちが心配していたほどの変わりはないですね」
凛が街の様子を見ながら、恐る恐る那羅に尋ねる。那羅も郷原と同じく、人に緊張を与える雰囲気を持っていた。しかも、郷原とは違って、自分から気軽に話しかけるような性格でもない。自然と二人の会話は少なくなっていた。
「まあ、表面上はそう見えるな。けれど、こっちの方を警戒した目で見ている人間がチラホラいる。何かしらの情報が回っているんだろう」
そう言われ、凛は周囲を見渡すが、その視界に怪しいものは何も捉えられない。何度も死線を潜り抜けてきた人間だからこその洞察力だろうかと思う。
「とは言っても、図書館の中ならそんなに危険なことはないだろう。小一時間ほど私用で離れてもいいか」
「私用?」
那羅からは到底発せられそうにない言葉に、凛は驚く。彼女が聞いていた那羅という人間は、極端に言えば、二十四時間常に任務についており、それを喜びに感じているような人間だった。
「ああ、この辺りを拠点にする商人がいてな。国中を回っているから地方の情勢に詳しいんだ。何かいい話が聞けるかもしれない」
「それは、私用とは言わないんじゃないでしょうか……」
「護衛を束の間抜けるんだ、私用だろう」
なんとも肩透かしを食らったような気持ちになる凛。私用の内容から那羅の人となりを知ることができれば、帰り道はもう少し気楽になるかもしれない。そう期待していたのだ。それほどまでに、道中は息苦しい旅路だった。
「しばらくは中にいると思うので、全然気にせず。どうぞ」
「ありがとう。蘭次の方は頼むよ。契約書は専門外だ」
そう言って、那羅は凛が図書館に入っていくのを見届けると、その場を離れていった。
正直に言って、凛はほっとしていた。代表にしても那羅にしても、常に一緒にいるには緊張感がありすぎた。
ようやく自由に息ができるような気がして、大きく深呼吸すると、図書館の本や本棚、そして隅に積もった埃のにおいがした。普段自分がいる自警団の資料室を思い出し、安心する。
「すみません、昔の裁判記録に関連した本を探しているんですが」
「裁判記録……?多分あのあたりにあると思うんだけど……」
凛が尋ねるも、唯一この場にいるスタッフは、この時間に臨時の見張りとして来ているだけのようで、あまり蔵書について詳しくないようだった。以前来たときの老人であれば、ここにある本どころか、足りていないものや、欠けているページにまで精通していたのにと、心の中で文句を言う。
ただ、それを彼に言ったところで仕方がない。そのスタッフが指差した方向に進むと、公的な問題について扱った本や、書類をまとめたものが多く集まっていた。この国に残された数少ない図書館である。社会を立て直そうとした人々が、有志で拾い集めてきた書籍が本棚に隙間なく詰め込まれている。お世辞にも保存状態がいいとは言えないものばかりだが、文句は言えない。こんな世の中で、これだけの本が残されていること自体が奇跡なのだ。
凛は目当ての内容が書かれていそうな本をタイトルから探す。何度確認しても、凛にはあの契約書の不備を見つけられなかった。だからこそ、過去の知恵を借りようと、社会が崩壊する前の判例記録を探しにきた。それは今まで自分たち自警団が作ってきた契約書にすら波及する一手かもしれないが、それでも蘭次を救う可能性があるならば、それが自分がすべきことだと心に決めていた。
ぎゅうぎゅうに詰まっている本の中から、まずは一冊目を力一杯引き抜こうとする。ボロボロの本は引き抜くだけで表紙が壊れそうだったので、これがなかなか一苦労であった。本と本の隙間に無理やり指を差し込み、左右に揺らしながらゆっくりと引っ張る。その振動で本に乗っかっていた埃が落ちてきて、思わず凛はくしゃみをする。
すると、突然背後から嗄れた男の声が聞こえた。
「ずいぶん可愛いくしゃみだな。自警団員ってのは、そんなにお淑やかに育てられてんのかい?」
振り向くと、そこには三人の男が立っていた。身だしなみに気をつけていないのか、その余裕がないのか、全員が髪も髭も伸ばしっぱなしで、ボロボロの服を着ている。歯も白目も黄ばみ、嫌な咳をしている。
しまった。凛はそう思った。ほんの少し本に集中していた隙に囲まれたようだった。先ほどのスタッフに助けを求めても、戦力にはならないだろう。相手は三人。しかも、凛は市民を守る立場の自警団員だった。まずは自分で切り抜けるしかない。凛は小さな肩掛け鞄の中に入っている護身用の小型の拳銃を思い浮かべる。男たちが距離を詰めてくるよりも先に取り出せるだろうか。
「こんにちは。この街の方ですか」
彼らに気づかれずに鞄の口に手を近づけるため、なるべく丁寧な態度で、何も気にしていない素振りを見せる。
「押さえろ」
しかし、男は凛の行動の意味することに気がつき、残りの二人にそう言う。凛が銃を取り出すよりも早く、男たちは凛の体を拘束した。
「ちょいと用事があってな。来てもらおうか」
そう言うが早いか、男はポケットから麻袋を取り出し、暴れられない凛の頭に、それを被せた。
【自警団員 那羅】
街を歩くと、怪物がやって来た際の避難経路や、戦いやすい場所を必ず探してしまう。この街であれば、市民には図書館に逃げてもらい、少し離れた噴水広場に怪物をおびき寄せるのが一番安全だろう。すでに水が通らなくなって久しいので、破壊されたところで、この街のインフラになんら影響はないはずだ。
そんなことを考えながら、那羅は自分の腰にナイフと拳銃がきちんとあることを確認する。これももう癖になってしまっているなと改めて思う。ここに来るまでの道中でも、何度もしてしまった。凛とまともな会話も交わさずにである。任務に関係のないことを話すのが苦手だという自覚はある。凛に申し訳なかったと思う。子供の頃、彼女の両親の授業を受けたことを話そうと思っていたが、話しかけるきっかけをつかめなかった。何度も彼女の横顔を見ては母親似だなと思ったというのに。
この街に来てから、自警団の制服を着た自分に敵意を向けた視線を度々感じる。去年来た時には全くと言っていいほどなかったものだ。自警団員となって、前線に出始めてから、もう十五年は経つだろうか。怪物の出現数は、ここ数年どんどんと増えており、それに伴って自警団の信用は落ちていっている。自分が子供の時は、自警団に入ることは名誉あることだったはずだが、最近ではその能力があっても、親が入団を認めないこともあるそうだ。実際、自分の人生を顧みると、そんな親たちの心配もよくわかる。自分自身、よくもまあこれまで死ななかったものだと思う。たまたま人並外れた体格と力を持って生まれただけの人間だ。
自分が周りの少女たちとは違うのだと気がつくのに、そう時間は要らなかった。何せ五歳のときには自分の母親と同じ背丈になり、父親を背負うことができたのだから。十歳になった頃、異常な成長を続ける娘を持て余した両親は、那羅を自警団に送り込んだ。それまで彼女には、なぜ自分だけがこうも「おかしい」のか、全くわからなかった。
結局、医者が教えてくれた説明もよくわからなかったが、体はその後もどんどんと大きくなり、それが自警団では役に立つことはわかった。本部にある食堂で、生まれて初めてお腹いっぱいになるまで食事を摂り、ここで生きられるのなら、いつ死んでもいいやと思えた。
「本当に?」
目の前にいる――正確に言えばその顔を見るために、那羅はかなり見下ろさなければいけないが――青年がそう言う。数年前にこの辺りを訪れたときに知り合った行商人である。田舎の方までトラックを飛ばし、都会へと農作物を届けることを生業としているそうだ。彼や多くの行商人が、怪物から逃げているところを救ったのをきっかけに知り合ったのだが、自警団でしか生きたことがなかった那羅は、彼と出会うまで、そのような生き方をしている人が存在することすら意識したことがなかった。それ以来、この近くを訪れ、彼がいるときに、世の中のことを教えてもらっていた。
不思議なほどに馬の合う男だった。生まれてこの方、天涯孤独の人生を過ごしていた那羅にとって、彼は初めて友人と呼べる存在であった。そんな彼も、あまりにも世の中のことを知らない那羅を面白がっているのか、いつもニコニコと楽しそうに話していた。
「別に今すぐ死にたいわけじゃないさ。ただ、そうなってもいいと思えるぐらいに毎日精一杯のことをしてるんだよ」
「僕は無理だなあ。よっぽど自分の脳みそ騙さない限り、死んでもいいなんて思えないよ」
「じゃあ、夏一はそんなに生きて何がしたいんだ?」
那羅が行商人の名前を呼ぶ。
「決まってるだろ?チケットを手に入れるのさ」
「本気か……?」
「本気さ。そうじゃなきゃ、こんなご時世に一人で商売なんかやらないよ」
確かにそうかもしれないが、だからと言って、それをはっきりと目標として口にする人間に会ったことがなかったので、那羅は驚く。しかも、それを夏一から聞くとは、思いもしなかった。
「まあ、中にはただ闇雲に生きるために商売してる奴だっていると思うよ。でも、嘘でもこんぐらい大きい目標を言ってないとさ、こんな世の中で朝起きようって思えないだろう?」
「確かに、たくさん起きてる顔だ。クマがひどい」
那羅にそう揶揄われて、夏一は「うるさいな」と細腕で那羅の腰のあたりを小突く。
「那羅こそ、死んだらもう美味しいものも食べられないんだよ?」
「もう十分味わったよ」
「ふうん。まあ、自警団の食糧庫を食べ尽くしかけたほどだもんね」
そう言う夏一は、以前那羅から聞いた、彼女が食堂長にさんざん叱られた話を思い出して笑った。
そんな夏一の笑う横顔を見て、那羅も笑う。そして、なんと美しい顔だろうかと思う。彼の褐色の肌は陶器のように輝き、形の良い両の目はこれ以上ないほど完璧な位置に配置されていた。思い出し笑いで、その美しく少し垂れ気味な目のまつ毛に涙粒が引っかかる。彼はそれを、普段から長距離を運転しているとは信じがたいほどに細長い指で拭った。
彼が商売仲間と話しているのを見かけることがしばしばある。その度に強面の商売人たちに囲まれたその儚げな雰囲気があまりにもミスマッチで、思わず笑ってしまう。先ほど彼と合流したときにもそれがあった。その姿は、まるでこれから護衛されるどこぞのお坊ちゃんのようだった。自分と彼の二人が並んで歩いているのを見た人も、同じようなことを思うのだろう。
この美しい人形のような男の隣にいる自分を、誰も女だとは思わないだろう。那羅はそう考えていた。
「そういえば――」
夏一が急に自分の方を向いて来たので、那羅は思わず一瞬視線を背けるが、話しかけられたのに顔を合わせないのは却って不自然であることに思い至り、なるべく自然な流れで、また彼の方を向き直した。さすがに、顔をジロジロ見ていたことがバレるのは恥ずかしかった。
「――最近、田舎の方で神隠しが起きてるって話について何か知ってる?」
「神隠し……?」
「うん。先週得意先の田舎町に顔を出したら、建物とかは残ってるんだけど、人だけ綺麗さっぱりいなくなっていたんだ。まあ、こんな世の中だから、何かが立ちいかなくなって、全員で散り散りになった可能性だってゼロじゃないかなと思ったんだけど……商人仲間が、別の田舎でも同じことがあったって言うんだ」
少なくとも、那羅はさっぱり聞いたことのない話だった。そのことをそのまま伝える。
「そうか……。まあ、大したことじゃないといいんだけどさ。何があるかわからない世界だし」
「そうだな」
「ただ、ここからは僕の推測なんだけど……」
声を少しひそめる夏一。その様子から、どうやらここからが彼の本当に言いたかったことのようだと那羅は察する。これまでも彼の推測はかなりの確率で当たっていた。自警団もほとんどいない田舎との道なき道を行き来することを、その細い体と美しい顔で生業とするのには相当の危険が伴う。その危険をこれまで何度も掻い潜ってきて今の彼があるのは、その聡明な頭脳のおかげだろうと那羅は考えている。
「導きの会が怪しいんじゃないかと思ってる」
「導きの会が?」
予想外の単語に、那羅はただ繰り返してしまう。最近かなりの勢力を拡大している導きの会だが、彼らの目下の目的は、その会員を増やすことのはずである。であれば、せっかく配下に置きやすい田舎町を消滅させる必要性は全くと言っていいほど思いつかなかった。
「言ったようにこれは推測で、確証は何もない。でも、さっき僕が言った町も、商人仲間が言っていた町も、人口のそのほとんどが導きの会に入会していた。それに……」
「それに?」
「あいつら、最近金回りが良すぎるんだよ」
そう言われ、那羅は違和感を覚える。彼女の知る限り、導きの会は質素な暮らしを推奨していたはずだった。以前遠方に派遣された際に一度だけ会の幹部と呼ばれる人物を遠目に見かけたが、ずらずらと後ろに会員を引き連れていなければ、その人物がお偉いさんだとはわからないほどに、貧相な格好をしていたのを覚えている。
「頭が入れ替わったか?」
名前までは知らなかったが、今の会のトップは二代目だったと那羅は記憶していた。
「まだ何も聞いてないけど、隠れて変わってるって可能性ならあるかもね」
「なんでわざわざ隠すんだ」
「急にトップが死んだなんて分かったら、混乱するだろ?新しいトップを信じろって言われても、急に人の心は変わらないだろうし」
「そんなものか」
「自警団だって、それで何十年も同じ人がやってるんじゃないの?」
なるほど確かにと那羅は思う。現在の自警団にいる人間の多くは、生活のために命を危険にさらすという一見矛盾したことをしている。少なくとも那羅の目には、正義や世のためを思って自警団で活動している団員は、蘭次などのごくわずかに映っていた。それ以外の人間の多くは身寄りがなく、他に生きていく術がないために、強い者の下につくことで安心を得ようとしている。その両方に郷原の存在は大きく関わっている。那羅自身、彼が代表でなくなった自警団のことは全く想像ができなかった。
「しかし、そうなるとまずいな。最近は自警団内で導きの会への恨みつらみを聞く機会が増えてる。これで彼らがより積極的に動きでもしたら、最悪武力行使が始まるぞ」
「僕もそれが一番心配だ。もちろん、戦いが起こると商売人として儲けのチャンスではあるんだけどね」
夏一がイタズラっぽく右側の口角だけを上げる。そんなわざとらしい表情が嫌に絵になる男だ。
武力行使……。那羅が頭の中でその言葉を反芻する。ただでさえ怪物から人々を守る人材が不足しているのに、そんな中で人と人とが争っている場合ではないはずだ。導きの会がこれほど拡大していながらも、郷原があまり積極的に動かないのは、そういった未来を懸念してのことかと合点がいく。
「生きているうちに、少しはマシな世の中になってくれと期待していたんだけどな……」
那羅のそんな言葉に、夏一が困ったように眉を下げ、寂しげな笑みを浮かべる。
「まあ、何もしないよりは――」
そう夏一が話している途中、那羅の受信機が信号を受け取り、鳴り出した。
ビー・ビー・ビー・ビー・ビー
「その音は?」
それは怪物の出現を知らせる合図であった。場所は、すぐ近くである。凛の顔が思い浮かぶ。
「行ってくる。仕事だ」
那羅はそれだけ言い残し、別れの挨拶もしないまま駆け出した。同時に、街の中にもサイレンが鳴り響いた。彼女は、腰のナイフと拳銃をもう一度確かめる。
【自警団員 蘭次】
蘭次が裏口からキッチンに繋がるドアをくぐると、愛紗が食器を流し台に運ぼうと立ち上がっているのが目に入った。蘭次は慌てて彼女に駆け寄る。
「俺が運ぶから。愛紗は座ってな」
「これぐらいさせてよ。何でもかんでも蘭次兄がやってたら、何にもできなくなっちゃう」
そう蘭次に言い返し、愛紗は机を支えにして立ち上がる。妹にそう言われてしまうと、兄としては強く止めることはできないが、それでも倒れてしまわないかとソワソワしてしまう。
先月毎日のように寝込んでいた時期に比べればかなりマシだが、それでも今朝は少し調子が悪そうだ。
「いつもありがとうね。ごはん美味しかった」
「よかった。もう少し鍋に入ってるから、好きに食べておいてくれ」
愛紗がそれを食べることがないとわかっていながらも、蘭次はいつも食事を少し余分に作ってしまう。最後に彼女が一日に三食きちんと食べられのは、いつだろうか。それでも、今日だけでも何か奇跡が起きないかと思ってしまうのをやめられないでいる。
「ありがとう」
愛紗のお礼を聞くたびに、何か気を遣わせてやいないかと思うが、こんな状況でも純粋に真っ直ぐ育ってくれている妹に、感謝の意を込めて笑顔を返す。
「大丈夫か、追加の薬もらってこようか」
流し台に食器を持って行くとともに少し息を切らす愛紗に、蘭次が声をかける。昨日の病院帰りに、いつもよりも体調が良かったせいで、遅くまで読書を続けたのが原因だろうと蘭次は考えていた。嬉しそうな妹の様子に何も言うことができなかったが、きちんと早く寝るように言えば良かったと後悔する。
だが、そんな蘭次の心配をよそに、愛紗はゼエゼエと息を切らしながらも、そんな心配は必要ないと言う。
「これぐらいなら慣れっこだから。それよりも、夜勤遅れちゃうよ」
未だ心配を拭いきれない兄を手で追い払うような仕草をする妹に、言い返すこともできず、蘭次は何かあれば絶対にすぐ連絡するようにと伝え、家を後にする。愛紗がにこりと口角を上げ、手を振って見送ってくれる。
家を出ると、いつものように、近所に住む夫婦にいくらか手渡すとともに、何かあればすぐに教えてもらうようにと依頼した。愛紗は自分がこんなことにお金を使っていることを知れば、怒ってしまうかもしれない。しかし、たとえ体調が悪化しようとも、蘭次への連絡を我慢してしまう彼女の性格を知っている兄としては、それをやめることができなかった。
職場への道中、自分は本当に恵まれているなと思う。早くに妹との二人暮らしを始めながらも、こうしてきちんとした仕事を手に入れ、優しい人たちに助けられて生きている。愛紗が通っている病院の医師は、初めて出会った時から二人の境遇を気の毒に思い、かなりの医療費を割り引いてくれている。そうでもなければ、これほど十分な治療を彼女に与えてあげることはできなかっただろう。蘭次は、この恩返しは一生かけてもできないほどのものだと感じていた。
だが、それでも十二分な余裕のある生活だとは言えない。あの弾丸による借金の額は到底返すことはできない。代表の前ではああ言ったが、本当に自警団を辞めることになってしまったとき、自分が愛紗を守るためにできる仕事なんてあるのだろうか。
「悩んでいても仕方がないか。今日も少しでも世の中を平和にしないと」
「でかい独り言っすね」
横から聞こえた後輩の声に、蘭次は飛び上がる。いつの間にか彼の隣には同じ自警団員の晴人がいた。
「あ、いや、その」
「そんな恥ずかしがらなくても……。蘭次さん、そんぐらい恥ずかしいことしょっちゅう言ってますよ」
「世界が平和になってほしいことの何が恥ずかしいんだよ」
「聞いてるだけで恥ずかしいっすよ。別にいいっすけどね」
晴人が生意気な顔を、さらに生意気に歪めて言う。彼と同じ駐屯所で働き始めてから一年ほどが経っている。以前までは最年少として本部周りの警備を任されていた蘭次にとって、初めての直属の後輩だったが、彼の態度は理想的な後輩からは程遠いものだった。だが、真面目すぎるとよく言われる蘭次にとっては、晴人のあっけらかんとした人間性に助けられることも多くあった。
「お前も自警団員だろ?」
「俺は生活のためですもん。目下の楽しみは来週の給料日です」
悪びれもせず、晴人が言う。けれど、それが晴人だけのことではないのは重々承知していた。自分のように、平和や怪物退治を第一に自警団員をしている者が少ないのはとっくの昔に気づいていた。自警団の学校で学んでいたときは、誰もがその理念に則って、世の中を守っていくのだと声高に言っていたはずだ。しかし、いざ現場に出てみると、そこには現実を生きることにばかり注力している人たちがいた。蘭次と同時期に学校で学んでいた学友たちも、卒業して一年二年と経つごとに、平和を口に出さなくなっていった。
それに、蘭次ですら、社会を良くしたいという思いの裏には、妹が健康に過ごせる時代が来てほしいという利己的なものを持っている。彼らを責めることはできないと、人一倍頑張ることはすれど、周囲を巻き込もうとはしてこなかった。そのことで却って周りから白い目で見られることもしばしばあった。そんな中だからこそ、蘭次の言葉を揶揄いこそすれ、否定しないでいてくれる晴人との仕事はやりやすかった。
「でも、自警団員だと、一生かかっても新世界へのチケットは買えないんだろうなあ。家賃やらなんやらで結局毎月カツカツっすもん」
「それはお前が使いすぎなんじゃないか」
そんなことはないと晴人がブツクサ言い返すが、彼の耳に新品のピアスが光っているのを蘭次は見逃さなかった。
「蘭次さんこそ、なんか欲しいものとかないんすか?」
「生活ができれば、それで十分だよ」
「質素倹約。どこぞの会の人たちみたいっすね」
その言葉に蘭次は大人気なく少しムッとする。
「そんなに金持ちになりたいなら、商売でも始めたらよかったじゃないか」
「商売ねえ。よっぽど商才があるか、でっかい組合にコネでもないとなあ」
ああ言えばこう言う晴人に蘭次は苦笑いを浮かべる。
「たまにいるけどな。仕事中に大金持ちとコネクション作って、ボディーガードとして引き抜かれていく人。チケット買えそうってなると、周囲の目が厳しくなるみたいだし」
その蘭次の言葉に対し、露骨にテンションを上げる晴人。先輩団員の前でしていい態度には思えなかったが、なんだかんだと、こういう人間が愛されるのを見てきた蘭次としては、怒る気にはなれない。その代わり、少し呆れた表情を浮かべる。
そんな蘭次に、晴人が「あ、そうだ」と何かを思い出したように声をかける。
「ところで、昨日の話ほんとっすよね?」
「ああ、車デートのことは内緒にしておくよ」
以前、晴人が駐屯所の車を使って恋人と遠出したことを掴んでいた蘭次は、それを黙っておくのと引き換えに、昨日の愛紗の迎えに車を使うことを黙殺させていた。
「蘭次さん、最近ワルくなってきてますよね」
「後輩のおかげだな」
そんな冗談を言い合う時間、蘭次は少し救われる気がしていた。仕事をすれば、人々が命の危機にさらされ、家に帰れば、妹が病に伏している。そのどちらもが、蘭次にとって心から救いたい存在であるのは間違いない。だが、そんな生活を五年も続けていると、すり減るものがあった。
「今日の巡回先は?」
駐屯所の鍵を開け、蘭次がそう尋ねると、晴人が夜勤組の残した置き手紙を読み上げる。最初の場所は図書館のある街のすぐ隣である。
「ここか……」
その場所を見て、蘭次は郷原が取り計らってくれたのだろうと思った。以前にそのあたりで、商人が武器の取引をしているところを見たという報告があった。そして、その後、凶悪な強盗事件が起こった。蘭次はその商人がアクルだと確信していた。今日そこにいるかはわからないが、闇雲に探し回るよりはずっといい。
「うわー、よりによって今日っすか……」
「いいじゃないか。あそこらへん道がきれいだし」
「だって、最近あの辺り、導きの会がずいぶん幅を利かせてるでしょ――大丈夫すか」
導きの会の名前を聞いて、また顔をしかめた蘭次を見て、晴人が尋ねる。
「え?あ、ああ。大丈夫だ、それで?」
明らかに蘭次が何かを誤魔化している様子だったが、晴人はそれに深く言及しないで話を進める。
「なのに今日、あの那羅さんが行ってるみたいなんすよ。あんな有名人が行ったら何かしら反感買う可能性高いじゃないっすか。一触即発的な。こんな時に何考えてるんすかね?上の人たちは」
蘭次はまたも自分の表情を誤魔化す必要があった。那羅が図書館に行くことになった原因が自分にあることは、晴人相手でも今は言わないほうがいいと思ったのだ。
「なるほどな。それで騒動に発展するってのは、あり得ない話じゃないか……」
もしそのせいで問題が起こってしまうのであれば、そこに自分が無関心でいるわけにはいかない。いつも以上に気合を入れて向かわねばと思う。
「場所がわかってるなら、さっさと向かおう」
蘭次が金庫の中から車の鍵を取り出す。すると、晴人がニヤニヤしながら右手を差し出してきた。
「俺運転しますよ。蘭次さん遅いんすもん」
「お前、この前ぶつけたばっかりだろ?」
そう言って、蘭次が鍵についているリングに人差し指を通し、クルクルと回していると、駐屯所内の通信機からアラームが聞こえて来た。
ビー・ビー・ビー・ビー・ビー
蘭次が晴人に目配せをする。
「噂をすれば、図書館っすね」
「三十……いや、二十分でいけるか」
蘭次が鍵を晴人に投げる。凛のことが頭をよぎった。自分のせいであの街に向かった彼女に何かあったら、悔やんでも悔やみきれない。
「十五分っすよ」
晴人がニヤリと笑う。
「ライフルと弾丸持っていくぞ」
「あっちにあるでしょ?」
「念のためだよ。怪物倒したら、給料日にボーナス入るぞ」
「マジっすか」
現金なもので、晴人が大慌てでライフルと弾丸の入ったケースを金庫から取り出した。
【若手導師キシン】
先ほど自警団員が街に入ったと聞いて以来、会員たちから何の報告もないのを不審に思い、キシンは指示を出した塾講師を会館に呼び出した。すると、彼が偵察を命じたのは最近導きの会に入ったばかりの男たちだと言う。この街で導きの会に入る者には、もともと自警団に不信感を持つ者が多い。その中には、まともに生活を送れず、犯罪に手を染めることもいとわないゴロツキたちがいる。今、偵察に向かっているのも、そういった会員であった。
キシンは、彼らが短絡的な行動を起こしているのではないかと危惧し、普段根城にしている廃墟へ向かうことにした。慎重に準備を重ね、少しずつここまで事を運んできたというのに、あいつらの軽率な行動のせいで全てが白紙に戻る。それだけは、キシンにとって絶対に避けたいことだった。これまで経歴に傷一つない自分は、却って小さなミスが大きな反動となって降り注ぐことがあると理解していた。未だに導きの会の拡大を見逃してくれている自警団の怒りを買い、彼らに武力行使のきっかけを与えてしまえば、自分たちはひとたまりもないだろう。
キシンは急ぎ足で進む自分の横を追い抜かしていく商売人の車を睨んだ。自分も車を持つことができれば……。燃料の限られたこの世界でそういった移動手段を持つことは、簡単ではない。一念発起して車を買ったはいいが、燃料を買い続けるだけの儲けを出すことができず破産した商人などは数えきれないほどいる。だが、それでも会の幹部たちは当たり前のように車での送迎を受けていた。質素倹約を謳っていたのは先代の会長までだ。しかし、それでも会員たちの多くは車に乗って優雅に移動する幹部を見て、その力を崇めていた。キシンはそんな彼らを仕組みごと見下していた。もちろん、表情には一切そんなそぶりを見せずに。
「ここか……」
ようやく辿り着いた頃には、彼の額にはじんわりと汗が浮かんでいた。会の教師に支給された服はあまり通気性が良くない。着崩す者も多いが、それを誰かに見られては困ると、キシンは袖捲りすらせずにそれをきっちりと着ていた。
目の前の廃墟は、とうてい人が過ごすのには向いていなさそうだった。それでも、分厚い壁に囲まれたこの場所は、常に面倒ごとに巻き込まれる彼らにとって都合がいいのだろう。以前に会った時は自分にへりくだった態度をとっていたが、その目の奥にはキシンや神への敬意が全く宿っていないことに彼は気がついていた。自身も同じ穴のムジナだからこその嗅覚である。この街での自分の影響力は十分に強まっているし、彼らとしても自分に暴力を振るうのが得策ではないことはわかっているだろうと考え、ここまで一人で乗り込んだキシンであったが、実際にここまでやってくると、その雰囲気に気圧される。歩いているうちに頭が少し冷静になったのも関係するだろう。
それでも、自分のキャリアのため、音が鳴らないようにその廃墟のドアを開け、中へと入っていく。相手の機嫌を逆撫でないためにという言い訳を胸に、足音を立てずに進むが、堂々と姿を見せた方がかえって安全かもしれない。そんなことにも気づけないほど、彼は怯えていた。
少し進むと、奥から人の声が聞こえてきた。声のする方へ行くと、蝋燭の灯りが漏れて数人の男の影が見える部屋があった。キシンは思わず角に隠れてしまう。歩き出した時の怒りと勇気はとうに失せていた。むしろ、今からでも帰った方が良いのではないかという気すらしていた。
やはり、帰るか。彼らが問題を起こしているとは限らない。そう思って、キシンが元来た道を振り返ろうとしたとき、部屋の奥から声が聞こえた。
「そろそろお喋りしようじゃねえか」
その特徴的なしゃがれ声で、キシンは以前に会ったゴロツキのリーダーが喋っていることがわかった。その言葉は、彼といっしょに部屋にいる誰かに向けられたもののようだった。
「何とか言ってみろ!」
今度は別の男の怒号である。だが、その男とは対照的に、リーダーは「よせよせ」と冷静にそれを鎮める。
「あなたたちは……。なんですか。一体、なんで……」
今度は弱々しい女の声が聞こえた。その声からは恐怖だけでなく、状況を理解できていない困惑の色も感じられた。
「単刀直入に聞く。自警団の本部の人間だな?何をしに来た」
「ただ、図書館に調べ物に」
「嘘をつけ!」
今度は怒号とともに何か固い物を壁に投げつけた音がする。女がそれに「キャア」と叫び声を上げた。
「悪い悪い。こいつは気が短いんだ――」
リーダーが言う。
「――だがな、俺だって暇なわけじゃない。さっさと言ってくれた方が助かるんだ。導きの会のお偉いさんからは、どんな手を使ってでもお前らの真意を聞き出せと言われている」
嘘だ。心の中でキシンは叫んだ。自分はそんなことを言っていない。こんなことをして、あの女が自警団の本部へ戻ったら、一体どれほどの騒動になるか全く理解していないのかと言いたいところだったが、一つの考えが思い浮かぶ。
――戻ったら……?もし、やつらにその女を自警団に戻すつもりがなかったら……。最悪のシナリオである。図書館に護衛付きで来たということは、おそらくその女は自警団の中でもそれなりに重要なポジションにいるはずだとキシンは推測していた。その女が命を落とすなどということになったら、それがきっかけで自警団と導きの会の対立が激化したら……その責任はこの街を担当している自分にやってくる。そうなれば、子供の頃から思い描き続けた自分の人生設計は、砂上の城のように崩れ落ちる。
「そう言われたって……本当です!図書館に来ただけで」
「じゃあ、何を調べにきた?お前と一緒に来たあのデケェのはずいぶん強いらしいじゃねえか」
「あなた方には関係のないことです。それに、あの人はこの辺りの治安が悪くなっているから着いてきてくれただけです。どうやら本当だったみたいですし」
強気な姿勢を崩さない自警団の女に、頼むからこれ以上そいつらの機嫌を逆撫でしないでくれと願うキシン。嘘でもなんでもいいから、適当な理由をつけて逃げ出せばいいじゃないかと思う。だが、そのキシンの思いは彼女にさっぱりと届かない。
「何を言われたって、これ以上のことはありません。早く私を帰してください」
「ずいぶんと安全な社会で生きているみたいだな、自警団のやつらは。俺は別に何人殺したって構わないんだ」
「そんなふうに脅したって――」
そう女が口にしたかと思うと、鈍い音とともに、何か重たいものが吹き飛ばされた。彼らのリーダーが女を蹴り飛ばしたのだと理解するより先に、緊張で固まっていたキシンの体が、驚きで跳ね上がった。そのせいで、近くにあった小石を蹴飛ばしてしまい、カラカラとした音が響く。
「誰だ!」
キシンの立てた音に反応する男たち。
ギュッと体を縮めるキシン。しかし、こうなってしまえば、もう彼にできることは、多くない。静かに深呼吸をし、できる限り堂々と――見えるように――姿を現す。
部屋の中にはリーダーも含めてゴロツキが三人、それに手足を縛られたまま地面に横たわっている女性の自警団員がいた。彼女の物と思しきメガネが壊れて、横に転がっている。想像よりも、華奢な女だった。
「あんたは……導師さんか」
ゴロツキのうちの一人が、束の間を置いてキシンのことをそう呼んだ。おそらく、名前を覚えていなかったのだろう。
「これは、一体何事ですか」
キシンは必死に冷静を装う。吃ったりしないよう、いつも以上に一音一音をはっきりと発音するように努める。
「ご存知でしょう?自警団員のやつがコソコソと何やら嗅ぎ回っているんです」
リーダーがキシンに近づいてきた。近づくと、その体はキシンよりも二周りは大きいことがわかった。
「確かに、私は調査するようにと言ったが、暴力を振るえとは言っていない。それは我々の教義に著しく反している。我々はあくまで平和のために――」
「すみませんね、導師さん。俺たちにはこれしかやり方がわかんねえんですよ。で、どうすりゃいい?あの女を解放しろってことですか?」
言葉では謙っているが、キシンを至近距離で見下ろしながら言う男の言葉には敬意が全く込められていないことがよくわかる。だが、ここで折れてしまっては自分にまで危害が及ぶ可能性があると理解しているキシンは、もうヤケクソででも胸を張るしかない。
「いや……。私が尋問する。平和的に。君たちは外を見張っていてくれ」
おそらくその言葉を予想していなかったのだろう。男たちは互いに目を見合わせると、今度はニヤニヤと笑みを浮かべたので、キシンは少し腹を立てる。
「下衆の勘ぐりはやめるんだ。それ以上失礼を働くようであれば、君たちの入会について考え直さなければいけなくなってしまう」
今度のこの言葉は男たちに多少なりとも効いたようだ。先ほどのニヤニヤ笑いをやめ、ジッとキシンを見下ろす。
「どうしますか」
負けじとキシンもその目を見返す。
「……導師様に従いますよ。もちろんね」
キシンの最後の一押しに、先ほどまでとは打って変わった態度を示す男たち。リーダーの外へ行くぞという手振りに合わせて、ゆっくりと一人ずつその場を後にする。
最後にリーダーが出ていき、少し経つと、入口のドアが閉まった音が聞こえた。思わず息を吐くキシン。背後に自警団の女が転がっていることも一旦忘れ、胸を大きく撫で下ろす。遅れて震え出した手を握りしめた。
しかし、すぐに状況を思い出す必要があった。護衛だという自警団員に今の状況を見られては、自分が疑われてしまうだろう。キシンは倒れている女の体を起こし、助けようとする。
「いたっ……!」
だが、先ほど受けた攻撃がよほど強かったのか、彼女はその痛みから体を起こすことができないでいる。
「すまないな……。信じてもらえるかわからないが、これはあいつらが勝手にやったことだ。私が――私はこの街の布教担当をしているキシンと言うのだが――指示したわけじゃない」
「そう……ですか……」
痛みに耐えながら、女性団員はゆっくりと言葉を絞り出した。彼女が自分の言葉を信じているかはわからなかったが、自分の今後のことを考えると、言わずにはいられなかった。
「それで、本当に図書館のためだけに来たのか?」
「はい。他に何があるというんですか?」
「だが、自警団にも蔵書庫があるはずだろう」
それはキシンがこの街に来てから掴んだ情報だった。図書館を利用する者の中には、自警団が彼らの蔵書庫にしかない書籍を多く有していることを恨むものも多かった。
「そこにあるのであれば、わざわざ来ません。崩壊前の契約書関連の判例を探しに来たんです。団員の一人が不当な契約を結ばされてしまったので」
つらそうに息を吐きながら、女性団員がゆっくりと、一言ずつ言葉を紡ぐ。
「契約書?あんなものお前ら自警団員が自分たちで握り潰してしまえば良いだけだろ?」
「それが簡単にいかない状況だから、来ているんです」
「自警団にどんな困難があるって言うんだ?」
「導きの会からすれば、自警団は上から力を振りかざしているように見えるかもしれません。ですが、きちんと責任が伴っているんです。我々自身が契約を違法に踏み倒してしまえば、市民からの信頼が失われます」
理想論だなとキシンは思った。そう言いつつも、この国は、ほとんどの武力を占有している自警団による独裁国家のようなものだ。だが、目の前の女性団員が、その理想論を信じているのは見てとれた。何かを信じている人間を見極めるのは、得意だった。
であれば、ここでこれ以上この女性団員を捕らえておくよりも、あのゴロツキ三人を差し出して、自警団としばらく――少なくとも自分がこの街にいる間は――平和な関係を継続した方がずっと得だろうと考える。
「何度も言うが、これはあいつらが勝手にやったことなんだ」
「わかっています」
「わかっている?」
「導師の方でしょう?導きの会の会法八条に他者への暴力を強く戒める文言がありますから」
「会法を?」
自警団の法律に従うことは、導きの会が自警団の下にあると認めるようなものだった。そのため、セイラン亡き後、導きの会は独自の法律を作った。それが会法である。
だが、社会を良くするために必要なものという建前で作られている以上、実質的に自警団が作ったものと大差はないので、ベースに神への信仰があった上での文言へただ書き換えているだけのものが多くを占めている。それもあり、導師でも端から端まで覚えている者が少ないその会法を、目の前の自警団員が突然口にしたことで、キシンは関心を超えて不気味さを覚えた。
「どうして知っている?」
「興味があって、以前読んだことがあるんです。ここの図書館で」
「変わったやつだ」
「ですが、私がここの図書館に来る意味は伝わりましたよね?」
女性団員がそう言って、にこりと笑顔でキシンを見上げた。彼はその笑顔に一瞬目を奪われるが、慌てて逸らした。
確かに、目の前の団員が図書館に寄越された理由はわかった。そんなものがあるのかは知らないが、書籍や書類を扱う係の者なのだろう。そして、間違いなく優秀な人材だ。
この辺りは導きの会の人間が増えているので、そんな優秀な団員を守るために護衛が付けられたと考えれば筋が通る。謝罪し、すぐに解放するべきか。しかし、自分の指示ではないとしても、無罪の自警団員をこのように扱って、その後何の問題にもならないと考えるのは、あまりにも能天気すぎる。
何か妙案はないかと、キシンは再び女性団員を見下ろした。すると、形のいい唇が、先ほどと変わらずにこりとした形でこちらを向いている。なぜか、キシンの目は吸い込まれるように、そこから数秒離れられなくなった。そのことに気付き、慌てて視線をずらす。すると今度は、先ほど蹴り飛ばされた関係で彼女の服がはだけているのがわかった。その下に白い肌が見える。
これまでの人生の中で、キシンは我慢に我慢を重ねてきた。自分の経歴に一切の傷がつかないよう、誰に汚されることもないよう、清廉潔白に生きてきた。だが、上層部の中には売春宿で女を買っている者がいるのを知っている。地方の会館を巡る際に、田舎の町で、若い女をあてがわせた者がいることも知っている。より上の立場になれば黙認される。であれば、ほんの少しばかり早めに、その特権の味を味わうだけだ。
ゴクリと生唾を飲む。
ずっと自分を律してきた。どれほど些細なことにも自分の生きる道を邪魔させないために。だが、ここで目の前の女に手を出しても、誰かに知られることはないはずだ。女を始末し、その後、自警団の護衛に嘘を吹き込み、ゴロツキどもに罪をなすりつければいいだけだ。那羅とかいう腕利の団員が来ているそうだ。そいつに善意の発見者として情報を提供しよう。
自分の論理のおかしさにも気づかず、ゆっくりと目の前の女に手を伸ばすキシン。一気に自分の体温が高くなり、額から汗が垂れてくる。遠くの方で荒くなっている自分の息の音が聞こえる。視界がキュッと狭くなり、彼が見えているのは、その小さな視界の中央にある白い肌だけになった。
女性団員が目を見開いて叫ぶ。だが、彼女の視線はキシンには向いていない。その後ろに向いている。そんなことを今のキシンが気付く由もなかった。
あと、ほんの数センチで自分の手が女に届く。そう思った瞬間、キシンは自分の体の中からドンという音が聞こえた。なにやら後ろから押されたような気もしたが、それを確かめる間もなく、狭くなっていた視界はさらに暗くなっていく。
初めは光、次に音、そして最後には何もかもが消え去ってしまった。
【自警団文書係 凛】
先ほどまで異様な表情で自分に近づいてきていた男の胸から手前に突き出した巨大な刃物が見える。直後、そこから一気に血が広がっていく。
凛はあまりの衝撃に、自分が叫んでいることに数秒してから気がついた。目の前の男は呆気なくその命を失い、先ほどこの部屋から出ていった男たちが、その後ろに立っていた。
「ずるいなあ、導師様は。こんないい女独り占めしようだなんて」
「本当にいいんですか、こいつ殺しちゃって」
「この女に殺されたことにすればいい。今から俺らがするのは、その敵討ちだ」
そう言いながら、一番大柄な男は、たった今自分が殺した男から刃物を引き抜いた。グチャリという音とともに傷口から真っ赤な血液が大量に溢れ出る。鉄の匂いが一気に充満する。ここに来て、ようやく凛は自分が現実を見ていなかったことに気がついた。彼らは当たり前のように人を殺せるのだ。これまで自警団員たちの話を聞いてきたつもりだった。それなのに、安全圏にいた自分は、世の中の現実を何もわかっていなかったのだと悔やんだ。なぜか殺されることはないだろうと思っていた。だが、その悔しさが、彼女を恐怖から解き放った。先ほどまでとは違い、少し頭が回り始める。
「あなたたちは――」
凛が口を開く。時間を稼げば、どこかのタイミングで那羅が気づいてくれるかもしれない。それに、彼らがここへ戻ってきたとき、奥の方で入口のドアを開ける音が聞こえた。しかし、閉める音は聞こえなかった。つまり、今もドアは開いたままのはずだ。
カバンは奪われた凛だったが、服に隠された自分の腰のあたりに、緊急用の送信機がまだ残っているのを感じていた。あまり電波の強くないものだが、ドアが開いている今なら、ここからでも近くの駐屯所に届くだろう。本来であれば怪物を視認した際に使うためのものだが、これほどの緊急事態であればお咎めは少ないと考える。なんとか手だけでも自由にならないだろうかと、先ほどから手首を擦り合わせ、少しずつロープから抜け出そうとしている。そして、それが見つからないように、彼らの意識を会話に集中させようとする。
「あなたたちは、誰の指示を受けているんですか」
「黙ってろ――!」
「待て」
叫んだ一人を、しゃがれ声の男が制す。彼の立ち振る舞いや他の二人の態度から、彼がこの中で最も立場の強い人間なのはわかっていた。つまり、彼の注意さえ引けば、時間は稼げるはずだと賭けることにした。そして、その賭けは一旦うまくいったようだ。
「お前ら、この死体を外へ運びだせ。気色悪い」
「ですが――」
「口答えか」
「い、いえ……」
そう言って、二人の手下たちは渋々と死体に布を被せ、その手足を掴み、体を持ちあげる。そして、せっかくのご馳走のお預けを食らったような目で凛を見つめながら、部屋の外へと出ていく。
「どうしてわかった?」
手下が外に出たのを見計らったタイミングで、しゃがれ声の男が言う。凛の意図していることを理解したのが、その様子からわかった。
「その人は、この街を担当している導きの会の担当者です。そんな人を殺めたと言うのに、あなたたちは慌てていない。つまり、それ以上の利益があなたがたにあるはずです」
「こいつよりもっと偉い人間からの指示ってことか」
「いえ。それならあなたの部下が慌てた理由がつきません。おそらく金による依頼でしょう」
「あの馬鹿が」
そう吐き捨てて、男は「チッ」と舌打ちをする。しかし同時に、目の前にいる凛とのやりとりを楽しんでいるかのように片方の口角を上げた。
「で?何が言いたい?」
「あの導きの会の担当者に何も知らせずに、あなた方のような人を寄越したということは、導きの会も一枚岩ではないということですね。例えば、彼が他の導きの会の人間に恨みを買っていたとか……。あなた方は多少なりともそのような情報を持っているはず」
「それで?」
男は楽しんでいる様子の表情を崩さない。
「その情報を我々自警団に渡してください。導師を殺した以上、あなた方は導きの会に追われるはずです。ですが、我々に情報を渡してくれれば、あなた方をその厄介から遠ざける手立てを考えられます」
これが、凛に思いつく最善の交渉だった。実際そんなことを自警団に頼めるのかはわからなかったが、なんとか一秒でも時間を稼ぎ、送信機さえ使えれば、その後のことはそれから考えられる。どうか、少しでも相手の心が揺れることを願った。
「なるほどな……」
男が少し考え込む。
「お前はずいぶんと賢いようだ。だが、俺は賢い奴が嫌いでな。こっちにとって良い提案があればと思ったが、どうやら俺をうまいこと動かそうとしてるみたいだ」
まずいと凛は思う。必死に体を動かし、腕をロープから引き抜こうとする。このまま殺されるぐらいなら腕がちぎれたって構わない。
だが、男は大股で二歩歩くだけで、凛の目の前まで来てしまった。
「焦るな焦るな。まずは楽しもうじゃねえか」
そう言って、男が凛の服に手をかけた瞬間、建物の入り口から、手下の男たちの叫び声が聞こえた。
「うるせえ!どうした!」
目の前の男が叫び返す。だが、手下の叫び声は情けなさを増すばかりで止みはしない。そしてそれはどんどんと近づいてきて、凛たちのいる部屋へとやってくる。
二人で出ていった手下は一人しか帰ってこず、その顔は血まみれになっていた。しかし、彼の顔に傷は一つもない。それは全て、誰かの返り血であった。
「な、何があった!?」
さすがのしゃがれ声の男も慌てた様子を見せる。
「あ、あいつが、あいつが……」
「落ち着け!自警団か!?」
男のその声を聞き、凛に希望が生まれる。那羅が気づいてくれたのだろうか。だが、その希望は男たちの次の会話で一瞬で摘まれてしまう。
「怪物だ……」
「怪物?なんでこんな街中に!?」
「あいつだ……あの死体が怪物だった……」
「何を言ってる?」
「あ、あいつの死体を外に運んでたら、きゅ、急に動き出して、俺らあいつを落としたんだ。生きてたのかと思って……そしたら、あ、あいつの体がどんどん膨れて……」
そこまで言って、男は胃の中のものを床にぶちまける。
凛は一体何が起こったのか理解できなかった。人間の死体が怪物になる?そんなことは今まで一度も聞いたことがなかった。
しゃがれ声の男も、凛が何も理解できていないことをその表情から読み取ったようだった。
「ちっ、めんどくせえことになった……。とりあえず逃げるぞ。その怪物はどこだ?」
「表です!」
「なら、裏からだ」
「待ってください!私は――」
そう凛が言い終わるか終わらないかのうちに、男たちは部屋を後にした。
慌てた凛が、なんとかここから逃げ出さねばと部屋を見渡すと、先ほど導きの会の男に突き刺さっていた刃物が床に落ちているのを見つける。大ぶりのナイフである。必死に這いずり、それに近づく。なんとかしてロープを切らねばならない。
後ろで縛られた手首から器用に右手を開き、ナイフを掴む。そして寝転がり、踵側から足首に巻きついたロープを、刃でノコギリのように擦りながら少しずつ切っていく。血で汚れてもなお刃が鋭くてよかったと安心しながらも、ほんの少しズレるだけで、瞬く間に自分の踵に深い切れ込みをいれてしまうことへの恐怖とも戦う。急ぎながら、慌てないよう、深呼吸を続ける。
よし、もう少しで切れそうだ!そう思い、ふと体から強張りが消えたタイミングで、建物のどこかで巨大なものが衝突したような激しい破壊音が聞こえた。真っ先に凛が思いついたのは、もちろんあの怪物である。そこで生まれた焦りから、勢い余って、ロープを切っていた刃が足に刺さる。
「いっ……!」
思わず上げそうになった悲鳴を必死に抑える。深く刺さってしまったが、歩けないほどではなかった。そもそもあの男に蹴り飛ばされボロボロの体である。どう動かしたところで、初めから痛みがあったのも幸いし、心が折れることはなかった。
諦めずにロープを切り、足が自由になった凛は、今度はその足で刃を上向きに固定し、手首のロープを切る。こちらは思ったよりも手間取らず、すぐに切ることができた。先ほど必死に手首を動かしていたおかげで、ロープと手首の間にわずかな隙間ができていたのが役立った。
だが、ようやく手足が自由になったことを喜んでいる暇はなかった。凛はすぐに腰にある送信機に手を伸ばし、ボタンを押す。
ガタン。
そんなタイミングで、部屋のすぐ外から音が聞こえた。凛は反射的に、隅にある物入れの影に身を隠す。ボロボロで中に何も入っていない、細長い鉄の箱だ。収納能力はもうほとんどないが、後ろに凛を隠すには最低限の大きさがある。
そうして息を潜めたのも束の間、隠れながら凛は思い直す。怪物は視力で人間を認知していない。ここに隠れても何の意味もない。それよりは走って、一秒でも早くここから離れなければ……。だが、一歩を踏み出そうにも、ズキンと足が痛む。先ほど刃物が刺さった場所だ。見下ろすと、血が溢れ、裾の布だけでは吸収し切れず、足元に垂れていた。
このままでは、走ることもままならない。その上、この建物内の間取りもわからない。下手に逃げて袋小路に追い込まれては、一巻の終わりだ。それならば、助けが来るのを待つのがやはり最善かと考え直す。
今度は隠れるためというよりも、これからやってくる怪物との間に障害物を作るのを目的に、再度物入れの影に戻る。
ガシャンと先ほどよりも大きな音が鳴り、物入れの影から部屋の入り口を見る。すると、そこから、元は人間の腕だったものが、膨らみすぎて破裂したかのような、ドス黒い巨大な肉塊が現れた。
体が固まる凛。
そして次に、そのドアの奥に、一メートルはあろうかという巨大な生物の顔が現れた。
人間の顔が巨大な肉食獣に変化しようとしている最中、その肥大化に耐えられなかった筋繊維や皮膚がぶちぶちにちぎれ、赤黒い組織が剥き出しになっている。眼は真っ黒の窪みとなり、口からは重い呼吸音とともに、緑色の光線が漏れ出ている。わずかに残る毛と、首元に張り付いた衣服の残骸が、それが本当に先ほどまで人間であったという証拠を示している。
ごとりとソレの口から何かが落ちる。目を凝らすと、それは先ほどまで凛に恐怖を与えていたあの男の生首であった。それももう、右半分は食いちぎられている。
怪物が一歩、部屋の中に前足を踏み込んだ。その前足も、まだ人間の手だった名残を見せるが、折れた何本もの骨が、外へと飛び出している。
先ほど、ロープを切ったナイフを掴み、その切先を怪物に向ける凛。自分にまだ戦う勇気があったのか、それともあまりの悍ましさに、脳が恐怖を認識しなくなってしまっているのかはわからなかった。
一歩、また一歩と凛の方へと這いずってくる怪物。ドアは完全に塞がれている。凛はもう逃げる場所がどこにもなかった。
「凛!どこだ!」
そこへ、那羅の声が聞こえる。絶望的な状況に追いやられた自分が生んだ幻聴かもしれないと思ったが、その声はもう一度聞こえる。
「凛!」
「ここです!部屋の中です!怪物がいます!」
この機会を逃しては、もう次はない。怪物を興奮させるかもしれないことなど考えもせず、凛は叫び返した。
「なるべく隅で小さく丸くなれ!急げ!」
それを聞いた那羅の指示を大慌てで遂行する凛。それとほぼ同時に、部屋の入り口から激しい爆発音と、凄まじい衝撃がやってきた。
その爆風で、凛は壁に叩きつけられた。
自警団員 蘭次
助手席に乗りながらライフルに弾を込める蘭次。もう車のフロントガラスからは街並みがはっきりと見えている。
「俺にボーナスくれるんじゃないんですか」
運転しながら、晴人が言う。
「俺がやっても、お前が倒したって報告してやるよ」
「ならいいすけど」
そう言って、晴人は車のアクセルを目一杯に踏み込む。自警団員になっても、怪物にライフルを撃ち込んだ経験のない者は多い。最前線で何度も怪物を討伐してきた蘭次に任せるのは、当然の判断だった。晴人にとっても、命の危険が減り、給料まで増えるのだから願ってもない提案だ。
「最近、街中での報告が多いっすね」
アラームの鳴る通信機にちらっと目を向け、晴人が言う。
「多すぎるくらいだ。もしかすると、もう銀行に怪物を遠ざける力なんてないのかもな」
「陰謀論っすか」
「可能性はあるってだけだ。人口が増えて、銀行が妨害できる以上の電気が出てるのかもしれない。あの銀行については、分かってないことの方がずっと多いからな」
先日、蘭次が追い込まれた時も、第一報のアラームが街中を示していた。今までは、人知れぬ土地から街に向かってくる途中で発見報告が行われることが多かった。大量に人間が生活していれば、その分怪物が感知できる電気は多い。それを頼りにやつらは向かってきていた。それでも銀行の妨害電波が届く範囲に入れば、怪物の進行速度がガクッと落ちる。それがこれまでの常だった。
報告を受け、ここに来るまでに十五分。以前までであれば、早すぎるぐらいの増援だと胸を張って言えるが、街のど真ん中に怪物が現れてからの十五分では、そうも言えない。蘭次は人々の無事を願う。
「発電機、強めにかけよう」
「うえー……」
晴人のそんな反応を気にもせず、蘭次は車両に設置されている発電機を動かし始める。自警団の車のほとんどには、この発電機が常設されており、その電気によって怪物を誘き寄せたり、感知をかく乱したりするために利用される。街を守るためのものだが、その分自分たちが狙われるリスクも大きく高まるので、使いたがらない者も多い。
窓から身を乗り出す蘭次。目を凝らすと、逃げ回る人々が遠くに見え始める。その中に、深くフードを被った男の姿がいた。そこから覗く口元は、見覚えのある嫌味な笑みを浮かべている。
「あっちだ!」
発電機の音にかき消されないよう、蘭次が叫ぶ。
「アラームだとこっちですよ!」
負けじと晴人も叫び返す。
「街の人たちが逃げてる方向から考えて、今はあっちにいるはずだ!」
さすがという意味を込めて、晴人が口笛を吹くが、その音は発電機の音にかき消された。
晴人は、蘭次の指差した方向が正面に来るように、ハンドルを少し左に切った。蘭次は、遠ざかっていくフードの男を見つめる。
【自警団員 那羅】
「起きたか」
那羅は走りながら抱えている凛に話しかける。先ほど彼女を助け出すために、投げた爆弾の爆風で、彼女は気絶してしまっていた。あくまで彼女を助ける隙を作るための爆弾であったため、怪物はほぼ無傷だが、人一人を抱き抱えて連れ出すことには成功した。残念ながら、その途中で三人の人間の死体を乗り越えなければならなかったが。
「……怪物は?」
いくらいつも後方にいるからと言って、凛も自警団員である。気絶から目覚めると、すぐに状況を確認する。例のゴロツキの場所よりもさらに中心地から離れたところに自分たちがいるのは、周囲の建物の荒廃ぶりからもうかがえた。至る所に、倒壊したままの遺物となった建物が並んでいる。
「残念ながら、まだ倒せていない。あの弾丸がなくてな」
「弾丸がない!?」
叫ぶと同時に凛が頭を押さえる。気絶から目覚めたばかりの頭に、大声が響いたのだろう。
「最近、特にこの辺りでの怪物の発生数が増えすぎている。いろんなところに応援で駆けつけた関係で、対怪物用のライフル弾が切れているらしい。ちょうど明日届く予定だったらしいが、不運だな」
「不運だなって……どうするんですか」
「別に普通の武器じゃ絶対に殺せないわけじゃない。それに先ほど通信で蘭次が向かっているのがわかった。あいつなら必ず持ってくるだろう……よく知ってるのか」
蘭次の言葉を聞いて、安心した表情を浮かべた凛に聞く。
「学生のころから……。あ、すみません!……降ります!自分で歩きます!」
会話の途中、自分が抱き抱えられたままなことに気づいた凛がそう言って動くが、那羅がそれを力で抑える。
「いたっ!」
「これで痛がるようなやつに降りられると迷惑だ。止血もきちんとはできていない。メガネだって無いじゃないか」
そう言われ、凛は自分の足を見つめ、目を見開く。ぐるぐると乱雑に彼女の足をくるんだ布は乾いた血で黒く染まっていた。気づいてしまうと、その痛みを感じ始めたのか、彼女はあっさりと抵抗をやめて、那羅に抱き抱えられることを選んだ。
だが、それと同時に何かを思い出したように、声を大きくする。
「そうだ……!那羅さん、導きの会の男が怪物に!」
そう言って、凛は自分が誘拐されてからの一部始終を一気に話し始める。導きの会の導師が目の前で殺されたこと、そして、その男が怪物に変化したようだということ。
「……聞いたことがありますか?」
「初耳だ……本当に」
慌てる様子のない那羅に、一瞬、凛が疑うような表情を見せた。そこで那羅は、誤解を解くように言葉を補った。自分が表情に乏しいことは理解しているので、その疑念に対して不満を覚えることはなかった。だが、その裏で彼女の脳は目まぐるしく動く。
導きの会の人間が化け物になる……。最近都市部での怪物が急増しているのはそれが理由か。それとも、自警団が知らなかっただけで、昔からそうだったのか。ふと、夏一が田舎で集団失踪が起こったと言っていたのを思い出す。なぜか関係があるような気がした。
「団に戻ったら、君から郷原代表にその話をしてくれ。ついでに私を前線に戻してくれるように説得してもらえると助かる。そういったやりとりが苦手でね」
「わかりました」
「そのためにも、まずはあいつらに頑張ってもらおう」
那羅が遠くを見つめ、そう言う。つられて凛も同じ方向を見るが、裸眼の彼女にはぼやけた灰色の景色しか見えない。そんな彼女に、那羅は片手を離し、自分の耳を指でトントンと叩く。そこで凛も気がつく。発電機の音が微かに聞こえてくる。
その音の反響から自警団の車が来ている方向を見定め、凛を抱えたまま走り出す。そのスピードは、手ぶらの凛が全力で走るよりも遥かに速い。
「凛!那羅さん!状況は!?」
間もなくして見えてきた車から、蘭次が体を乗り出し、叫ぶ。
「ライフル弾が切れてる。この街の団員たちが必死に応戦しているが、我々は逃げるに徹している。街の状況は把握できていない」
それに対し、那羅が簡潔に返した。
「凛、どうした!その足」
「大丈夫です。怪物じゃありません」
蘭次がもう少しそのことを追及しようとするが、彼の持つライフルを見て、那羅がそれを遮る。
「後にしろ。それの弾はいくつある?」
「一発です」
「外せないな」
那羅がプレッシャーをかける。
「ま、任せてください」
蘭次が真っ直ぐと視線を返すも、確実にそのプレッシャーは感じているのが伝わった。
「発電機におびき寄せられて怪物が来たら、私が怯ませる。――ナイフと手榴弾が二つある。これでなんとかなるだろう」
怯ませる方法を聞こうと蘭次が口を挟もうとしたが、それを察した那羅は、凛を地面に下ろし、手持ちの武器を見せる。普通の団員であれば、そんなものだけで怪物相手に何かができるとは思えないが、那羅が言うのであれば間違いないのだろうと、他の三人は黙る。逆に言えば、だからこそ、この場で一発しかない弾丸を撃つのが蘭次しかいない理由にもなった。
「君は――」
「晴人です」
那羅の視線を受け、晴人が応える。
「晴人は凛を頼む。足を怪我しているから、おぶってこの街の駐屯地へ向かってくれ。緊急用の医療道具があるはずだ。代表への貴重な報告を持ってるから、絶対にやられるな」
「わかりました!」
晴人のしっかりとした返事に蘭次が片眉を上げる。
「どうした?彼は頼りないのか」
「あ、いえ。こんなちゃんとした返事をしているのを初めて見たので」
「やめてくださいよ!蘭次さん」
それを聞いて、那羅は少し口元をほころばせる。
「緊張はほぐれたか。狙撃を任せたぞ」
「はい」
「蘭次さん」
凛が間を割って、蘭次に呼びかける。
「蘭次さんなら絶対にできます。これまでだって何体も倒してきていますから」
「頼りなく見えたか?」
「頼りなく見えたことなんかありません!」
緊張から来る蘭次の意地悪な冗談を、凛が真正面から返す。そのあまりの勢いに、蘭次もいよいよ口角を上げた。
「悪い悪い。ありがとう。必ず倒すよ」
その蘭次の強い意志を孕んだ言葉を合図に、晴人が凛を連れてその場を離れ、那羅と蘭次はそれぞれ、臨戦態勢を整える。装備をお互いに確認している途中、那羅が蘭次に話しかける。
「先ほど凛から聞いた話を、お前にも共有しておく。私と彼女が死んだら、代わりに郷原に伝えておいてくれ」
「縁起でもないですよ」
そう言いつつも、蘭次は真剣に耳を傾ける。そして、今から現れる怪物が、導きの会の導師の成れの果てであることを知る。
「何かこういった話を聞いたことは……大丈夫か」
消えかけていた蘭次の動揺が、また少し表れたのを見て、那羅が尋ねる。
「え?あ、はい……。まさか、そんな、そんなことまでするやつらだったなんて」
「まだ決めつけるな。その男がたまたま導きの会に属しているだけで、彼らは何も知らない可能性だってある」
「可能性は、そうですね」
含みのある蘭次の言い分に、以前蘭次の妹と病院の待合で武器商人の話をしたときのことを思い出した。
「お前はわかりやすいな。――いや、何があるかはわからないが、何かがあるのがわかりやすいって意味だ」
感情が表に出過ぎるというのは、彼が自警団に入ってから常に言われていたことだった。直そうとしているのだが、そう言われた今も蘭次は苦い顔をしている。
「団のためにその理由を追及したいところだが、まずはあいつの相手が先だな」
そう言う那羅の視線の先、瓦礫になった建物の障壁の奥に、緑色の光が見えた。蘭次がサッとライフルを構え、安全装置を解除する。しかし、ここからでは体内に弾丸を撃ち込むには遠すぎる。
「私が近づいて足を止める。お前はあそこの上から狙ってくれ」
「無茶しないでくださいよ」
「保証はできないな」
そう言って、那羅は怪物のいる方向へ走り出す。彼女の後ろで、蘭次が「死なないでくださいよ」と叫んでいる。
怪物は今や体調五メートルほどの大きさまで肥大しており、その大きな体で、倒壊した建物を蹴散らしながら、まっすぐ進んでくる。怪物が発電機のある車に向かっていていることから、これまでに対峙した怪物と同じ行動を取ることに那羅は安心する。にわかには信じ難いが。凛の言葉によると、この怪物はほんの少し前まで人間だったそうである。となると、これまで那羅が退治した怪物たちと違い、より知性的な行動を取るのではないかと心配していたのだ。あれだけの体躯と力を持った生物が知恵を持ったら、いくらあの弾丸があっても、数人の力で対処はできなくなるだろう。だが、見たところ現状はそのような問題は起きていないようだった。むしろ、最近目にする怪物たちが以前よりも小さくなってきたように感じるのは、それが理由なのだろうかとも思う。
那羅は発電機から少し離れたところで足を止めた。自分が手にしているナイフが怪物に効かないことは理解している。手榴弾ですら、ほとんど意味がないだろう。だが、それは使い道がないということではないと理解していた。那羅はあたりを見渡し、自分が持てる範囲でできる限り大きな瓦礫を抱える。
十メートル、八メートル、五メートル。そして、いよいよ目の前にやってきた怪物を見ながら、頼むから減速してくれよと願い、那羅は瓦礫を足元へと投げつけた。生身の人間であれば、それで死亡してもおかしくない速度と重さである。
ドンッと一際大きな衝突音が鳴る。前足に強い衝撃を受けた怪物が膝を折り、その速度のまま前へと大きく地面を滑る。那羅は眼前に迫る巨大な腐乱生物にナイフを突き立て、皮膚に数センチしか刺さらない刃を頼りに、ボコボコと隆起した歪な肉体を足から肩まで一気に駆け上る。そして、口や目と思しき箇所に穴があるのを見るやいなや、そこに手持ちの手榴弾を二発投げ込んだ。
今度は、爆発が響く。怪物の体内で爆発した爆弾は、その煙を体液とともに穴から噴き出させた。
それは、蘭次に目と口の場所が分かりやすくなればと思っての行動だった。だが、爆風で怪物の上半身が大きく反り返ると、なぜかその胸部にぽっかりと大穴が開いていることに気付く。
「胸に――」
仰け反られたことで、怪物の上から振り払われた那羅が、落下しながら叫ぶ。しかし、その言葉を言い切るよりも前に、ライフルの発砲音とその弾丸の風切り音が耳に届いた。
地面に着地し、振り返った視線の先には、銃口から煙を上げる蘭次の姿があった。
そして、怪物の進行は止まった。
【自警団員 蘭次】
「本当なら弾丸が今日届くはずだったのが、遅れて困っていたんです。そんな日に、こんなことになって……」
この街に駐在する自警団員が言う。その相手は、怪物の死体を回収しにきた自警団本部の化学部門に所属する団員たちだった。怪物の死体は常に彼らが回収し、そこから弾丸の開発や、その生体の研究を行っている。今彼らは、怪物の肉片と、怪物に殺されたこの街の人間の遺体を並べ、現場の状況を確認していた。遺体の数は三人分。凛から聞いた、彼女を誘拐した犯人たちのものだろう。こんなにも街の近くで現れた怪物の被害にしては、異例なほどに少ないものだ。被害が市民の身に及ばないよう、この街の自警団員が必死に食い止めていたのだろう。それだけの実力がある彼らだからこそ、弾丸がないために怪物を倒せなかったことが、悔しくてたまらないのだろう。その声や態度から、蘭次にはそれがよくわかった。
「気持ちはわかりますが、最近あまりにも数が多くて……回収しては研究に使えるように保存するという作業を繰り返すのに精一杯で、弾丸の生産にまで手が回っていないんです。こちらも困っているんですよ」
そう返事する科学者の気持ちも蘭次には同時によくわかった。怪物の出現報告は、異常なペースで増えていた。以前であれば、二、三ヶ月怪物が現れないことも普通のことだったが、つい先日、蘭次は別の怪物を討伐したばかりであった。
こんなにも短い期間で二体も怪物を倒した奴はいないぞと那羅には褒められたが、世界の変化を思うと、喜んではいられない。
「真面目に考えすぎっすよ」
晴人はそう言うが、彼の頭の中は、間もなく入る怪物討伐のボーナスの活用方法でいっぱいになっているのが手に取るようにわかった。蘭次にとっても、収入が増えるのはありがたいことだった。妹の治療費はそれだけ高くつく。世界が平和から遠ざかれば遠ざかるほどに、自分の収入が増えていくのだという事実に、改めて少し憂鬱になる。
「あの話は、もう彼らにしましたか」
蘭次が那羅に話しかける。凛が見た、人間が怪物に変化したという話についてである。もしそれが本当なのであれば、間違いなく科学部門の仕事内容だろうと思ったのだ。
「いや。その気持ちはわかるが、明日以降にしよう。あいつらのことだ、あんな状態の凛のことを研究所に連れ帰って質問攻めにするぞ」
そう言う那羅の視線の先には、簡易的な治療を受けた凛が寝転がっている。足の裂傷だけでなく、肋骨のあたりも大きく腫れ上がっていた。骨折や内臓へのダメージがないか、病院で診てもらう必要がある。また、精神的にも非常に参っているのがわかった。
「だが、そのことで一つ気になっていることがある」
「気になっていること?」
那羅の言葉に、蘭次は凛から視線を戻す。
「この街で懇意にしている商売人がいる。けっこうな情報通で、よく地方のことなんかを聞いているんだが……最近田舎の方で村人全員がいなくなる神隠しが二件あったらしい。いや、あくまで彼が認識している範囲で二件だが」
「信用できるんですか、その人は」
商売人……蘭次にとってはあまり信用に欠ける人種である。だが、那羅はその質問にまっすぐな目で答える。
「ああ、間違いない。そしてそこでは、導きの会が非常に強い力を持っていたらしい」
「それって……」
「断定はできないが……な」
最近の導きの会の拡大と、怪物の急速な増加。消えた会員たちと、今回の怪物変化。全てが繋がっているように見える。
「その村に行ってみます」
「ああ。明日にでも手分けして調べよう。その前に、今のお前には大事な仕事がある」
「仕事?」
確かに蘭次は駐屯地に戻る必要があるが、わざわざそんなもったいぶった言い方をすることではない。そんな彼に、那羅は真剣な様子で、その仕事内容を伝える。
「凛を病院に送って行ってやれ」
思いがけない指示に、蘭次は「はあ」と間抜けな声を出す。
「あ、いえ、すみません。状況からすると、女性隊員である那羅さんの方が適任かと」
「私は責任者として、ここに残らないといけない」
そう言われてしまうと、自警団員としてはまだまだ若手である蘭次は断ることができない。
「それに、お前なら大丈夫だよ」
さらにそう強く念押しを受け、しかたなく了承する。どちらにせよ、田舎に調査に出るような時間のかかる任務を行うには、郷原の指示を仰がなければならない。
そうとなると、二人乗りの車で来てしまった蘭次は、晴人にそのことを伝える必要がある。彼なら必ずブーブーと文句を言うだろうと、そこにもまた少し面倒くささを覚えた。
「あれ?晴人は……」
しかし、声をかけようと見渡すが、先ほどまで夢見心地でボーナスの使い道を考えていた若者は近くにいない。
「ああ、彼ならあそこで人払いをしてもらっているよ」
困ってこの街の自警団員の一人に尋ねると、少し離れたところで、彼が他の団員たちと一緒に一人の老人と話しているのを教えてもらった。見ると、その後ろ姿からでも、何やらイライラしているのがわかる。自分も人のことを言えないが、彼は感情が本当にわかりやすいなと少し可笑しくなりながら、話しかけるために少し小走りで近づく。すると、そんな蘭次の気配に気づいたのか、彼が振り返る。その顔は「助けてくださいよ」と言いたげに眉根を上げていた。
「どうした?」
蘭次が尋ねる。しかし、それに一番に答えたのは、その場にいた老人であった。
「あなたも自警団の方ですが。あそこにいる遺体は、我々導きの会の会員だったのです。我々には我々の遺体の埋葬方法があります。お渡しいただけないでしょうか」
しまったと蘭次は思う。導きの会の導師の制服を着ていなかったので、彼がその一人だと気づかなかったのである。そして、その老人の顔には見覚えがあった。
「だから、怪物の被害者は一度我々が預かる必要があるんだって!蘭次さんもなんとか言ってくださいよ」
晴人が苛立ちを隠しもせずに言う。だが、その言葉の中で、老人の耳に届いたのはたった一つの言葉だった。
「……ランジ様?そのお顔は、そうに違いない……。本当にいらっしゃるとは!覚えていますか!私を。聖地で何度もお会いしましたね!」
老人のその言葉は、自警団員に囲まれたその場所で大きく響いた。




