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【セイランの子 ランジ】
「生きるということは平和のために行動することであり、個人の目的のためではないのです。神は我々にあらゆる苦難をお与えになります。それは崩壊であり、しばしば人間は多くの損害を被ります。ですが、それは我々が平和とは何かを常に意識するためにあるのです。しかして――」
ランジとアイサは、教師が今日十回目の「しかして」を言ったタイミングで、クスクス笑いを止めることができなくなってしまった。二人は、今日の授業の中で彼が一体何回その言葉を言うかを当てようと、お昼のおやつを賭けていた。しかし、今日に限って家庭教師があまりにもその言葉を言うので、可笑しくてたまらなくなってしまったのだ。彼ら二人しかいないクラスで、その二人の笑いが止まらなくなってしまうと、授業を進めることはもちろんできない。自分の授業が中断され、しかも目の前で子供たちが自分の言動をきっかけに笑い出したのだから、教師として良い気はしない。
「お二人、きちんとこちらを見てください!相手の目をきちんと見ることで、相手が考えていることを芯から理解することができるのです。よいですか?」
叱られ、とりあえずは謝罪の言葉を述べる二人だが、なかなか笑いを止めることはできない。そんな二人を見て、教師は諦めたようにため息をつく。
「ランジ様、明日はいよいよ慶福の神事ですよ。しかして、会員の前でのご挨拶もあります。そんな中で、そのような子供じみた笑いが出てしまっては――」
〈慶福の神事〉、その言葉を聞いてから、ランジは家庭教師の長い説教が耳に入らなくなる。満十歳を迎えた年の春、最初の満月の日である明日、自分にとって非常に重要な儀式が行われるというのは、もう二年も前から聞かされていた。けれど、その実態を本人に説明するのは禁止されているらしく、ランジは一体自分の身に何が起こるのかを理解していなかった。何か試験があったらどうしよう、それに失敗してしまったら、どうなるのだろうか……そんなことを考えるたびに、軽い吐き気を催していた。
「でも先生、一体何があるのか、少しぐらい教えてくれませんか」
「それは出来ません。決まりなのです」
彼らの答えはいつもこうだった。生まれた時から導きの会にいるランジにとって、決まりというのは何よりも大切であり、なによりも煩わしいものだった。たまに、大人たちが面倒ごとを避けるために、その言葉を使っているのではないかと思う時もあった。しかし、そう疑うことも、会の教えからすると、よくないことらしい。
「ランジ様、アイサ様、お迎えにあがりました」
そうこうしていると、一人の男が迎えに来る。家に五人いる近習係のうちで、一番年嵩のいった男だった。生まれた時からずっとそばにいるので、彼が何歳なのかを知らずにいたが、少なくとも、父よりは年上に見えた。
「明日は神事がありますので、少しの間授業はお休みいたします」
「再会する日がわかったら、教えてください」
「神事って明日だけじゃないの?」
大人の会話にランジが口を挟む。予想していなかった彼らに「しまった」というような表情が一瞬浮かぶ。
「お気になさらず、明日起きることを自然に受け止めてください」
近習係の男が、できる限りすぐに平静を装ってそう言ったが、ランジに自分の質問の答えがイエスであると気づかせないようにするには、少し遅かった。また、少し気分が重くなる。
大人たちがこれ以上口を滑らせてくれることはないだろうとランジはわかっていた。もし、身近に年上の子供がいれば聞くことができたかもしれないが、ランジの周りにいる子供は、アイサのみであった。
いや、正確に言えば、去年まではもう一人いた。兄である。しかし、彼は去年の夏、突然に消えてしまった。本当に突然のことであった。その日のお昼までは兄弟三人で仲良く遊んでいたのである。しかし、夜、家のドアを激しくノックする音が聞こえたと思ったら、彼がいなくなってしまったと騒ぐ大人たちの声が、ランジとアイサの部屋にまで聞こえてきた。ランジはあれほど大人たちが慌てているのを初めて見た。頬を伝う涙が、兄の失踪によるものなのか、鬼気迫る大人たちへの恐怖によるものなのかが、わからなかった。
だが、彼らはそのことがランジとアイサに気づかれていなかったと思ったのか、気づかれていたとしても考えさせないようにしたかったのか、翌朝以降は一切話題に出すことがなかった。彼らから兄がどこに行ったのかと質問を受けても、大人たちは「忘れなさい」の一点張りであった。
「明日、楽しみだね!」
ランジの気持ちを知らずに、アイサが言う。彼女にとっては、自分の兄が一歩大人になる素敵なイベントなのだろう。
「ああ、そうだな。お前はその時間、植物園で絵の練習だろ?」
そしてランジも妹の前では自分の不安を見せないようにしていた。自分が怖がっているのがバレるのは恥ずかしかったし、兄として妹の前ではかっこいい兄でいたかったのだ。上の兄が失踪して以来、その気持ちはより強くなっていた。
彼女にとって、頼れるのは自分だけなのだ。体の弱かった母は、アイサを産んですぐに死んでしまったし、父は――父にはセイランとしての責務があるので、あまり相手をしてくれることはない。
そんなランジの気持ちを知ってか知らずか、アイサは非常に彼に懐いていた。
「でも、お兄ちゃんも一緒がよかったな」
アイサが言うお兄ちゃんとは、失踪した一番上の兄のことである。彼女は彼をお兄ちゃん、ランジのことをランジ兄と呼んでいた。それはおそらくランジが彼のことをお兄ちゃんと呼んでいたから、それがうつったのだろうとランジは考えていた。
「そうだな……。元気にしてるかな」
彼がすでに命を落としたと考えたことがないと言えば、嘘になる。けれど、そんなことはないだろうという思いの方が遙かに強かった。それほどまでに、彼はランジとアイサにとって、いつも明るく強い、理想の兄だったのだ。
「お二人とも、お食事の準備ができましたよ」
近習係の一人が、そう言って二人の部屋にやってきた。名目上、彼らはランジたちの父の下で修行するためにこの家で働いていたが、実際その多くの時間を家族の身の回りの世話に費やしている。一度ランジがそれのどこが修行なのかと尋ねたが「全てが修行なのですよ」と返された。
食事を摂り、身を清め、夜の祈りを終わらせると、ランジとアイサは早めに寝床に入った。明日は神事のために、日の出とともにこの家を出なければならない。アイサにはその必要はなかったが、兄に合わせてくれていた。
ランジは掛け布団を鼻の下まで上げ、目をしっかりと瞑るが、いつもよりも窓から入る月や星の明かりが気になって眠れない。
「アイサ、起きてるか」
「うんー」
アイサが眠そうな声で返事をする。
「明日……いや、なんでもない」
ランジはなぜだか急に、明日の神事に参加すると、もうここには戻ってこられないような気がしたのだ。だが、そんなことを言っては、妹をいたずらに困らせるだけだと思い直し、生まれた不安をすんでのところで抑える。
「なにそれー」
そんなランジの葛藤に気付くことなく、アイサはケラケラと笑う。眠気を覚ましてしまったようだった。
「今日の先生さ」
ランジがそう言うだけで、アイサはまた笑い出す。彼が十回も口癖を言ったことの可笑しさが、また彼らの間に現れた。階下にいる大人たちに怒られないよう、二人は口元を掛け布団に押しつけて、笑い声を抑える。
二人だけに聞こえる笑い声。そんな微かな音の振動の中に、ランジは別の物音を捕まえた。
「しっ」
体を起こしたランジが、指を口の前に当てて、アイサに静かにするよう合図をする。アイサは慌てて、両手で口を押さえた。そして、彼女が「何?」と目で尋ねてきたのが、月明かりに照らされはっきりと見えた。ランジは指をそのままにして、耳を澄ます。すると、屋根が静かにたわむ音が聞こえた。ネズミか何かだろうか。それにしては重い音な気がした。
勇気を出して、窓に手をかける。何かあっても、大声で叫べば、この家にはたくさん大人がいる。危ない目には遭わないはずだと高を括る。実際そこには、何か大きな問題があれば、明日の神事が延期になるのではないかという夢見がちな目論見もあった。
静かに静かに、窓を横に滑らす。ランジの顔幅ひとつ分、窓が開いた。そこから顔を突き出し、上半身ごと顔を上に向けた。すると、真っ黒で暖かい何かに口と視界を覆われた。叫ぼうとするも、口と鼻をしっかりと押さえられて、息一つできない。
殺される!
そう思って、体を部屋に引き込もうとすると、その真っ黒いものも一緒に部屋の中に入ってきた。なんてことをしてしまったんだ。このままだとアイサも危ない。そう自分の考えの甘さに絶望した時、ランジの耳に覚えのある声が聞こえた。
「俺だ、静かに」
忘れもしないその声は、去年忽然と消えてしまった兄のものだった。
それを聞き、全身の力を抜くと、自分の顔を覆っていた黒いものが離れていく。それは手袋をした手だったことがわかった。そして、その遠ざかる手の奥には、久しぶりに見る、兄の顔があった。最後に見た時よりも、痩せているようだった。
「久しぶりだな。元気か」
「げん――」
「静かに」
自分から聞いておきながら、ランジの返事を途中で止める。だが、その制止は実際にはアイサに向いたものだった。彼女は今にも叫び、彼に飛びつきそうになっていた。
「今までどこに?っていうか、なんで窓から?っていうか、っていうか……」
あまりにも予想外の状況に、ランジの頭の中は疑問でいっぱいになる。いなくなった理由も分からなかった兄が、突然現れたのだ。しかも、まるで絵本の中の泥棒のような格好で。あまりにも突飛なことに、もしかすると、これがすでに神事の一部なのだろうかという考えにまで至る。そんな混乱した様子のランジを彼はニヤリと見た。その笑顔は、これまでに何度も見た兄のものと寸分違わなかった。
「ここから逃げるぞ」
「……逃げる?なんで?」
また新たな疑問である。
「逃げながら説明する。北にある会員休憩所から少し行ったところに、使っていない井戸があるだろ。あそこから外に繋がる道があるんだ」
「外?外って?」
「質問ばっかりだな」
兄が声を出さずに笑った。
「そりゃそうだよ。だって」
「良いから。俺がお前らに悪いようにしたことなんてないだろ?」
そう言われてしまうと、ランジは何も言えない。実際に、彼ら兄妹はいつも一番上の兄を慕い、後ろをついて育ってきたからである。彼の提案はいつも楽しく、最高の結果になった。
「でも、僕らを置いて行ったじゃないか!」
「もう二度としないよ」
そう言う兄の言葉に鼻の奥が少しツンとする。その自信のある言い方に兄を強く感じた。それでランジが納得したのを察したのか、兄は二人にカバンを渡す。その中になるべく私物を入れるように言われ、二人は服を詰めていく。しかし、私物と言われても、二人が持つものはそもそも少ない。結局は兄が持ってきたカバン一つに二人分の荷物が全て入った。
「なら、道中色々突っ込んでいくか。使えるものもあるだろ」
そう言って兄は二人分の荷物が入ったカバンをランジに渡し、自分は空のカバンにランプをひとつ入れ、それごとアイサを片腕で抱える。いつの間にか、彼が入ってきた窓には、地面に向かってロープが垂れていた。
「ランジ、これをつたって降りてこい。俺が下にいるから、落ちても大丈夫だ」
普段であれば、何が起きているのかも分からないまま、大したとっかかりもない壁からロープ一本で降りていくなど、思いついたとしても実行しないだろう。しかし、あの兄が真剣な表情でそう言うのであれば、やってみようと思えた。高さは二階、月明かりでうっすらと地面が見える。これであれば、滑り落ちても大怪我はしないように見える。
勇気を出し、勢いよく消えた兄の後を追う。先ほど覗き見た地面は、すぐそこにあったはずなのに、今では数十階建ての建物ほどの高さに感じる。足でロープを挟み、少しずつ、少しずつ下に滑り降りていく。右手を離して、左手の下を掴む。左手を離して、右手の下を掴む。自分のするべき動きを一つずつ言葉にして降りていくと、ドンと、急に足が地面に着いたのを感じた。目の前のロープに集中して、自分の高さがわからなくなっていたランジは、バランスを崩して、尻餅をついた。
「大丈夫か」
ランジの手を掴み、引っ張り上げながら、兄が聞く。
「うん!それで、どこにいくの?」
自分が思っている以上に、ランジは興奮状態にあるようで、強い口調で兄に行き先を尋ねた。その勇敢な物言いが嬉しかったのか、兄はまたもや笑いながら、これから進む方向へ指を差す。
「さっき言ったとおり、会員休憩所に――」
そこまで言ったところで、暗闇から現れた男が、後ろから兄の首に掴み掛かってきた。今までにランジが見たことのない男だった。アイサが小さく悲鳴をあげる。
必死に対抗するが、男は非常に大柄で、目の前にいる兄はなかなかそれを引き剥がせずにいる。助けなければ!状況をきちんと把握する余地もなく、ランジは体を動かした。近くに落ちていた兄のカバンを振り回し、男の頭に思い切りぶつけた。
ガシャンと何かが割れた音がする。しまった、中にランプが入っている。ランジがそのことを思い出したのは、男が膝から崩れ落ちてからのことだった。手が震える。
「大丈夫。死んじゃいない」
そんなランジの手をぎゅっと握りながら、兄が言う。だが、そんな兄も軽く震えているのに、ランジは気づいた。
「気絶してるだけだ。人間そんな簡単に死にはしないさ。それよりも、まずいな……誰かにバレたみたいだ。急ぐぞ」
「ねえ、本当に何が起きてるの?この人は?」
「いいから、まずは来い!」
落とした荷物を抱え直し、アイサをおぶると、兄は早足で歩き始める。その足取りは少しふらついている。ランジは一度、倒れている男を振り返る。本当に生きているんだろうか、近づいて確かめようかと思ったが、足が止まる。そして、前を向き、兄の後を追いかけた。
「――ここなら良いでしょ?いい加減教えてよ」
他の導師たちに見つからないようにと、遠回りで竹林を進む兄に追いつき、ランジはまた尋ねる。もう、一時間は歩いていた。兄におぶられたアイサは、こんな状況だというのに、いつの間にか眠っていた。
兄は少しずれ落ちそうなアイサをひょいと元の位置に戻し、一度足を止め、あたりを見渡す。そして誰もいないことを確認すると、また歩き始めると同時に、ランジの質問にようやく答える。
「明日の神事でお前は殺されるんだ」
予想していなかった言葉にランジが立ち止まる。
「止まるな」
すぐさまやってきたその言葉で、ランジの足は動き出す。ここに来るまで兄の指示通りに歩いてきたので、考えるよりも体が先に動いたようだった。それがなければ、自分では歩けないような気がしていた。歩くたびに足が痛んでいた。
「どういうこと?そんなはずない。ただの神事でしょ?そりゃ、何をやるかは知らないけど」
「ランジ――セイランに替わる者。お前の命は神に捧げるために育てられてきたんだ。二代目セイランの息子であるお前の命には、その価値があるとあいつらは考えている」
「そんなの……そんなの……!」
信じられない。あり得ない。そう言いたかったが、そう言いきれない記憶があまりにも多すぎた。大人たちが、いつも自分を通して、自分の父を見ているのはよくわかっていた。その父は自分たちに全く見向きもしてくれないというのに。
自分に挨拶する人たちに「セイラン様のためにも、ランジ様もお身体には気をつけて」と、何度も何度も言われてきた。母親のいない自分たちが迷惑をかけないようにという意味だと捉えていたが、それらは全て、その神事で自分を生贄に捧げるためだったというのだろうか。
「これから、俺はお前たちを外の世界に連れていく」
「外って?」
先ほど返ってこなかった質問をもう一度する。
「お前たちが知っているこの場所は、全部導きの会……つまりはお前の父親が所有している場所だ。でも、この外には全く別の世界がある。そこは貧しく、汚く、そして危険な所だ。だが、今のここよりはお前にとって安全だ」
自分から聞いておきながら、もうランジには何が何やら全く理解ができていなかった。お昼まではアイサといつも通りの日常を送っていたのだ。もし、今からあの先生の授業が受けられるなら、初めから終わりまで一切ふざけたりせずに、真剣に聞けると約束できると思った。
「これまでのお前の十年間とは、全く違う人生がやってくる。辛いことも多いはずだ。その時は俺を恨めば良い。けど、絶対に生き延びるんだ」
その言葉を最後に、兄は黙々と道を進み始めた。ランジは何かもっと聞くべきことがあるはずだと思いながらも、何も思いつくことができず、彼の背中を追い続けた。
そして、ようやく竹林を抜けると、そこには古井戸があった。とっくに水が湧かなくなり、封鎖されていた井戸だ。兄はその穴を塞ぐ蓋を取り、部屋の窓から抜け出す時に使ったロープと同じものを中へ垂らす。
ランジは先に入るように促された。しっかりとロープを握り、先ほど部屋から抜け出した時と同じ要領で、後ろ向きにゆっくりと足からその穴へ沈めていく。今度は真っ暗で、底が全く見えない。
「わかんないけど、本当に、何が何だかわかんないけど、俺はお兄ちゃんのことを信じるよ」
頭まですっぽりと井戸に隠れるところまで降りると、ランジが兄を見上げ、そして言った。兄はそれにまた笑い、そして「あっ」と思い出したように言う。
「そうだ、俺は翌って名前を自分につけたんだ。名無しのまま生きていくには、外は複雑すぎるからな」
【自警団員 蘭次】
蘭次は自警団の本部へとまたやってきていた。今度は建物の前ではなく、郷原のいる代表室の中へと通された。部屋の中で自分の机に腰掛けている郷原は、蘭次にソファーへ座るように促すが、蘭次はそれを丁重に断った。今の自分には勿体ないと思ったのだ。
「本当に、申し訳ありません……」
蘭次が深々と頭を下げる。それを見た郷原は立ち上がり、蘭次に下げた頭を戻すように言う。しかし、蘭次はなかなか頭を上げることができない。アクルが銃を盗んだあの日から、郷原の言葉に救われ、必死に自警団員として戦ってきた。自分でも少しは強くなれたと思っている。当時のことを知っている自警団員の多くも、今では蘭次のことを評価し、時には頼りにしていた。しかし……。
「やめろやめろ。俺とお前の仲だろう?」
郷原が机から降り、蘭次の体を無理やり起こす。
「私のことを、導きの会のスパイだと考えているものが多いと聞きました……」
導きの会の導師が、蘭次と昔懇意にしていたという事実は、昨日の今日だというのに、大きな噂となり、本人である蘭次の耳に届くほど急速に広まっていた。
「良いんだ。いずれ明かさないとと思いながら、タイミングをミスった俺の責任だよ。本気で隠すなら、名前だって変えられたんだ。悪かった」
今度は郷原が頭を下げようとするので、蘭次が慌ててそれを止める。
「良くありません!導きの会の一員だと思われるだなんて、耐えられません……」
あの日、二人を外に連れ出したはいいが、アクルには二人を養い守るだけの力はなかった。そして、だんだんと厳しくなる生活に彼が苛立ちを隠せなくなってきた頃、彼らは郷原の手によって保護された。もう十年近く前のことである。その後、数年経ってから急激に体調を崩した愛紗のことを思うと、あの時に郷原に出会えなければ、彼女は間違いなく死んでいただろうと思う。彼女だけではない、蘭次だって無事ではなかっただろう。
しかし、それほどの恩人である郷原を、自警団を、あの日アクルはあっさりと裏切ったのだ。今思えば、その理由も金だったのだろうと推察できる。
あの時、郷原が自分を守ってくれなければ、今頃愛紗とともにのたれ死んでいただろう。あの時、郷原がくれた言葉があったから、蘭次は強くなれたし、怪物と戦ってこれた。模範的な自警団員として生きることができた。それだというのに、ここに来て、導きの会のスパイと思われるだなんて、心外だった。
アクルと、導きの会。
契約書と、スパイ容疑。
自分が何年も恨みながらも、何もできずにいたものたちが、ここに来て急に牙を剥いて来たかのようだった。
「郷原代表」
蘭次は、この場所に来る前に決めた、自分の覚悟を伝える。
「凛から報告書をお受け取りになったことと思います。信仰者が集団で失踪した町の調査をさせてください。人間を怪物に変化させる恐ろしい出来事と無関係とは思えません。このことを私が白日の下にさらせば、導きの会は確実に縮小します。そうなれば、私がもう導きの会と無関係であることが、証明できるはずです」
その蘭次の言葉を予想していたかのように、郷原は机の上に置いてある資料を手に取った。凛が医務室のベッドで書いた、先日の図書館での事件の報告書である。
「あの凛が確度の低い報告書を作るとは思えない。怪物変化の件は信じるほかないだろう。だが、その村の件はどうだ?」
「もちろん、村の集団失踪が関わっているか、定かではありません。ただ――」
言いながら、蘭次は自分が導きの会から逃げ出したあの夜のことを思い出した。
「――私が会を逃げ出した夜、私はある儀式に参加すると言われていました。そして、あの男に、私はその儀式で神に捧げられるところだったと言われました。怪物を信仰するあの会のことです、それが自分を怪物に変えるための何かだったとしても不思議ではありません」
「村人全員をその儀式に参加させたと……?」
「どういった名目かはわかりません。ただ、彼らなら純朴な会員を連れて行くことなんて容易でしょう。私にはそれ以外に、村人が全員いなくなる理由が考えられません」
論理的に考えれば、そこにまだ確証はないが、蘭次には漠然とした自信があった。郷原が息を吐きながら、口元に手をやる。それが彼の気持ちが揺らいでいる兆候だと知っている蘭次は、もう一押しをする。
「お願いします。私に調査をさせてください。いざとなれば、導きの会の人間であると装うこともできます」
ただ自分に調査をさせてくれと言っても、郷原は蘭次への心配から許可してくれないだろうと考えていた。これは、そのとき、自分が導きの会のスパイと疑われていることを聞き、思いついた案だった。会の調査をするにあたって、会の内情や信仰について蘭次よりも詳しい人材は、いくら自警団といえど、そう多くはないはずである。
「集団失踪、変化、儀式……」
郷原が頭の中を整理するために、言葉を口にした。
「その儀式について、何か知っている情報はないのか」
「ありません。私に伝えないように、大人たちが必死に隠していました」
「私から全体にスパイ容疑の馬鹿馬鹿しさを告げれば、噂なんてすぐになくなるだろう」
「あの男が武器を盗んだ時にそうしていただきました。でも、もう守ってばかりいただくわけにはいきません!お願いします。私は強くなりました。代表が言ってくれたように。この強さを、自警団のために使いたいんです!私を救ってくれたこの場所のために」
郷原が深いため息をつく。蘭次が郷原の癖までも知っているように、彼もまた蘭次の性格をよく知っていた。
「正直に言って、お前の意見は推測の域を出ない」
「ですが――」
「だが!その怪物変化について、何かしら尻尾を掴めるなら、その可能性が低くとも追いかけたい気持ちはわかる。調査に行ってこい。ついでに晴人も連れて行け。こういう場合は、あいつみたいなのが役に立つ」
「ありがとうございます!」
蘭次の大声が部屋の中で大きく反響する。郷原がその勢いにクックと笑った。
【導きの会 二代目会長セイラン】
「――以上が、キシン導師についての報告となります」
導きの会の会長、セイランの部屋で、幹部の一人が昨日起こった事件についてそう報告を締め括った。毎朝行われる、幹部からセイランへの報告の時間であった。
「報告ありがとう。しかし、自警団が急に導師や会員を殺害するだなんて……。一体なにが彼らをそうまで激化させたというのだろうか」
「元来野蛮な組織ですからね……キシン導師は模範的な導師でした、その人間性や徳の高さを妬んでの行動さえあり得ると、我々は考えております」
「そうか……」
納得しかねるセイランだったが、幹部らの言うことを完全に否定できる証拠は何もない。確かに、ここのところ導きの会が急速に拡大しているのは感じていた。それによって、自警団が自分たちのことを多少疎ましく感じることはあるだろうとも思っていた。けれど、それは人を四人も殺めるほどのものなのだろうか。人の心の闇の大きさは、自分には想像しきれないほどのものがあると、思わずにはいられなかった。
「それで、キシン導師の葬儀はいつ?」
「三日後に。本当は今日にでもと思ったのですが、ご親族を集めるのに少し時間がかかりそうでして」
「みなさまのお迎えはできそうですか」
「問題なく。お車で伺います」
キシン導師の地元は、会の本部からかなり離れたところにある。そこまで車での往復をしようと思うと、かなりの費用がかかるはずだ。それをこうも簡単にできるようになったことに、会の力が増していることを改めて実感する。セイランが二代目に就任したばかりの時では決してできなかったことだろう。だが、それにしても最近の金の動きは激しすぎるようにも感じていた。人手が増え、拠点が増え、会員が増えていく。もともと導きの会に入会するものの多くは、自警団の作る社会に馴染めないものが多く、そういった人たちの多くは貧しかった。しかし、幹部の者たちが言うには、ここ最近、一部の資産家や商売人たちの入会が急激に増え、寄付額も多くなっているらしい。
初代セイランである母の時には成しえなかった規模の拡大を達成することができ、二代目セイランである彼は誇らしい気持ちでいっぱいだった。けれど、ここ数ヶ月、何やら違和感を覚える出来事も増えてきた。
会員たちは、セイランを見ると、まるで彼自身が神かのように恭しく頭を下げ、心よりの感謝を述べてくれていた。しかし、導師の一部は、セイランが目の前にいるにも関わらず、幹部たちにばかり気を遣っているような気がした。
一度、幹部会議に参加させてくれと言ったこともあったが、彼らは頑なにそれを断った。「そんなことにセイラン様の時間を取らせるわけには行きません」「セイラン様の貴重なお時間を、我々のような世俗の話し合いに使わないでください」そんなことを彼らは口々に言い、セイランを遠ざけた。
こんなことが、母の時代にあっただろうか。彼女の言葉は、その全てが絶対であったように思う。
そして、自分も、またセイランである。人々を神へと導く存在だ。そのために、家族や世俗とはなるべく距離を置き、人生の多くを祈りに捧げている。もしかすると、そのせいで目の前にいる人々の心を掴み損ねているのだろうか。
「それで、セイラン様……」
「ん?」
考え込んだ様子のセイランに幹部が話しかけ、彼は意識を会話に戻した。
「次の予言の地はどこでございましょうか?」
「ああ、そのことか」
予言――セイランを襲名したばかりのころは、自分にそんなことができるとは全く思えなかった。しかし、何度も何度も祈りを重ねた頃、頭の中に一つの地名が浮かび上がった。それを告げると、翌日、怪物がその地に現れた。それ以降、セイランが予言を外したことはなかった。
今日も、一つの地名を伝える。
「――なるほど……。時期は?」
「次の満月だ」
今では場所の他に、その時期もわかるようになってきた。目を輝かせ、その地にいる会員たちを避難させる手筈を整えると言う幹部の顔を見ると、自分の先ほどの疑念は、考えすぎだったのかもしれないと思えた。
早く避難の準備に取り掛かるようにと伝えると、幹部たちは頭を下げ、セイランの部屋からぞろぞろと出ていく。
一人になった部屋に静寂が広がる。数秒そこに立ち尽くしたのち、祈りの部屋へと足を動かす。この世界を少しでも良くするため、自分にできることは結局それだけなのだ。もしかすれば、幹部たちは少し邪な気持ちに揺れているかもしれない。しかし、それも神への祈りが通じれば、また良化していくことなのである。
ふと、目の前を影が通る。吹き抜けの上部にある窓から差す日の光を何かが遮ったことに気づき、そちらに目をやる。すると、そこには一人の男がいた。
「相変わらず辛気臭い家だな」
「誰だ!」
「誰だはないだろう?可愛い息子との久しぶりの再会だぜ」
その言葉に、セイランは部屋に取り付けられた緊急アラームのボタンを押しかけた指を止める。そして、窓の桟に腰掛け、逆光で影になっている青年の顔に目を凝らした。
「ランジか……?」
「おいおい、もうボケちまったのか?」
そう否定して、その青年はニヤニヤと意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「どうやってここに入ってきた?」
「壁をつたってさ」
「そうじゃない。この聖地内にだ」
「怒るなよ。俺はあんたんとこのお偉いさんたちに、正式にお呼びいただいたんだぜ?」
その証拠にと、青年は聖地と呼ばれるこの敷地内に入るための通行許可証を見せる。
「簡単に偽装できるんじゃないか?これ。気をつけろよ」
「だとして、何をしにきた?」
「質問ばっかりだな。少しは考えたらどうなんだ」
「いいから答えろ。私がこのボタンを押せば、お前はすぐに捕らえられることになる」
セイランが緊急アラームのボタンを、青年に見えるように少し上に掲げる。彼のその言葉が嘘や脅しではないことを知っている青年は、深いため息をついてから、面倒くさそうに話し始める。
「武器を売りにきたんだよ。なぜだとか聞いてくるなよ?あんたとの会話は尋問みたいで頭が痛くなってくる。おたくの会が俺から武器を買うのは今回が初めてじゃない。なんならお得意さんだよ」
「嘘をつけ」
「嘘なもんか。請求書でも見てみるか?」
青年がカバンから今度は紙束を取り出し、ひらひらと顔の横で振る。セイランは信じずに話を切り上げたかった。しかし、幹部たちを以前のように信頼しきれていない今、青年の言葉を一笑に付すこともできなかった。
「我々は……神に祈りを捧げ、平和を求めているはずだ」
「お前が、現実を見ないで祈りの間にこもってるだけだろ?」
請求書をポケットに戻しながら、その青年はあっさりと答える。それが全く大した問題じゃないような態度である。
「……私は何か間違えているのか。なぜ先代セイランの時のように、彼らは私を見ようとしない?私と先代で何が違う?なぜだ!」
セイランは声を荒げる。大人になってから彼が声を荒げたのは、彼自身の記憶の中で一度もないことだった。しかし、青年は一切動じずに、その醜態を見下ろしながら、吐き捨てるように答える。
「俺にわかるわけないだろ。だから、名前を奪ったんだろう?」
「私は――」
「そろそろ商売に戻らせてもらうよ。今後ともご贔屓に」
セイランの言葉を遮り、青年は窓から外へと飛び去っていった。遠ざかる足音はすぐに聞こえなくなり、ただ風の音だけが、彼の開け放した窓から聞こえてくる。
緊急アラームボタンから指を離したセイランは、祈りの部屋に行くことを諦め、寝室へと向かうことにした。祈りをせずに寝室に向かうのも、彼の記憶にある限り、初めてのことであった。
【病の少女 愛紗】
寝室から出た愛紗は、久しぶりに外出することにした。外出といっても、数ブロック先にある商店街に食材の買い出しに行くだけである。普段兄がいるときはさせてもらえないが、彼は朝一から仕事で出ている。もしかすると、長引くかもしれないとのことだった。今日は珍しく体調が悪くない。家の外で浴びる太陽を気持ちいいと感じられた。その気持ちよさを、より感じようと大きく伸びをすると、近所に住む女性が慌てた様子で近づいてくる。
「愛紗ちゃん!大丈夫なの?」
「ええ、今日はバッチリです」
目の前で拳を握ってみせ、その元気さをアピールする。何かあったらすぐに言うようにと声をかけてくれたその女性の優しさを疑ったことはないが、愛紗は兄が彼ら夫婦にお金を渡しているのを知っている。何かが起きたときに、面倒を見てもらうためにである。それを非難しようとは思わない。誰だってお金が必要だ。もちろん、それは愛紗たちも同じである。
買い物をする前に、銀行がある建物に寄る。商店街の真ん中に三重の鉄格子で囲われた建物があり、入り口に自警団員が警備として立っている。分厚い壁で囲ってしまうと、銀行から発せられる怪物避けの電磁波が防がれてしまうため、どこの銀行も屋根以外は隙間のある造りになっている。
「身分証を」
自警団員の言葉に愛紗は身分証を見せる。彼はその住所を確認してから、愛紗の顔をジロジロと見つめ「蘭次の?」と表情を険しくした。今朝、蘭次から自分が導きの会のスパイ容疑をかけられたことと、そのことで何か迷惑をかけてしまうかもしれないということで謝られた。彼が謝ることは何もないと言ったが、いつものように蘭次は一人で抱えようとしていた。
「いつもお世話になっています」
丁寧に挨拶を返した愛紗だったが、自警団員の表情が緩むことはない。だが、身分証にはもちろん何も問題がない。入室を促すその自警団員に従い、愛紗は銀行の前へと進む。
文字の書いてある画面に触れると、現金を引き出す画面へと切り替わる。最近は涼しいし、三日分の食材を買っても平気だろうと、金額を入力する。銀行の中でパラパラと現金が用意されている音がする。その音を聞きながら、愛紗は導きの会の聖地を抜け出してからのことを思い返した。外の世界を知って、一番驚いたのは、この銀行という存在だった。一体どういう仕組みで、こんなことが可能なのだろうか。どうやって現金を補充しているのだろうか。誰にも説明できないそれは、怪物の出現を予知できることよりも、よほど神の力のように思えた。
愛紗は、取り出し口に現れた現金を財布に入れ、操作終了の画面を押す。すると、一番最初の画面がまた現れた。そして、その一番右下には〈チケット〉という表示がある。
新世界に行けば、こんなにもすごい物が当たり前なのだろうか。本当に平穏な生活があるのだろうか。それとも、結局は、どこも同じようなものなのだろうか。
「まだか?」
入り口の自警団員が、背後から愛紗を呼ぶ。どうやら次の人が待っているようだった。愛紗は慌てて「すみません」と言うと、できる範囲で急いで、その場を立ち去った。
商店街を歩き出し、病院以外の場所に出かけるのは楽しいと、愛紗は改めて思った。木々の匂いは消毒薬の香りよりも、何倍も人を治してくれそうな気がした。食材を買いに行く手前で、洗剤がなくなりかけていることを思い出し、日用品を買いに行く。
愛紗がこの辺りに住み始めた頃は、一つの大きなスーパーマーケットがあった。だが、どんどんと手を広げ、お金を稼いでいったオーナーは、ある日急にいなくなってしまった。チケットを買って、新世界へ行く航空機に乗ったのを見たという人がいた。残された従業員たちは、行き場を失いかけたが、各売り場の担当者たちが力を合わせて、規模を縮小させながらも、店を続けた。
見て分かる悪人だけが悪人ではない。そんなお金による裏切りもある中で、絶望し、神に縋る人の気持ちも愛紗にはよくわかるような気がした。現に、今愛紗が洗剤を購入しているこの日用品店の夫婦は数年前から導きの会に入会している。彼らが祈りの言葉を呟いているのを、たまたま耳にしたことがきっかけだった。おそらく、この辺りでは誰にも通じないと思ったのだろうが、それは愛紗の耳に馴染みのあるものだったので、反射的にその言葉尻を取るように、続きを呟いてしまった。その瞬間の彼らの驚きの表情は、今までに見たどんなものよりも劇的なもので、今でも彼らを見ると、思い出してしまう。
彼らは、なぜ愛紗がその言葉を知っているかよりも、自分たちが会員であることを彼女が言いふらさないかどうかが気になったらしい。それだけで迫害を受けることはないだろうが、この辺りでは導きの会のことを胡散臭い集団だと嫌う人は多い。横のつながりが大事な商売人にとって、それはよほど知られたくないことなのだろうが、それでも信仰しようと思っただけの何かが、彼らにはあったのだろう。
「お兄さんは元気かい?」
「少しまけてあげるよ。久しぶりに愛紗ちゃんに会えて嬉しいからね!」
そう優しく声をかけてくれる彼らは、彼らの信仰する神を退治する兄のことを、自警団のことをどう受け止めているのだろうか。そして、兄は彼らのことも強く憎むのだろうか。
順調に買い物を済ませていく愛紗。当初の予定より、少し荷物が多くなってしまった。立ち止まり、深く息を吐く。すると、くらりと眩暈がして、その場にしゃがんだ。久しぶりの外出に舞い上がって、休憩を忘れていたようだ。兄にバレたら、また外に出られなくなってしまうなと、悔しがる。
下を向いてしゃがんだまま、眩暈が治るのを待っていると、視界に使い込まれた革靴が映る。革靴といっても、礼服用ではなく、頑丈な自警団用の物だ。しゃがんでいる自分を心配して自警団員が覗き込んでくれているのだろうと思い、愛紗は「ご心配なく」と告げるために、力を込めて顔を上げる。
すると、そこにいたのは、自警団代表である郷原であった。
「大丈夫か?愛紗」
郷原はそう言いながら、ひょいと荷物ごと愛紗のことを抱き上げる。
「はい。あ、あの、下ろしてほしいです……」
人通りの多い、商店街で持ち上げられると、さすがに感謝よりも恥ずかしさが勝った。しかも、自分を持ち上げている男は郷原である。この国で一番と言っていいほどに有名な男だ。しかし、彼は愛紗のそのクレームを「まあまあ」といなし、近くのベンチまでそのまま連れていく。
一番近くにあったベンチには、四十代ほどの夫婦が座っていたが、郷原が愛紗を座らせたい旨を伝えると、大急ぎでその場所を開けてくれた。愛紗が平謝りするも、彼らは「気にしないで」と、なぜか果物まで渡してくれた。
「元気そうでよかった」
たった今しゃがみこんでいた愛紗に、そう声をかける郷原。
「嫌味みたいですね」
「あ、いや、そうじゃないんだ」
「冗談ですよ。ありがとうございます、郷原さん」
その言葉に郷原は笑顔に戻る。まるで、自分の娘の成長を喜ぶかのような優しい目をしている。
「兄の件ですか?」
「それもある。少し迷惑をかける。すまないな」
郷原が蘭次と同じ言葉を愛紗にかける。彼らは似ているところがあると時々思う。
「だが、一番の理由は墓参りだよ」
「あ、そうか。もうそんな時期なんですね……」
アクルの一件があり、愛紗と蘭次は自警団の外に住むことになった。その際、ここに住むことを勧めてくれたのは郷原だった。ここは、彼の故郷であった。外れには墓地があり、郷原は命日が来ると、必ずここへやってきていた。
「愛紗からすれば、想像もつかないほど昔の話だろうな。それでも、昨日のことのように思い出せるよ。両親のことも、あの日の怪物のことも。救えなかった自分の弱さも」
「そういうものなんですね……」
「すまないな、重い話を」
「いえ、そんなことないです!それに、久しぶりに会えて嬉しいです」
「ずいぶん、大人びた喋り方をするようになったな。本部で走り回ってたあの子が」
そう言われ、愛紗は顔を隠すように前髪をいじる。照れくさいときの彼女の癖だった。郷原を含め、当時の自警団にいた人たちにはたくさん迷惑をかけた。毎日事件の報告が起こる忙しない場所で、五歳の少女を育ててくれたのだ。愛紗にとっては感謝しかない。
自分が前髪を触っていることに気づいた愛紗は、その手を膝の上に置く。そして、郷原の方を向き直すと、彼が顔つきを真剣にしていることに気がつく。
「ところで愛紗、あのお店のご夫婦だが――」
ドキリと心臓の音が聞こえた気がした。愛紗は一気に自分の手が汗ばむのを感じる。彼が言っているのは、まず間違いなく導きの会に入会しているあの夫婦のことである。彼らが会員なことがバレてしまったら、一体どうなってしまうのかと、愛紗は表情をこわばらせる。すると、反対に郷原は豪快に笑い出した。
「すまないすまない。あまりに大人ぶるから、からかいたくなったんだ。許してくれ」
そう言いながら笑いの止まらない郷原を見て、愛紗は彼の思惑を理解し、今度は腹を立てる。そんな冗談を言っていい立場の人間ではないはずである。
「愛紗、私はね、別に導きの会を嫌ったり、恨んだりはしていないんだよ」
ようやく笑いやんだ郷原が言う。
「……そうなんですか?」
「ああ、私が願うのは世界の平和だ。そこにはもちろん、導きの会の人たちだって含まれているよ。それに、彼らの言うとおり怪物による死が救済なら、私も両親に合わせる顔ができる」
「でも――」
でも、現実はそう動いていない。自警団員の多くは導きの会を敵視しているし、導きの会には自警団嫌いが多くいる。そう言おうとするも、愛紗は口を閉じる。そんなこと、郷原なら言われなくても分かっていると思ったのだ。その愛紗の思いを汲み取って、郷原が言葉を引き取る。
「現実は厳しいな……。すまない。だが、もうすぐさ。なんとかしてみせる」
「郷原さんは、十分頑張っていると思います」
愛紗の言葉に、郷原が優しく微笑む。そこにはいつも自警団にいる時の威圧感は微塵もない。そんな彼の態度に、愛紗は、これまで誰にも言ったことがない思いを吐き出しても大丈夫だと感じた。この人なら、この思いを否定しないでくれるだろうと思えた。
「私は、蘭次兄……兄ほど導きの会のことを恨んでないんです。正直、あんまり覚えてないし……あそこのご夫婦は、いつも私に優しいです。それに、以前も今日みたいに道でふらついたことがあって、その時助けてくれたのは、導きの会の人でした。こんな世界で、救いを何かに求めるのが、いけないことだなんて、私には思えないです」
「それでいいさ。君と蘭次は別の人間さ。別の考えがあっていいんだよ」
思っていたとおり、郷原は、愛紗の気持ちを優しく受け止めてくれた。しかし、それは正しい言葉だが、蘭次のおかげで生きられており、蘭次のために生きている愛紗にとって、簡単には受け取れないものだった。




