第13話 無自覚イルカの次なる試練
バイトが終わって家に帰り着いた頃には、夜の十時を回っていた。
店自体は夜の八時か九時くらいで閉まるけど、クローズ作業をして店を出ると、大体こんな時間になる。
「疲れてるはずだけどなぁ」
自宅マンションの玄関を開けて一言漏れる。
バイトの疲れはあるはずなのに、頭が妙に冴えている。理由は……まぁ考えるまでもない、か。
「……なんであの笑顔で俺の名前呼ぶかな」
思い出すだけで心臓が跳ねる。
あの瞬間の、悪戯っぽくて、それでいて溶けるように柔らかい笑顔。
青井瑠夏のことを意識しまくってるところで、トドメをさすかのようにイルカからチャットが入る。
『バイトで忙しいのにごめんなさい。今日ログインしないって言ってたけど、ちょっとだけできませんか? 報告したいことがあるんですぅ』
報告?
♢
いつもの『エクリプス・レガシー』の噴水広場。
「エーヒレさぁぁぁぁぁぁぁん!!」
ログインして一秒。俺の耳に届いたのは、鼓膜が震えるほどの絶叫だった。
そのままその声の主は、カーリングみたく、正座したまま俺の前で止まる。
「バイトでお疲れなところ、来ていただいてありがとうございます‼︎」
そのまま土下座してくるので、いつものノリで腕を組んで答えてやる。
「うむ。騎士の誓約紋で許してやろう」
「ははあ──って、ええ⁉︎ あれ、めちゃくちゃ面倒くさいイベントじゃないですかぁ‼︎」
「あーあー、今日は客に散々な目に合って疲れた中、わざわざ大好きな相棒のために来たのになぁ」
チラ。チラリ。
嫌らしく言ってやると、イルカは、「ぐぬぬ」と考え込んでいた。
すると、立ち上がり、胸を叩く。
「い、いつもお世話になってる相棒のため、今日、わざわざ来てくれた大好きな相棒のためにも──ぐぬぅ……取って来ます」
語尾が小さくなってしまった。
「でもでも‼︎ その代わり、今日はじっくり聞いてもらいますからね‼︎」
「苦しゅうない。申せ」
「では──」
コホンと咳払いを一つ吐くと、「エーヒレさん」と、イルカにしては低い声を出した。
「事件です‼︎ 歴史が動いたんです‼︎」
このはしゃぎよう。
数時間前にバックヤードで「ボタン、掛け違えてる」と清楚に微笑んでいた少女と、本当に同一人物なのだろうか。未だに疑ってしまうな。
「事件って?」
「私、私はついに、ついにですね、永友くんの『正妻』の座を確固たるものにしました‼︎」
……。
…………。
「は? ……何言ってんの?」
「エーヒレさんが疑いたくなる気持ちもわかります。顔面エスプレッソからどうやってそうなった? って感じですよね」
確かに、エーヒレとしてのチャットはそこで終わっていたな。
「ですが落ち着いて聞いてください」
落ち着いて聞いていられるかっ。
俺は知ってんだぞ。なにが起こったのか、全部。
だけど俺は、永友瑛としてではなく、イルカの相棒であるエーヒレとして、落ち着いて聞き役に回るしかない。
「今日、永友くんのバイト先に行ったんです」
「チャットで言ってたね」
「あの後ですね、私、本当に申し訳なくて、『店長さんにバックヤードで永友くんの様子見て来ても良いですか?』って聞こうとしたんです。その時、パニックになって、『私、永友くんの下僕なんですけど』って言ったのは置いといて」
「ぶっ‼︎」
つい吹き出してしまった。
おまっ、え? 洗面台で目を逸らしたの、それが原因かよ。
でも、ツッコめないジレンマっ。くっそぉ。
「永友くん、お着替え中だったんですけど、シャツのボタンを全部掛け違えてたんですよー。普段クールなのに抜けてるところもあるとか、メロさで私どうにかなりそうでしたぁ」
「……全部は掛け違えてねぇよ。一つだけだ」
「え? 何か言いました?」
「いや、なんでもない。続けてくれ」
危ない。つい自分の記憶で訂正しそうになった。
イルカは頬を上気させ(アバターの頬がピンク色に発光している)、杖を振り回しながら語り続ける。
「それで、私が彼の喉元に手を伸ばして、一つずつ、丁寧に、愛を込めてボタンを留め直してあげたんです。その時、永友くんったら、心臓の音がバックヤード中に響き渡るくらいバクバクさせて……めっちゃかわで尊さカンストしました」
「……っ⁉︎」
聞かれてた……俺の心臓の音……。
「てかてか。永友くんと私の身長差ガチめに黄金比っぽいんですよねぇ。あのまま顔上げたらキスできそうでした」
「キス……⁉︎」
「あー、やばかったですよぉ。なんか、ボタン止めてる時も、『あれ、これ、新婚じゃね?』って感じでぇ。やばーい、子供の名前は烈我士偉にします」
「キラキラネームっつうか、車じゃねぇか‼︎」
「エクレガのレガから取ってますよ?」
「あー、だったら──よくねぇから‼︎ キラキラネームやめろっ‼︎」
「あはは。もち、冗談です。子供の名前は永友くんと一緒に決めるんで」
「おいおい。結婚できる前提かよっ」
「だって永友くんったら、私が『バッチリだね、瑛くん』って耳元で囁いたら、もう完全に陥落してましたね。私のこと、女神を見るような目で──」
言葉の途中に何かに気がつくと、イルカの頭から湯気が立ちこむほどに顔を赤くする。
「や、待って。え、待って」
「待っているが?」
「え、ええ、ええええてーひれしゃん。わた、わたわたわ、し、私、永友くんのこと、なま、名前で……よんで、よんだ、よびました」
意識してなかったのかよ。
「え、やば、どうしよ……いきなり名前? ちょ、待っ、それは……やばい、嫌われた」
「落ち着けイルカ。名前で呼んだくらいで嫌われるかよ。てか、下僕とかなんとか呼ぶなら名前で呼べば良いだろ」
「や、ややや、や。な、名前で呼ぶなんて、そんな、そんな……」
「嬉しいと思うけどな。イルカは永友くんに名前で呼ばれたくないんか?」
「呼んで欲しいです‼︎」
グイッと前のめりになって言ってくる。
「だったら、まぁ、呼んでみたら良いじゃないか。絶対に喜ぶよ」
「はい‼︎ よぉし、明日は永友くんを名前で呼ぶぞぉ‼︎」
イルカの次なる試練が始まった。




