第12話 バックヤードは2人の聖域。掛け違えたボタンを直すように……
顔面を伝うエスプレッソが、顎からポタポタと落ちる。
視界が茶色く染まり、鼻腔には濃厚すぎるコーヒーの香りと青井瑠夏の──いや、これ以上の妄想は色々な意味でアウトだからやめておこう。
マスターに許可を得て、バックヤードの洗面台で顔を洗う。
「顔は洗えたけど……」
エプロンとシャツには茶色い染み付いちゃった。これでお客さんの前に出ることはできない。クリーニング行だな。
幸いにも、今日のシフトはマスターと俺だけ。もう一人女子高生がいるが、今日は入っていないから、容赦なくシャツを後方に脱ぎ捨てた。
「きゃっ♡」
小さな悲鳴が後ろから聞こえて来るから振り返る。
「え?」
そこには、俺の脱ぎ捨てたシャツを頭から被った青井瑠夏が立っていた。
「……くんくん」
いや、待って。怖いもの見たさの感覚で匂い嗅ぐのやめて。
ほらぁ。めっちゃ不機嫌になるじゃん。今にも俺を殺そうとする眼光やめい。
「私、殺されるの?」
おめぇが匂いを嗅いで俺を殺すぞって目ぇしてんだろっ。
「ごめん──だけど、なんでこんなとこにいんだよ。ここ、従業員以外立ち入り禁止だけど」
「店長さん? に許可貰ったわよ。私のせいで永とみょ──下僕が偉い目みたから様子を見させてくださいって」
名前噛んだからって下僕呼びすんなよ。
「え、てか、待って。マスターに俺のこと下僕呼びしたの?」
「……」
「おい、なんでそこで目を逸らす?」
「そ、そんなことより早く着替えなさい。目の毒よ」
肌着姿の俺を、チラチラと見て来る。視線がやらしい。
女性が胸とか見られるのがわかるって気持ちが少しばかり理解できたかも。
「……はぁ」
まぁ、マスターに下僕だのなんだのと言ったかどうかなんてどうでもいいか。
半ば諦め、俺は洗面台すぐ近くにあるロッカーを開ける。
「俺が投げ捨てたのが悪いけど、いつまで被ってんの?」
「ひゅわ⁉︎」
俺の指摘に、独特なリアクションをしてから、バッと俺のシャツを頭から取る青井瑠夏。
「べ、別に、良い匂いとか思ってないから‼︎」
くんくんと匂いを嗅いで、シャツをギュッと握りしめた。
「思ってないもん‼︎」
「やめてくれ‼︎ 色々複雑だから‼︎」
この子は勢いに任せてなにを言ってんだ。てか良い匂いじゃないのはわかってるから。うん……。
「青井さん? 匂いうんぬんは置いといて、それ、染みが付いて汚いから、早く洗濯カゴに入れて」
「わ、私から出たものが汚いっての⁉︎」
「ええい‼︎ さっさとカゴにいれやがれ‼︎」
そこでようやくと青井瑠夏が洗濯カゴにシャツを入れてくれ──おい、なにをためらってんだよ。さっさと入れろ。
「……私、汚い?」
なんで泣きそうな顔をして見てくるんだよ。
「青井さんは汚くない」
「私、綺麗?」
「きれーきれー」
適当に答えてやると、安心したように洗濯カゴにシャツを入れてくれた。
はぁ……こいつといると疲れるな。
やれやれ。
ロッカーから新しいシャツとエプロンに着替えてから、青井瑠夏に言ってやる。
「俺は大丈夫だから。心配してくれてサンキュな」
そもそもの原因は彼女だが、普通は、わざわざ店の人に許可を得てまでバックヤードに来ないだろう。そこの気遣いみたいなところは青井瑠夏の良いところだ。
「……」
こちらの声に応答はなく、着替えたばかりの俺をジーッと見て来る。
すると、無言で歩み寄って来た。
「え、な、なんだ?」
「ちょっと、じっとしてなさい」
「え、おい……」
彼女の手が俺の喉元に伸びる。
「ボタン、掛け違えてる」
そう言いながら震える手で俺のシャツのボタンを外してくる。
あまりの至近距離に心臓の音がうるさくなってしまう。
俺と青井瑠夏の身長差から、鼻の近くに頭があり、その綺麗な髪から学校で借りたあのハンカチと同じ、甘い香りが……。
「これでよし。うん……バッチリだね瑛くん」
不意に、下僕ではなく、名前を呼ばれた気がした。
いつもの刺々しさが嘘のような、柔らかい少女の笑顔で俺を見つめてくる。
彼女の笑顔に見惚れてしまっていると、その顔はみるみる崩れ、鬼の形相となる。
「ふ、ふんっ。こ、これくらい、自分でやりなさいよっ‼︎」
そう言い残して、青井瑠夏は怒ったようにバックヤードを出て行った。
「──あいつの至近距離の笑顔、綺麗過ぎるだろ」




