後日談 偽りの天才たちが堕ちる場所
消毒液とカビの臭いが混じり合った、不快な空気が鼻をつく。
薄汚れた天井の染みをぼんやりと見つめながら、聖女ルミナは重たい瞼を持ち上げた。
「……っ、痛……」
身じろぎした瞬間、全身に走る激痛に思わず呻き声を漏らす。
ここはどこだろうか。高級ホテルのようなシルクのシーツではない。ゴワゴワとした安物の布の感触。窓の外からは、下品な怒号と馬車の車輪の音が聞こえてくる。
「やっとお目覚めか、お姫様」
不機嫌極まりない声が横から飛んできた。
首だけを動かしてそちらを見ると、頭に包帯を巻き、右腕を吊った勇者レオンが、パイプ椅子に座って貧乏揺すりをしていた。その顔色は土気色で、かつての英雄的な覇気は見る影もない。
「レオン……? ここは……」
「冒険者ギルドの救護室だ。一番安い部屋だよ。俺たちの所持金じゃ、ここが限界だった」
レオンは吐き捨てるように言った。
記憶が、濁流のように押し寄せてくる。
ダンジョン『奈落の顎』での惨劇。
スコーピオンの圧倒的な暴力。
何もできずに棒立ちで震えていた自分。
そして――天井をぶち抜いて現れたアレンと、あの銀髪の魔女が見せつけた、絶望的なまでの「格差」。
「あ、あぁ……」
ルミナは頭を抱えた。悪夢ならどれほどよかったか。だが、身体の痛みとレオンの惨めな姿が、これが紛れもない現実だと告げている。
「おい、泣いてる場合かよ」
ベッドの反対側から、刺々しい声が響く。魔導士のミリアだ。彼女もまた、魔力枯渇の後遺症で顔面蒼白になりながら、壁に背を預けていた。
「状況、分かってるの? 私たち、終わったのよ」
「終わったって……どういうことよ」
「どういうことも何もないわ。あの後、通りがかった『鉄の牙』パーティに助けられたのは覚えてる? 彼らに支払う救助費用、いくらだと思う?」
ミリアは指を三本立てた。
「金貨三百枚よ」
「さ、三百!? そんなの、ぼったくりじゃない!」
「相場よ。Sランク指定区域での決死の救助活動だもの。むしろ、あのスコーピオンがアレンたちに消し飛ばされていたから、戦闘なしで回収できた分、安いくらいよ」
金貨三百枚。それは、彼らがこれまでの依頼で貯め込んでいたパーティ資金のほぼ全額に相当した。Sランク昇格を見越して、装備や豪遊で散財していたことが仇となったのだ。
「装備もボロボロ、金もない。おまけに……」
レオンが苦々しげに一枚の羊皮紙をルミナの膝元に投げつけた。
「ギルドからの呼び出し状だ。『虚偽報告および無謀な行動による被害拡大についての査問会』だとさ。今日の午後、ギルドマスターの前で弁明しなきゃならん」
「虚偽報告……?」
「俺たちが今まで『神聖殲滅光を十秒で撃てる』と公言していたことさ。あれが嘘だったと、白日の下に晒されるんだ」
ルミナの心臓が早鐘を打つ。
あの大魔法が高速で撃てることこそが、彼女の聖女としてのアイデンティティであり、このパーティが「最強」と謳われた根拠だった。それが否定されれば、どうなるか。
「そ、そんなの……アレンが勝手にやったことで、私は知らなかったって言えば……」
「通じるわけないだろ!」
レオンがバンッとサイドテーブルを叩いた。安っぽい木製テーブルが悲鳴を上げる。
「俺たちはパーティリーダーとサブリーダーだぞ!? メンバーの能力把握は義務だ! 『実はあいつのおかげでした』なんて言ってみろ、無能の烙印を押されて二度と依頼なんて回ってこないぞ!」
「じゃあどうしろって言うのよ! 私だって必死だったのよ! 詠唱が終わらなくて、怖くて、死ぬかと思って……!」
「だから! その『詠唱が終わらない』のが問題なんだよ! お前が天才だなんて嘘をつくから!」
「あんたたちだって、『アレンは邪魔だ』って言ったじゃない! 私の手を握るのが気持ち悪いって、同意したじゃない!」
狭い救護室で、罵り合いが始まった。
かつては互いを称え合い、未来の栄光を語り合った仲間たちが、今は互いの傷口を抉り合う醜い獣に成り下がっている。
「……もう、やめようぜ」
それまで沈黙を守っていた剣聖ガイルが、掠れた声で割って入った。
彼は全身打撲でミイラのように包帯を巻かれている。
「誰のせいとか、もうどうでもいい。事実は一つだ。俺たちはアレンがいなきゃ、ただの三流だってことだ」
その言葉は、全員の口を重く閉ざさせた。
三流。
認めたくない言葉だった。だが、否定できる材料が何一つなかった。
回復魔法のタイミング、バフの維持、荷物の管理、そして何より、あの必殺の魔法の発動補助。
空気のように当たり前に存在していた「アレンの仕事」が失われた途端、このパーティは機能不全に陥った。それは、高級車からエンジンを抜き取ったようなものだった。
「……行くぞ。ギルドマスターが待ってる」
レオンがふらつく足取りで立ち上がった。
ルミナもまた、震える手でシーツを握りしめ、ベッドから降りた。
プライドはずたずただった。けれど、行かなければ冒険者資格さえ剥奪されてしまう。
重い足取りで、彼らは救護室を後にした。
ギルドのメインホールは、いつもの喧騒に包まれていた。
だが、レオンたちが姿を現した瞬間、その空気は一変した。
さざ波のように静まり返り、次いで、ひそひそとした嘲笑混じりの囁きが広まっていく。
「おい見ろよ、『勇者の剣』だ」
「あんなボロボロになって……無様だな」
「聞いたか? あの聖女、ダンジョンのボス部屋で十分間も棒立ちだったらしいぞ」
「十分? マジかよ。新米の魔導士だって、もう少しマシな動きをするぜ」
「結局、追放された『魔力導管』の彼が凄かっただけって話だろ?」
視線が痛い。言葉がナイフのように突き刺さる。
かつては羨望の眼差しを向けられていた場所が、今は針のむしろだった。
ルミナは顔を伏せ、逃げるように二階の会議室へと向かった。耳を塞ぎたかった。「天才聖女」と呼ばれた私が、どうしてこんな辱めを受けなければならないのか。
会議室の扉を開けると、そこにはギルドマスターと、数名の幹部職員が厳しい表情で座っていた。
「座れ」
ギルドマスターの低い声が響く。
レオンたちは縮こまるようにして椅子に座った。
「報告は聞いている。『奈落の顎』において、階層主との戦闘で壊滅的被害を受け、他パーティに救助されたそうだな」
「……はい」
「君たちはSランク昇格試験を兼ねていた。だが、結果は不合格どころか、冒険者としての資質さえ疑わざるを得ない失態だ」
ギルドマスターは、一枚の書類を机に叩きつけた。それは、かつてアレンが提出していたパーティの運用レポートだった。
「ここには、アレン・ウォーカーによる詳細な魔力運用記録が記されている。ルミナ君の詠唱短縮は、彼独自の『魔力導管』スキルによる圧縮・譲渡によるものだと」
「そ、それは……」
「君たちは、この報告を無視したのか? それとも、理解していなかったのか?」
鋭い視線がルミナを射抜く。
彼女は唇を噛み締めた。理解していなかったのだ。アレンが夜な夜な書類を書いて提出していたことも、そこに自分の魔法のカラクリが記されていたことも。彼女にとって魔法は「感覚」で撃つものであり、理屈などどうでもよかったからだ。
「……私たちは、彼の実力を過小評価していました」
レオンが絞り出すように答えた。
「過小評価? 違うな。君たちは『寄生』していたんだよ。彼という生命維持装置にな」
ギルドマスターの言葉は容赦がなかった。
「結論を言う。パーティ『勇者の剣』は本日をもって解散を推奨する。また、全員のランクをEランクに降格とする。Sランク昇格試験の再受験資格は、三年間凍結だ」
「Eランク!? 冗談でしょう!?」
ルミナは思わず立ち上がった。
Eランクといえば、薬草採取や下水道の掃除をするような駆け出しのランクだ。つい昨日まで、国一番の英雄候補だった自分たちが、泥水をすするような生活に戻れと言うのか。
「冗談ではない。君の実力を見た救助隊からの報告だ。『戦闘中の判断力、詠唱速度、魔力制御、すべてにおいて実戦レベルに達していない』。これが現実だ、元・天才聖女君」
反論の余地はなかった。
アレンがいなければ、自分はその程度の存在なのだと、公的機関に認定された瞬間だった。
重い処分を受け、ギルドを出た頃には、空は茜色に染まっていた。
通り雨が降ったのか、石畳は濡れ、冷たい風が吹き抜けていく。
「……これから、どうする?」
ガイルが虚ろな目で呟く。
金はない。名誉もない。装備は破損し、ランクも落ちた。
パーティを維持する体力など、どこにも残っていない。
「俺は……田舎に帰るよ」
ガイルがポツリと言った。
「剣聖なんておだてられて調子に乗ってたが、俺の剣じゃスコーピオンの殻ひとつ傷つけられなかった。潮時だ」
「待ってよガイル! あんたがいなくなったら、前衛はどうするの!?」
「知るかよ。俺は死にたくねえんだ」
ガイルは背を向け、よろよろと歩き出した。
ミリアもまた、深いため息をついた。
「私も、別のパーティを探すわ。Eランクからの再出発だけど、泥舟に乗っているよりはマシだもの」
「ミリア! あんたまで!」
「ごめんね、ルミナ。でも、あなたの長い詠唱を守り切れる自信、私にはないわ」
ミリアは冷ややかな目をルミナに向け、そのまま雑踏へと消えていった。
残されたのは、レオンとルミナだけ。
二人は言葉もなく立ち尽くしていた。
「最強」の称号も、仲間も、未来も、すべて指の間から零れ落ちてしまった。
その時だった。
通りの向こう側、街一番の高級レストラン『金の獅子亭』の入り口が騒がしくなった。
煌びやかな馬車が止まり、ドアマンが恭しく頭を下げる。
そこから出てきたのは、仕立ての良い黒いコートを纏ったアレンと、純白のドレスに身を包んだ銀髪の少女――エレナだった。
「あ……」
ルミナの喉から声が漏れる。
二人は輝いていた。
物理的に魔力の光を纏っているわけではない。だが、その表情から溢れる自信と幸福感が、周囲を圧倒するオーラとなっていた。
アレンは穏やかに微笑み、エレナの手を引いてエスコートしている。その横顔は、ルミナがかつて見たこともないほど男らしく、満ち足りていた。
「嘘……なんで……」
なんであんなに幸せそうなの?
なんで私じゃないの?
私の方がずっと長く一緒にいたのに。私の方がずっと可愛いはずなのに。
どうして、あんな「ぽっと出」の女が、私の場所に立っているの?
嫉妬と未練が、どす黒い炎となってルミナの胸を焦がした。
彼女は理性を失い、ふらふらと彼らの方へ歩き出した。
「アレン……!」
人混みを掻き分け、声を上げる。
アレンが足を止め、こちらを振り返った。
その瞳と目が合う。
ルミナは期待した。かつてのように、心配そうな顔で駆け寄ってくれるのではないか。ボロボロになった私を見て、手を差し伸べてくれるのではないか。
だが、アレンの瞳にあったのは、道端の石ころを見るような無関心だけだった。
「……なんだ、まだいたのか」
「アレン、お願い! 話を聞いて! 私たち、酷い目にあったの! ランクも落とされて、お金もなくて……もう、どうしたらいいか……」
ルミナは涙ながらに訴えた。プライドなどかなぐり捨て、媚びるような上目遣いで彼に縋った。
「私が悪かったわ。謝る。だから戻ってきて。ね? 私の『魔力導管』になってよ。アレンがいなきゃ、私、魔法が撃てないの。あなたが必要なの!」
それは、彼女なりの最大限の譲歩であり、愛の告白に近いものだった。
これで心が動かない男なんていないはずだ。
しかし、アレンの隣にいたエレナが、くすりと笑った。
「『あなたが必要』? よく言うわね。散々『気持ち悪い』って切り捨てたくせに」
「なっ……あんた部外者は黙ってて!」
「部外者じゃないわ。私はアレンのパートナーだもの」
エレナはアレンの腕をぎゅっと抱きしめ、見せつけるようにルミナを見下ろした。
圧倒的な「勝者」の余裕。
そしてアレンは、冷たく告げた。
「悪いが、人違いだろ」
「え……?」
「俺が知っている聖女ルミナは、天才で、高潔で、俺みたいな無能力者の助けなんて必要としない立派な人間だったはずだ。お前みたいな、惨めに命乞いをする女じゃない」
それは、強烈な皮肉だった。
かつてルミナ自身が彼に浴びせた言葉を、そのまま返されたのだ。
「それに、俺は今、忙しいんだ。エレナとの食事が待っているし、明日は新しいダンジョンの攻略依頼が入っている。Eランクのお友達と傷を舐め合ってる暇はない」
「そ、そんな言い方……! 私たち、仲間だったじゃない!」
「『だった』な。過去形だ。手切れ金なら受け取ったし、装備も置いてきた。精算は済んでいる」
アレンはドアマンに目配せをした。
屈強なドアマンたちが、ルミナと、遅れて駆け寄ってきたレオンの前に立ちはだかる。
「お客様、困ります。当店はドレスコードがございますので。そのような薄汚れた格好での立ち入りはご遠慮願います」
「触るな! 俺は勇者レオンだぞ!」
「元、だろ?」
アレンの最後の一言が、トドメだった。
彼はもう、ルミナたちに一瞥もくれず、エレナと共に光溢れるレストランの中へと消えていった。
ガラス扉が閉まり、楽しげな笑い声と、温かな料理の香りが遮断される。
残されたのは、冷たい夜風と、好奇の目でこちらを見る通行人たちだけ。
「……あ、あぁ……」
ルミナはその場に崩れ落ちた。
石畳の冷たさが、膝を通じて全身に広がる。
終わった。本当に、何もかも。
あの輝かしい場所に戻るチャンスは、今、完全に閉ざされたのだ。
「くそっ! くそっ! なんでだよ!」
レオンが石畳を殴りつける。拳から血が滲むが、痛みなど感じないようだった。
ルミナは呆然と、閉ざされた扉を見つめ続けた。
ガラスの向こうで、アレンがエレナに向けて優しく微笑んでいるのが見えた。
その笑顔は、かつてルミナだけに向けられていたもの。
いや、ルミナが気付きもしなかっただけで、彼はいつもそうやって笑いかけてくれていたのかもしれない。
それを踏みにじり、唾を吐きかけたのは、紛れもない自分自身だ。
「……私が、捨てたんだ」
ポツリと漏れた言葉は、誰にも届くことなく雨音に消えた。
アレンは正しかった。
アレンが私に寄生していたのではない。私がアレンに生かされていたのだ。
そんな単純なことに気付くのに、全てを失う必要があったとは。
「寒い……」
ルミナは自身の肩を抱いた。
かつてはアレンがすぐにローブを掛けてくれた。
手を握って温めてくれた。
でも、もう誰もいない。
彼女は震える体で、冷たい雨に打たれ続けた。
レストランの中からは、新しい英雄たちの誕生を祝う乾杯の声が聞こえてくる。
外の暗闇でうずくまる敗残者たちのことなど、世界の誰も気にかけてはいなかった。
それが、彼らがアレンに与えた「追放」という行為の、まぎれもない報いだったのだ。




