第4話 答え合わせの時間
「――終わりだ」
ルミナが死を覚悟し、瞼の裏に絶望的な闇を描いたその瞬間だった。
彼女の鼓膜を震わせたのは、自身の骨が砕ける音でも、肉が裂ける音でもなかった。
ドオォォォォォォンッ!!
世界がひっくり返るような轟音。
同時に、頭上から強烈な突風と衝撃波が叩きつけられた。
ルミナは吹き飛ばされそうになる体を必死に地面に張り付かせ、恐る恐る目を開けた。
「な、なに……?」
視界に飛び込んできたのは、信じがたい光景だった。
ダンジョンの頑強な天井が、まるで紙細工のように円形にくり抜かれ、そこから眩い陽光が差し込んでいたのだ。
そして、その光の柱の中を、二つの影がゆっくりと舞い降りてくる。
瓦礫の下敷きになったスコーピオンが、苦悶の声を上げて藻掻いている。あれほど硬かった外殻が、天井の崩落ごときでヒビ割れているのだ。いや、違う。崩落そのものに、とてつもない魔力が込められていたのだ。
「う、嘘だろ……?」
壁際で血を吐きながら蹲っていたレオンが、信じられないものを見る目で空を見上げていた。
逆光で顔は見えない。だが、そのシルエットには見覚えがあった。
特に、あのみすぼらしいローブではなく、洗練された漆黒の外套を纏った男の姿には。
「やれやれ、相変わらず騒がしい連中だな」
聞き覚えのある、呆れたような声。
光の中に降り立ったのは、かつてパーティのお荷物として追放した男、アレンだった。
そしてその隣には、見たこともない銀髪の美少女が寄り添っている。彼女の周囲には、視認できるほどの濃密な魔力が揺らめき、まるで大気そのものを支配しているかのようだった。
「ア、アレン……!? なぜここに!?」
レオンが叫ぶ。その声には、助かったという安堵よりも、理解不能な事態への恐怖が滲んでいた。
アレンは無表情でレオンを一瞥し、それから瓦礫を弾き飛ばして起き上がろうとしているスコーピオンに視線を移した。
「別に助けに来たわけじゃない。上を歩いてたら、地面が薄くて踏み抜いちまったんだよ。まさかお前らが、こんなところで泥遊びをしてるとは思わなかったがな」
「踏み抜いた……だと……?」
レオンは絶句した。
ここは地下五階層だ。地上からは数百メートルの岩盤があるはずだ。それを「踏み抜いた」などと、冗談にしても笑えない。
「アレンっ!?」
ルミナが悲鳴のような声を上げた。彼女はまだ、中途半端に練り上げた魔力を抱え込み、身動きが取れないままだ。
アレンの姿を見た瞬間、彼女の心に希望の光が差した。
(帰ってきてくれたのね! やっぱり、私がいなきゃ駄目だと気付いて!)
彼女は身勝手な解釈で顔を輝かせた。
アレンがいるなら、もう大丈夫だ。彼の手を握れば、この暴発寸前の魔力もすぐに制御され、あの憎き魔物にトドメを刺せる。
「アレン! 早くこっちに来て! 私の手を握って! もう限界なの、早くしないと魔法が暴発しちゃう!」
ルミナは必死に右手を差し出した。
かつて、彼がいつも遠慮がちに、けれど力強く握っていたその手を。
当然、彼はすぐに駆け寄ってくるはずだ。そして「遅れてすまない」と謝罪し、私の魔力を受け止めるに決まっている。
だが、アレンは動かなかった。
冷ややかな瞳で、差し出された手をただ見つめているだけだ。
「……何をしているの? 聞こえないの!? 私が命令しているのよ!」
「ああ、聞こえてるよ。相変わらず耳障りな金切り声だな」
アレンは淡々と言い放った。
「だが、断る。俺はお前たちの道具じゃない。それに、他人と馴れ合うのは『不潔』なんだろ? 手汗がどうとか言ってたじゃないか」
「そ、それは……! 今は緊急事態でしょ!?」
「知ったことか。自力で何とかしろよ、天才聖女様」
突き放された言葉に、ルミナは愕然とした。
アレンの目が、以前とは違う。
かつての彼は、どこか自信なさげで、常にパーティの顔色を伺っていた。だが今の彼は、背筋が伸び、全身から自信と余裕が溢れている。まるで、別人のようだ。
「ギシャアアアアッ!」
スコーピオンが完全に瓦礫から抜け出し、怒り狂って咆哮した。その敵意は、天井を突き破った不届き者たち、すなわちアレンと銀髪の少女に向けられている。
巨大な尾がしなり、毒針が弾丸のような速度で射出された。
「危ない!」
ミリアが叫ぶ。
だが、アレンは微動だにしなかった。避ける素振りさえ見せない。
代わりに、隣にいた少女が一歩前に出た。
「アレンに指一本触れさせないって、言ったでしょ?」
少女――エレナが小さく指を振るう。
それだけで、空中に透明な障壁が出現した。
ガギィン! という金属音が響き、スコーピオンの毒針が弾かれ、粉々に砕け散った。
「なっ……!?」
レオンとガイルが目を剥く。
あの毒針は、ミスリルの盾さえ貫通する威力だ。それを、詠唱もなしに、指先一つで防いだというのか。
「ねえアレン、あいつがボス? なんか弱そうだけど」
「ああ、この階層の主だ。まあ、俺たちにとっては雑魚だが、今のあいつらにとっては死神らしい」
「ふーん。じゃあ、さっさと片付けちゃっていい?」
「構わないが……せっかくだ。面白いものを見せてやろう」
アレンは意地悪な笑みを浮かべ、ルミナの方を指差した。
「あそこで顔を真っ赤にしてる聖女様、今必死に『神聖殲滅光』を撃とうとしてるんだ。エレナ、お前も同じのを撃ってみろ」
「ええ? あんな効率の悪い魔法? 古臭い術式だし、燃費も悪いじゃない」
「まあそう言うな。格の違いを教えてやるのも、元仲間の情けってやつだ」
エレナは肩をすくめ、仕方なさそうに頷いた。
「分かったわ。アレンがそう言うなら」
彼女はスコーピオンに向き直ると、アレンの方へ右手を差し出した。
アレンは何の躊躇もなく、自然な動作でその手を握りしめる。
指と指が絡み合い、掌が密着する。二人の間には、言葉以上の信頼関係が見て取れた。
それを見たルミナの胸に、激しい嫉妬と屈辱が渦巻いた。
私の場所だ。
そこは、私がいるべき場所なのに。
どうしてあの泥棒猫が、私の特等席にいるの!?
「接続。回路開通」
アレンの声が響く。低く、落ち着いた声。
それはかつて、ルミナの耳元で毎日のように囁かれていた確認の言葉。
だが、その後に続く魔力の奔流は、ルミナの知るそれとは次元が違っていた。
ゴゴゴゴゴ……ッ!!
空間が歪む。
エレナの体から溢れ出した魔力が、アレンの腕を通じて凄まじい速度で圧縮され、精錬されていく。
ルミナが脂汗を流して数分かけても練り上げられなかった魔力量を、彼らは一呼吸で、それも数倍の密度で構築していく。
「術式構築。神聖属性付与。収束率、最大」
アレンが淡々とパラメーターを調整する。
エレナは楽しそうに笑っている。負担など微塵も感じさせない。
「いくよ、アレン!」
「ああ、合わせろ!」
二人の声が重なった。
その間、わずか一秒。
「『神聖殲滅光』――フルバースト!」
エレナの指先から、光の洪流が放たれた。
それはルミナが放つものとは比較にならなかった。
ただの光線ではない。奔流だ。光の津波だ。
視界の全てが白一色に染まり、音さえも消失したかのような静寂が訪れる。
スコーピオンは悲鳴を上げる間もなかった。
外殻も、肉も、毒も、すべてが分子レベルで分解され、光の中に溶けて消えた。
そして光は止まらない。
ボス部屋の奥の壁を貫通し、さらにその先の岩盤をも溶かし、地平線の彼方まで突き抜けていった。
数秒後。
光が収束し、再び薄暗いダンジョンの景色が戻ってきたとき。
そこには、何もなかった。
魔物も、壁も、床の一部さえも消滅し、ただ巨大な円筒形の穴がどこまでも続いていた。
「……やりすぎだ」
アレンが苦笑しながら言った。
エレナは「えへへ」と舌を出して笑う。
「だって、アレンの制御が気持ちいいんだもん。つい出しちゃった」
「次は手加減しろよ。ダンジョンごと崩壊させる気か」
二人はまるでピクニックの後のように軽口を叩き合っている。
その背後で、勇者パーティの面々は、魂が抜けたように立ち尽くしていた。
「……あ、あ……」
ルミナは腰が抜けて動けなかった。
彼女の杖の先でくすぶっていた未完成の魔力は、先ほどの圧倒的な光に当てられて霧散してしまっていた。
比較にならない。
自分が「天才」だと自惚れていた力が、蟻の涙のように思えるほどの、絶対的な力の差。
「おいおい、口を開けて呆けてる場合か?」
アレンが冷ややかな視線を向けてくる。
ルミナはハッとして顔を上げた。
「ど、どうして……どうしてあんな……」
「どうしてあんなに速く撃てるのか、か?」
アレンはルミナの疑問を先読みして答えた。
「簡単な話だ。俺が『導管』として最適化したからだ。お前のその魔法、本来の詠唱時間は十分かかると教えただろ?」
「じゅ、十分……」
「そうだ。大聖堂の儀式魔法を、俺が無理やり圧縮して十秒に縮めてやっていた。俺が血反吐を吐く思いで回路を繋いでいたから、お前は天才気取りでいられたんだ」
アレンは一歩、ルミナに近づいた。
「それを『自分の才能』だと勘違いして、俺を追放した結果がこれだ。十分間、棒立ちで的になる気分はどうだった? 最高のショーだったぜ」
ルミナの顔色が蒼白になる。
全部、アレンのおかげだった。
私が凄かったんじゃない。アレンが凄かったんだ。
それを理解した瞬間、過去の自分の言動が、鋭利な刃物となって心に突き刺さった。
「ま、待てアレン!」
レオンが這いつくばりながら声を上げた。プライドなど、もう欠片も残っていない。
「悪かった! 俺たちが間違っていた! 謝る! 謝るから戻ってきてくれ!」
「は?」
「見たろ!? 俺たちはボロボロだ! だがお前がいれば、また最強になれる! 報酬もやる! なんならリーダーの座もお前に譲ってもいい! だから……!」
レオンは必死だった。アレンの力を目の当たりにして、彼を逃せば自分たちの未来がないことを悟ったのだ。
ガイルもミリアも、縋るような目でアレンを見ている。
アレンは彼らを見下ろし、小さくため息をついた。
かつては、この連中に認められたいと願っていた。仲間にふさわしい男になりたいと努力していた。
だが今、目の前にいるのは、ただの浅ましく無力な子供たちだ。
彼らに対する執着は、完全に消え失せていた。
「断る」
短く、拒絶の言葉を告げる。
「俺にはもう、最高のパートナーがいるんでね」
アレンは隣のエレナの肩を抱いた。
エレナは嬉しそうにアレンの腕に擦り寄る。
「こいつの魔力は、お前なんかとは比べ物にならない。俺の制御技術をフルに活かせるのは、世界でこいつだけだ。お前らごときと遊んでいる暇はないんだよ」
「そ、そんな……アレン、お願い! 私の手を握ってよ! 私を見てよ!」
ルミナが泣き叫びながら手を伸ばす。
だが、その手は空を切るだけだ。
「さようなら、聖女様。せいぜい、安全な場所で十分間の長ーい詠唱でも練習してな」
アレンは踵を返した。
エレナが浮遊魔法を発動させ、二人の体がふわりと宙に浮く。
彼らは天井に開けた穴へと上昇していく。
「待って! 置いていかないで! ここからどうやって帰ればいいの!?」
「回復薬もないんだ! 死んでしまう!」
レオンたちの悲痛な叫びが木霊する。
だが、アレンは一度も振り返らなかった。
彼らは自業自得だ。自分たちの足で登ってくるか、あるいは運よく通りがかった他の冒険者に助けられるか。どちらにせよ、アレンの知ったことではない。
光の中に消えていく二人を見上げながら、ルミナは地面に突っ伏して慟哭した。
失ったものの大きさに、ようやく気付いたのだ。
だが、すべてはもう遅い。
彼女の手のひらに残ったのは、冷たいダンジョンの土と、拭いきれない絶望だけだった。
「……ねえアレン、あいつら本当に置いてってよかったの?」
地上に出たエレナが、心配そうに、けれど少し悪戯っぽく尋ねた。
青空が広がっている。ダンジョンの淀んだ空気とは違う、清々しい風が吹いていた。
「ああ。あいつらはSランク(自称)だろ? 自力で何とかするさ」
「ふふっ、アレンってば結構意地悪」
「お前には言われたくないな。ダンジョンの底まで穴を開けたのは誰だ?」
二人は顔を見合わせて笑った。
アレンの心は晴れやかだった。
過去との決別は終わった。
これからは、この規格外の魔女と共に、誰も見たことのない高みへと登っていくのだ。
「さて、行こうかエレナ。まずは街で美味い飯でも食おう。金なら、あのダンジョンの素材を売れば山ほど手に入る」
「やった! 私、特大ステーキが食べたい!」
「よし、一番高い店に行こう」
二人は並んで歩き出した。
その背中は、希望と未来に満ち溢れていた。
地底で泣き叫ぶかつての仲間たちの声は、もう彼らの耳には届かない。
それが、残酷なまでの「格差」という現実だった。




