第3話 10分間の地獄
「ねえ、気づいた? 空気が美味しいと思わない?」
ダンジョンの薄暗い回廊に、場違いなほど明るい声が響く。声の主は、純白の法衣を身にまとった聖女ルミナだ。彼女は手にした杖を指揮棒のように振るいながら、上機嫌で歩いていた。
「アレンがいなくなってから、なんだかパーティ全体の空気が軽くなった気がするのよね。なんていうか、陰気臭い淀みが消えたっていうか」
その言葉に、先頭を歩く勇者レオンが肩をすくめて同意する。
「違いない。あいつは常に俺の後ろで怯えていたからな。その貧乏性が伝染しそうで不快だった。Sランクを目指す我々『勇者の剣』に、あのような異物は相応しくない」
「まったくだぜ。報酬の分配も増えるし、万々歳だな」
大剣を担いだ剣聖ガイルが、下卑た笑みを浮かべた。魔導士のミリアも、無言ながらも同意するように頷いている。
彼らが現在挑んでいるのは、王都近郊に存在する高難度ダンジョン『奈落の顎』の最深部手前。Sランク昇格試験の会場としても知られるこの場所は、出現する魔物の質も量も地上とは桁違いだ。
だが、彼らの表情に緊張感はない。
先日、階層主であるヒュドラを「10秒」で葬り去ったという実績が、彼らの自信を過信へと変貌させていた。
「さあ、着いたわよ。ここを抜ければ、ボス部屋ね」
ルミナが指さした先には、禍々しい装飾が施された巨大な扉がそびえ立っていた。
扉の隙間からは、凍てつくような冷気と、肌を刺すような殺気が漏れ出している。
「作戦はいつも通りだ」
レオンが剣を抜き放ち、黄金のオーラを全身に纏わせる。
「俺とガイルが前衛で敵を引きつける。ミリアは中衛で牽制と防御結界の維持。そしてルミナ、お前が開幕と同時に最大火力を叩き込む。あのアレンとかいうお荷物がいなくなった分、連携もスムーズにいくはずだ」
「ええ、任せて。あんな寄生虫がいなくても、私の聖なる光は陰りを見せないわ。むしろ、私の手をベタベタ触る邪魔者がいない分、集中力が増して威力も上がるかもね」
ルミナは自信満々に胸を張った。
彼女の脳内には、すでに勝利のビジョンが出来上がっている。
扉を開ける。
ボスが咆哮する。
自分が杖を掲げる。
10秒後、ボスの体は光に包まれて消滅する。
そして自分たちは英雄として凱旋し、美味しいワインで祝杯をあげるのだ。
「行くぞ!」
レオンの掛け声と共に、重厚な扉が押し開かれた。
広大なドーム状の空間。
その中央に鎮座していたのは、全身が黒曜石のような光沢を持つ外骨格で覆われた、巨大な多脚戦車のような魔物――『変異種:ヴォイド・スコーピオン』だった。
通常の個体よりも遥かに巨大で、その尾の先には紫色の毒霧を噴出する針がついている。さらに厄介なことに、この魔物は物理攻撃に対する耐性が極めて高く、強力な魔法攻撃でなければ外殻を貫通できない。
「ギシャアアアアアアアッ!!」
鼓膜をつんざくような咆哮が空間を震わせる。
それと同時に、レオンとガイルが左右に展開し、猛スピードで突っ込んだ。
「ハッ、図体だけの木偶の坊が! 俺の聖剣で時間を稼ぐ、ルミナ、始めろ!」
「了解! ……おお、光の女神よ。深淵を照らす断罪の刃を、我が手に委ねたまえ……!」
ルミナは杖を高く掲げ、詠唱を開始した。
彼女が使うのは『神聖殲滅光』。
このダンジョンのボスを一撃で葬り去るには、これ以外の選択肢はない。
「……」
レオンがスコーピオンの巨大なハサミを受け止める。
ガイルが大剣で脚を薙ぎ払おうとするが、硬い甲殻に阻まれて火花が散る。
「硬ってぇな! おいルミナ、とっとと撃ってくれよ! 10秒だろ!?」
「分かってるわよ! ……汝は浄化の灯火、穢れを焼き払う……」
ルミナは順調に言葉を紡いでいた。
魔力の高まりを感じる。体内にある魔力タンクから、膨大なエネルギーが溢れ出し、術式へと変換されていく感覚。
いつも通りだ。何も問題はない。アレンがいなくても、私はこんなにスムーズに魔法を構築できている。
(ほら見なさい。あいつなんて、やっぱり必要なかったのよ)
心の中でほくそ笑む。
そろそろだ。あと数秒で、杖の先から極光が放たれるはずだ。
いち、に、さん……。
心の中でカウントする。
10秒が経過した。
「……え?」
何も起きない。
閃光も、衝撃波も、熱も発生しない。
ただ、杖の先で小さな光の粒がパチパチと頼りなく明滅しているだけだ。
「おい、どうしたルミナ! もう10秒過ぎたぞ!」
レオンの焦った声が聞こえる。
ルミナは動揺した。なぜ? 手順は完璧だったはずだ。いつもと同じように魔力を込め、いつもと同じ文言を唱えた。
「ま、待って……魔力の収束が……」
異変に気づいたのはその直後だった。
重い。
とてつもなく、体が重い。
体内から引き出した魔力が、思うように動かないのだ。まるで泥沼の中を歩いているかのように、術式の構築が遅々として進まない。
(な、なにこれ……!? 魔力が、固まらない!?)
いつもなら、アレンの手を握った瞬間に、魔力は清流のようにサラサラと流れ、勝手に圧縮され、最適な形へと整えられていた。
ルミナは知らなかったのだ。
自分が蛇口を全開にするだけで水が勢いよく出ていたのは、アレンというポンプが裏で必死に圧力をかけていたからだということを。
「……我は乞う、天上の裁きを……! くっ、魔力回路、接続……!」
ルミナの額に脂汗が滲む。
詠唱が進まない。今まで無意識にスキップしていた工程が、目前に立ちはだかる壁となって押し寄せてくる。
魔力の濾過、不純物の排除、属性の変換、圧縮、照準の固定。
これら全てを、詠唱しながら自分一人で脳内処理しなければならない。
「ルミナッ! 何を遊んでいる!」
スコーピオンの尾がレオンの盾を弾き飛ばした。レオンが地面を転がる。
「遊んでなんかないわよ! 詠唱が終わらないの! 魔力が……魔力が重すぎて……!」
「はあ!? お前、天才なんだろ!? いつもみたいにドカンとやれよ!」
「やってるわよ! でも、出ないのよおおおっ!」
ルミナは半泣きになりがら叫んだ。
30秒が経過した。
状況は悪化の一途を辿っている。
ボスの猛攻に対し、決定打を持たない前衛二人は防戦一方だ。
「くそっ、ミリア! 援護しろ!」
「やってるわよ! でも私の魔法じゃ、あの殻に傷一つつかない!」
ミリアが放った火球が、スコーピオンの装甲に当たって虚しく弾ける。
ルミナは焦りで呼吸が浅くなっていた。
(どうして……? どうしてこんなに時間がかかるの?)
彼女の脳裏に、かつての光景がフラッシュバックする。
戦闘中、常に自分の手を握りしめていたアレンの姿。
彼の手はいつも熱く、小刻みに震えていた。
ルミナはそれを「手汗が気持ち悪い」「緊張して震えてる臆病者」と侮蔑していた。
だが、今なら分かる。
あの熱は、魔力変換によるオーバーヒート。
あの震えは、許容量を超える魔力を制御するための極限の集中。
「まさか……あいつ、本当に……?」
1分が経過。
ルミナの杖には、まだソフトボール大の光しか集まっていない。
『神聖殲滅光』を発動させるには、この百倍の密度が必要だ。
(嘘でしょ……? アレンが言っていた『10分かかる』って、本当だったの……?)
悪寒が背筋を駆け上がる。
10分。
安全な大聖堂での儀式ならいざ知らず、Sランク魔物が暴れ回る戦場のど真ん中で、10分間も無防備に棒立ちする?
それは自殺行為だ。
いや、それ以前に、魔法使いとしての集中力が持たない。
「ギャッ!」
悲鳴が上がり、ガイルが吹き飛ばされた。壁に叩きつけられ、大剣を取り落とす。
右腕が不自然な方向に曲がっている。
「ガイル!」
「ぐ、うぅ……回復……ルミナ、ヒールだ! 早く!」
「無理よ! 今、詠唱を中断したら、集めた魔力が暴発する!」
大魔法の詠唱中は、他の魔法を使えない。ましてや移動もできない。
今のルミナは、ただの光る案山子だ。
アレンがいた頃は、彼が魔力の一部を割いて、詠唱中のルミナの代わりに簡易ヒールやバフを撒いていた。それもまた、「アレンの仕事」だったのだ。
「ふざけるな! じゃあ俺たちは、お前の詠唱が終わるまで、回復なしで耐えろって言うのか!?」
「あとどれくらいだ!?」
「わ、分からない……! まだ一割も溜まってない……!」
「一割だとぉ!?」
レオンが絶望的な声を上げる。
まだ一割。
つまり、単純計算であと9分近くかかるということだ。
スコーピオンが、動かないルミナに狙いを定めた。
紫色の複眼が、ギラリと光る。
「ひっ……!」
ルミナの喉から情けない音が漏れる。
怖い。死ぬ。
アレンの手の温もりが恋しかった。あの手が繋がっていれば、こんな恐怖を感じる前に、敵は消し飛んでいたのに。
どうして私は、彼を追い出した?
どうして「気持ち悪い」なんて言った?
「レオン! 守って! こっちに来る!」
「馬鹿野郎、こっちも手一杯なんだよ! お前がさっさと撃たないからだろ!」
レオンは盾を構え直すが、その足は震えている。
ポーションのストックは既に尽きかけていた。普段ならアレンが荷物持ちとして大量の予備を管理し、絶妙なタイミングで投げて寄越してくれていたが、今は誰もそんな余裕はない。
3分経過。
永遠のような時間が流れる。
ルミナの精神は限界に近づいていた。
複雑な呪文の構成を維持するだけで、脳が焼き切れそうだ。鼻血が垂れて、白い法衣を汚していく。
優雅で美しい聖女の姿は、そこにはなかった。
髪は振り乱れ、顔は恐怖と疲労で歪み、目は血走っている。
「……汝は……聖なる……契約に……基づき……」
詠唱の声が掠れる。
その時、スコーピオンが巨大なハサミを振り下ろした。
レオンが辛うじて受け止めるが、衝撃で盾がひしゃげる。
「ぐあああああっ!」
レオンが悲鳴を上げて膝をつく。
「レオン!」
「くそっ、足が……! おいルミナ、もういい! 詠唱中止だ! 逃げるぞ!」
「で、できない! 今止めたら、私が死ぬ!」
中途半端に練り上げられた高密度の魔力は、体内で暴走寸前だった。
今ここで制御を手放せば、ルミナ自身の体が内側から破裂する。
撃つこともできず、止めることもできず、逃げることもできない。
まさに詰みだった。
5分経過。
ガイルは気絶し、ミリアは魔力切れで座り込んでいる。
レオンは満身創痍で、折れた剣を構えてスコーピオンの前に立ち塞がっているが、その命の灯火は風前の灯だ。
ルミナは涙を流しながら、ただ機械的に呪文を唱え続けていた。
後悔の念が、黒いタールのように心を満たしていく。
(アレン……ごめんなさい……戻ってきて……)
彼がいなければ、自分は何もできない無能なのだと、骨の髄まで理解させられた。
天才聖女? 女神の愛し子?
違う。私はただ、優秀な「外部装置」に依存していただけの、空っぽの器だった。
「キシャアッ!」
スコーピオンが、邪魔なレオンを尾の一撃で弾き飛ばした。
レオンはボールのように転がり、壁に激突して動かなくなる。
障害物はなくなった。
魔物はゆっくりと、ルミナの方へと向き直る。
その距離、わずか10メートル。
「あ、あ、あ……」
詠唱が止まる。
恐怖で舌が回らない。
魔力が逆流し、口から鮮血が噴き出す。
「ごほっ、うぇっ……」
血にまみれた視界の先で、スコーピオンがトドメの針を振り上げた。
死ぬ。
ここで死ぬ。
こんな暗いダンジョンの底で、誰にも看取られず、無様な姿を晒して。
「いやぁ……! 誰か、助けて……!」
プライドも名誉もかなぐり捨てて、ルミナは泣き叫んだ。
だが、誰も助けには来ない。
自分が切り捨てた唯一の救世主は、もうここにはいないのだから。
スコーピオンの針が、残酷なまでの速度でルミナの眉間へと突き出される。
彼女は反射的に目を閉じた。




