【6】人はそれを何と呼ぶ。
生きるだけでは足りない、何か。
知ってしまったが最後だった。
息を吸って、命を喰らって、寝て、起きる。
その繰り返しの中で生きてきた。
それで十分だったのに。
知ってしまったのだ。
私を呼ぶ、幼い声を。
―――「クリスー、足がしびれたのだけれど、そろそろ退いてくれは・・・・・・はい、しないんですね。ごめんなさい。僕が悪かったから牙で太ももを甘噛みしないで?」
私に触れる、高い体温を。
―――「クリスの毛、ふわふわー。なんでこんなに柔らかいのかな。ん? 何? この前足は。・・・・・・ええと、『もっと撫でれ』ということかな、クリス」
私に降り注ぐ、眩しい思いを。
―――(本当は、塔の外にいた方がクリスは幸せなのかもしれない。ごめんね、クリスティーナ。・・・・・・君無しで、どうやって生きていたのかな。もう忘れてしまったよ)
高く澄んだ声が精悍な低い声に変わっても、
幼く高い体温が落ち着いた暖かさに変わっても、
与えられる思いは、熱く輝かしいままだった。
失うだなんて、考えられなかった。
焦がれて求めて前足を伸ばした。
急げ、急げと、それは私を急き立てる。
到底抗うことの出来ない飢餓感が、そこにはあった。
***
「我らが狩人ヨハンナとその命の恩人方に乾杯!」
村長の音頭を合図に、素焼きのコップがあちらこちらで打ち合わせられる。
「乾杯!」
「よくぞ来られた薬師方っ」
「ありがとう! モニカ殿!」
次々とテーブルを訪れ乾杯を求める村人達に、モニカは慣れた様子で杯を掲げてみせた。
今宵、ハイデンベルグ村で最も大きい酒場では大宴会が開かれていた。村の狩人ヨハンナの命を救った旅人達をもてなすため、と招かれたモニカ達だった。
大きめの杯をグイと飲み干したバルトロは、灰色の瞳を細めてどんちゃん騒ぎを見渡した。
「何時の時代も、酔っぱらい共ってのは変わらねぇもんだな。そんなに美味いのか」
飲んでいた炭酸水を吹きだしそうになったのはモニカだ。
「バ、バルトロっ。いくら見た目を変えても、アルコールを魔術で分解できても、私達はまだお酒を飲んで良い年齢じゃ・・・・・・あれ、魔獣の成人っていつから?」
二人とも、こういう場所にやけに馴染んでいるね、とアルクィンは灰色の瞳を瞬かせる。
「バルトロは『脱走女王』の第二王女と、モニカはお祭り騒ぎ大好きの銀狼騎士団と一緒にいることが多いから、当たり前と言えば当たり前なのかな」
まあ、皆様、楽しそうね、と物珍しげに呟いて、エルティナは卓上のチーズに手を伸ばした。
「ミノタウロス叔父様のチーズに味が似ていますわ。美味しい」
子犬姿のリーナスが、僕もー、と鼻先を突き出す。その口元に骨付き羊肉を差し出せば、小さくとも凶暴な牙ががぶりと噛みついた。
今の彼らは、旅の薬師一家とその護衛、という設定であった。
この世界において薬師が旅をすることは珍しくない。なぜなら、薬効の強い素材はその殆どが、魔の森との境界付近でしか採取できないものであるためだ。真偽の程は定かではないが、魔力の発生源である樹木が覆い茂る魔の森が影響しているという説もある。質の良い薬材を求めて、一流の薬師と呼ばれる人物ほど、魔の森との境である『天壁』を目指し旅をする。薬師は、人々の病を癒し、健康を保持する存在として、旅の途中で寄った村々で歓待を受けるのが常であった。
ハイデンベルグもまた、薬師を歓迎し、その教えと恩恵を希う伝統を持つ村だ。魔の森に最も近い村に住まう彼らは、これまで数多の薬師を迎え入れ、その旅の疲れを労ってきた。薬師一家『マレット』もまた喜ばしき客人として、また、命の恩人として、村に歓迎されているようであった。
薬師一家を装ってはどうか、というエルティナの提案は正解であったらしい。薬草マニアの第二王子と盟約を結んでいるエルティナは、薬学にも造詣が深い。第二王子の薬材採集と研究に付き合っている彼女は、薬師と名乗るに相応しい知識と経験を有しており、この時代において一流と呼ばれる薬師ですら知らない、数千年先の研究結果まで知っていた。
安堵の溜息を押し殺して、モニカは新緑の瞳を細めた。
(ちょっとした予想外もあったけど、ここまでは何とか予定通り。・・・・・・でも、王都までは、まだ遠いなぁ)
彼らが目指すのは、王都だ。
人類の知恵の都。そこならば、とモニカは杯を強く握った。
(王宮の書庫にならば、何らかの資料があるかもしれない。異世界召喚を偶然とはいえ成功させてしまったのだから、時間移動の術式が開発されていても不思議ではないもの)
人の地を旅するために、姿を人に変え、目立つからと色まで変えた。
珍しい黒目黒髪であるモニカは勿論、銀の魔王を連想させる弟妹達も、灰色の瞳に焦げ茶の髪へと変化させた。
御母様譲りの銀の毛並みに蒼の瞳。その色合いは彼らの誇りだ。それを一時的にとはいえ奪うことにモニカは躊躇いを覚えた、しかし、当の本人達は至って呑気だった。
「まあ、バルトロ、口ひげだけ銀色でしてよ。それでは、おじいさんみたいだわ」
「口ひげを染めたら、顔全体が真っ茶色になりそうで怖えぇんだよ。エルティナ、悪りぃけど、染料を塗ってくれ」
「瞳を灰色にする硝子の板か。良く思い付いたね、モニカ姉さん」
楽しげな彼らに、モニカは思わず人間の姿のまま、唸り声を上げる。
「緊張感がないなー」
そんな姉に、弟妹達は灰色の瞳を輝かせて笑った。
「だって、俺達だけで旅行って初めてじゃねぇか」
「こういうのを、かぞく旅行っていうんだって、僕の盟約者が言ってたよっ」
「おやつに、残った銀龍の骨とか持って行ってもいいかな、モニカ姉さん」
「一度、寄ってみたい湯治所があるの。だめ? モニカお姉様」
***
(まあ、そうだね)
村人達の輪に混じり、歌い踊り飲んで食べて、弟妹達は心底歓待の宴を楽しんでいるようであった。
一見ただの楽天家にしか見えない彼らの方が、私よりも余程、先が見えているのかも知れない。
(楽しんだ者勝ちって言うものね)
モニカは勢いよく杯を飲み干して、飲めや歌えのどんちゃん騒ぎに飛び込んだ。