第9話 凸
「はい、お前ら。横穴の部屋の手前まで来たよー」
広い通路の出口のほうから、三上さんの生の声がした。
数秒遅れて、片耳のイヤホンで聞く三上さんの配信からも同じ声がする。
声がふたつに分かれて聞こえるほど、三上さんは近くにいる。
土曜の昼、立川ダンジョンの6層。僕は暗い脇道に入ってすぐの所にしゃがんで、息を殺している。
右手にはもう手袋をはめ、左手には、撒けばモンスターの足を乱す撒き菱をひとつかみ握っている。
予告で笑っていた新人の子を連れてくるなら、コボルトが出るいちばん浅いこの層だろう。そう読んで、予告の時刻より早く潜っていた。
行き先は通路のいちばん奥、壁に開いた横穴の部屋だと、あとで三上さんが配信で言った。
新人の子は行きも帰りも、その手前のこの脇道の前を通る。
三上さんが撮るのは横穴より手前のどこかで、この脇道は光る石が少なく、奥まで暗い。
三上さんに顔を見られたら、終わる。
『層言わないの珍しくね』
『音なくね?』
『画面くらすぎ』
『黒手袋まだ?』
僕の配信が暗くて静かなのは、全部わざとだ。
今日は配信する日で、ピエロとの取り引きに休みはない。
足音が近づいてきて、脇道の手前で止まった。
「お、ここ映えんじゃん。ここで撮ろ」
そこは光る石が壁にびっしり固まった、通路でいちばん明るい所だ。撮るなら、たしかにそこだ。
三上さんがドローンを自分の正面に浮かべ、光の真ん中に立つ。脇道の陰にしゃがむ僕からも、その姿がよく見えた。
あれだけまぶしい所から見れば、この脇道の奥はただの黒だ。
「てかさ、ヘラルド来てなくね?」
「あっちの配信、層も言わねーし、画面まっくらだし。お前ら、これ逃げたっしょ」
腕の画面を見て、三上さんは笑った。
僕も暗がりで、自分の腕の画面を見ている。
『コウ枠から来ました』
『凸から逃げたw』
『黒手袋だけでも出せ』
『黒手袋なら逃げない』
コウ枠、つまり三上さんの配信から流れてきた人で、僕の配信の同時接続数は2,500くらいから3,000まで増えていた。
逃げた、と書かれても、壁の陰にしゃがんでいるのは本当だから言い返せない。握った撒き菱のとがった先が、手のひらに食いこむ。
(ほう。客人が、私の出を待っている)
壁に斜めにもたれたピエロが、僕の腕の画面をのぞきこんで顔をほころばせた。
(待たせるほど、客席は温まる。いい袖を選んだな、少年)
舞台の袖は、役者が出番を待つ脇の暗がりだ。けれど僕はただ隠れているだけだ。
「え、なに。『ヘラルドの枠、床しか映ってない』? ウケる、床配信じゃん」
『床配信w』
『黒手袋さん出番です』
「逃げるとこまで、うちのクラスの弱虫と一緒じゃん」
「いんのよ、ずっと下向いてるやつ。こないだなんか、俺の企画に、やめてほしい、とか言いに来てさ」
「で、また下向いて帰ってくの。ガチで」
『それ配信で言う?』
『弱虫くん気の毒』
弱虫、という言葉が2回聞こえた。1回は生の声で、もう1回はイヤホンの中で。
三上さんが笑う弱虫は僕で、同じ通路の壁の陰にいる。
教室で笑われたときと同じ形に、僕の背中は丸まっていく。
(少年、顎。肩も――)
猫背を叱る、いつもの声だ。最後まで聞かずに、僕は膝を抱えて、もっと小さくなった。
顔を隠すなら、今日だけは猫背のほうが正しい。
(……まあいい。今日は、あの新品を見るほうが面白い)
「うわ、同接1,200。お前ら、今日えぐいじゃん」
これは三上さんの配信の数字だ。
(聞いたか、少年。呼び込みが下手だ)
(呼び込みは、客人の目を見て1人ずつ引くものさ。あれは数に向かって喋っている)
呼び込みは客寄せの声だ。三上さんは「お前ら」とまとめて呼ぶだけで、誰の顔も見ていない。
(灯りの下に立つのだけは、上手い。いちばん光る所を、一目で選んだ)
(だが、あの胸当て。光を返すばかりで、擦れた跡ひとつない。誰かの前に立って爪を受けたことが、一度もない胸当てさ)
(新品だな。持ち主ごと)
三上さんをかばう言葉は、僕からひとつも出てこなかった。
「で、見てんだろ、お前」
三上さんは腕の画面から顔を上げ、自分のドローンを見た。
「本物の二重人格なら、危なくなったら出てくるっしょ。出てこなかったら、やらせ確定」
教室で聞いたのと、一字も違わない。
「で、出てこなくて新人くんに何かあったら、それ、お前のせいだから。な、お前ら」
『新人くん大丈夫?』
『出てこないヘラルドが悪い』
『それはそう』
『黒手袋、呼ばれてるぞ』
新人の子を連れてきたのは三上さんのほうなのに、僕のせいにされている。
言い返す声を出せば、光の中まで届いてしまう。
「ま、ネタだけど」
まだ治りきらない左の前腕がうずいた。
コボルトの爪は、ネタに付き合ってくれるほど遅くない。
「新人くん、よろしく。横穴のコボルト、釣ってきて」
「はい! 俺、コウさんの配信、毎回見てるんで。ぜったい釣ってきます」
軽い足音が光の中から出て、脇道の前を横切っていく。
予告の写真で笑っていた、冒険者証を取ったばかりの子だ。大きすぎるヘルメットが目までずり落ちていた。
僕の前を過ぎるあいだも、その子は首をねじって三上さんのほうを振り返っていた。
足もとより、三上さんのほうが大事らしい。
(借り物の衣装だな。頭に寸法が合っていない)
(客人を舞台へ押し上げて、自分は灯りの下で数を数える。……悪い客だ)
ピエロの声から、さっきまでの機嫌が消えていた。
止めに出たい足を壁に押しつける。今出れば、光の中の三上さんに顔を見られてしまう。
あの子が群れを連れて戻るなら、またこの脇道の前を通るはずだ。
胸当てが新品でも、そのときは三上さんだって、あの子の前に立つだろう。
横穴の奥で、石の跳ねる音がした。
返ってきたのは爪が床をかく音で、重なりかたからして1匹や2匹じゃない。
ヘルメットを押さえたあの子が駆け戻ってきて、また僕の前を過ぎる。すぐ後ろを、犬の頭をしたコボルトが4匹、低く駆け抜けていく。
光へ逃げるあの子と脇道の僕のあいだに、群れの背中が入った。
光の中で、三上さんが剣を抜いた。
青いさやから剣が出るところを見るのは、初めてだ。
それきり、三上さんは一歩も動かない。
「は? 4匹とか聞いてねーし」
「コウさん!」
あの子が三上さんの腕にすがりついた。
「ちょ、離せって。無理、マジ無理」
三上さんが肘で、あの子の胸を突いた。
あの子は手で空をつかんだ。
三上さんは身を翻して、出口のほうへ駆けだした。ドローンがその背中を追っていく。
あの子が、光の中で転んだ。
大きすぎるヘルメットが床で鳴る。
その音が消える前に、僕はもう脇道の外を走っていた。
三上さんは一度も振り返らない。
『押した』
『コウ逃げた』
『新人くん!』
『誰のせいだって?』
『コウ枠、背中しか映ってない』
『え、ヘラルド出た』
『黒手袋じゃないの!?』
『逃げてなかったの?』
『猫背のまま走ってる』
『やっと画面見える』
腕の画面の端で、同時接続数が3,600を超えていた。
群れの背中を追って、光のほうへ走る。右手には、いつのまにか自分で抜いた短剣があった。
群れはもう光の中なのに、僕はまだその手前だ。コボルトのほうがずっと速い。
「こっち……こっちだよ!」
声が裏返った。モンスターの目を引く《挑発》を念じると、後ろの3匹がくるりと僕へ顔を向けた。
短剣を握ったまま僕が震えだしたのは、そのあとだ。
先頭の1匹だけは振り向かず、もうあの子の上にいる。
あの子は転んだまま、顔をかばって右腕を上げた。
まだ、数歩ある。
牙が、上げた腕に食いついた。
頭の奥で、ピエロの声が何か言いはじめた。
自分の足音にかき消されて、言葉として聞き取れない。




