第10話 新品の鎧
走ってきた勢いのまま、新人の子の腕に食いついた犬へ肩からぶつかった。
牙が外れて、犬と一緒に僕も床を転がる。
跳ね起きると、新人の子は右の袖をひじから先まで赤くぬらしていた。
間に合わなかった。
はね飛ばした犬はもう起き上がっていて、後ろの3匹もとっくに僕を見ている。
4匹の頭が僕とあの子のあいだで揺れている。
「こ、こっち……こっち、見て」
最後の音がまた裏返るのを聞きながら、敵を自分へ向けるスキル、《挑発》を念じる。
4匹の顔がそろって僕のほうを向き、そろったまま左右へ開いていく。
この明るい所は広くて、4匹は横からでも後ろからでも来られる。
前に勝てたのは、敵がまっすぐ来るしかない狭い入り口で、踏めば足に刺さるとげの粒、撒き菱を撒けたからだ。
「は、走って。逃げて、お願い」
振り向かずに、背中のあの子へ言った。目を離せば、その瞬間に犬が来る。
「た、立て……ないです。足、が」
かかとが床を擦る音だけが、後ろで続いている。
抱えて走っても、ゴブリンより速いこの犬にはすぐ追いつかれる。
左手には撒き菱がひとつかみある。
それを、あの子の前の床へ弧を描いてばらまいた。床に散った粒が光って、あの子を囲む半円になる。
「う、動かないで。そこに、いて」
《挑発》を切らさないまま、あの子から離れるほうへ後ろ向きに下がる。
4匹の顔もついてくる。
向かう先は、さっきまでしゃがんでいた暗い脇道の入り口だ。
狭い所なら、4匹いっぺんには入ってこられない。
あの子のそばにいられなかった隠れ場所に、今はすがるしかない。
脇道の前で4匹が追いついた。
爪が来る。短剣の腹でそらす。そらした向こうから、もう次の爪が来ている。
倒せない。
喉に届く隙なんて一度もない。撒き菱は全部、あの子の前に撒いてきた。
爪が左の二の腕を裂いた。
熱い、と思う間に、右の太ももも同じように熱くなる。
目の端で、脇道の壁にもたれていたピエロが一歩出かけて止まった。
右手の手袋に宿るピエロの声は、僕の頭の奥にだけ届く。その声がずっと何か言っているのに、自分の息に紛れて聞き取れない。
『一幕はよ』
『黒手袋出して』
『音ないのきつい』
『ヘラルドがんばれ』
『コウ最低』
腕の画面の字は目の端を流れていくだけで、『ヘラルドがんばれ』の1行も、読む前に上へ消えた。
また爪が来る。よけたら、背中が脇道の壁に当たった。
もう下がれない。
『コウ角で止まってる』
『あっちで同接見てる』
『新人噛まれてんのに』
あの子が噛まれていたあいだも、ずっと、か。
『コウ戻ってきた』
『歩いてるぞ』
『今さら何しに』
明るい所に、青い胸当ての三上さんが戻ってきた。
あの子から数歩離れた所で止まって、ドローンを構え直す。剣はさやに戻ったままだ。
あの子の前には立たない。
腕の画面を見ながら、三上さんが笑った。
「ほら出た、ヘラルド。な、お前ら、出てくるって言ったっしょ」
「全部、企画どおり」
僕は前髪の下に顔を伏せた。
あの子の袖はまだ赤いままなのに。
うなり声がひとつ減った。
いちばん後ろの1匹が僕から顔をそらしている。4匹にかけた《挑発》の効き目が、端から切れかけていた。
その1匹が明るい所へ駆け戻っていく。
撒き菱の半円の手前で前脚が跳ねても、犬は止まらない。半円の縁をなぞって、横から入ろうとしている。
あの子が悲鳴を上げた。
あの子から数歩先にいる三上さんは、あの子を見ずに1歩下がった。
気づいたときには、僕は脇道から飛び出していた。
「こっち……こっち!」
《挑発》。半円へ入りかけた頭がこっちへ振り向く。
背中に重いものがぶつかった。脇腹に来た爪は、腰のポーチが弾いた。
膝が、床についた。
両膝だった。
短剣を握った右腕が上がらない。
上がらない。
その一瞬だけ、頭の奥の音が言葉になった。
(少年。代われ。代われと言っている)
「止めだけ。……いいよ」
止めの一振りの分だけ、ピエロに体を貸す。
ピエロが、僕の左手で手袋の折り返しを引き直した。
膝をついたまま背筋をひと息に伸ばし、前髪を後ろへなでつける。
手袋の指先で腕の画面に触れると、切ってあった音が戻った。
「声の届かない舞台など、あるものか」
『音きた』
『待ってた』
『黒手袋ー!』
『え、顔』
『背筋どうした』
同時接続数が5,000を超えた。
3匹が、膝をついたままの僕の体へ跳びかかった。
ピエロはその腹の下へ転がりこむ。床と天井が二度入れ替わった。
起き上がった場所は、撒き菱の半円の内側、あの子の目の前だった。
ピエロは背中から外した鎌を逆さに持ち、柄の端の石突きで床を突き、柄へ斜めにもたれた。
僕の膝はついさっきまで床についていたのに。
ピエロは僕の目でドローンを見上げる。
すぐ後ろで、あの子のしゃくり上げる息が止まった。
数歩先に三上さんがいる。
「うわ、出たじゃん、もう1人。な、言ったとおりっしょ」
三上さんのドローンがこっちへ向いた。
数歩しかない。同じクラスの三上さんなら、顔を見れば僕だと分かる。
三上さんは、腕の画面から目を上げていなかった。
ピエロがその三上さんへ向き直り、傷ひとつない青い胸当てに目を留める。
「おや、新品。やっと席に着いたか」
(きみ。人間は、駄目だよ)
「刃は、向けないさ」
刃は、か。
半円の向こうでは、4匹が縁を行き来して、撒き菱を踏まずに越えられる所を探している。
「客人方、長らく待たせた。お相手は、そこの4匹」
「演目は、『新品の鎧』」
口上を終えると同時に、ピエロの《挑発》が体の外へ広がった。
4匹の顔が一度にこっちへそろう。
『新品の鎧?』
『犬、鎧着てないぞ』
『言ったとおりは無理』
『題どういう意味』
4匹が半円を越えてきた。
1匹が跳ぶ。ピエロは石突きでその横腹をすくって、撒き菱の上へ落とした。
横から来た犬の鼻先で柄をくるりと回すと、犬の頭がつられて向きを変えた。
ピエロはあの子の前から一歩も下がらない。
目の端で、三上さんが2歩下がった。
撒き菱に足を取られた4匹が、半円の縁で一度にそろった。
ピエロが石突きで床を突き、柄へもたれる。
左脚を沈めて、腰をひねる。上がらなかった右腕は、柄に添えてあるだけだ。
短く回した刃が、一度だけ通った。
4匹が光の粒にほどけた。
撒き菱のあいだに魔石が4つ、小さく鳴って落ちる。
『は?』
『4匹一振り』
『今なにした』
『一歩も下がってない』
ピエロは手の中で鎌をくるりと逆さに回した。
石突きの先が、数歩先に立つ三上さんの青い胸当てを指して止まる。触れはしない。
柄を握る僕の腕は袖ごと裂けて赤く汚れているのに、指された青い胸当ては、光る石の明かりをきれいに返していた。
「ちょ、なに。それ、こっち向けんなって」
「いい鎧だ、新品。傷ひとつない」
「後学のために聞こう。どう手入れすれば、そこまで新品のままでいられる」
「は? 手入れとか、なんもしてねーし。新品なのは、映えるからっしょ」
「それは何より。その鎧は、孫の代まで新品のままだ」
ピエロが、僕の目を石突きの先から三上さんの首へ滑らせて止めた。
刃は向けないと、ピエロは確かに答えている。それでも背中の芯が冷えた。
「……いや、なに。ネタじゃん、こういうのも全部」
「笑うとこだって、ここ。な、お前ら」
三上さんがひとりで笑った。
腕の画面で、コメントの流れが途切れる。
後ろのあの子は赤い袖を押さえたまま、三上さんを見上げている。
誰も、笑わなかった。
三上さんは、腕の画面から自分の青い胸当てへ目を落とした。
傷ひとつない青を見たまま、黙りこむ。
それから背を向けて、出口のほうへ歩いていった。その背中を、三上さんのドローンが追っていく。
最後まで、あの子のほうは見なかった。
「なるほど。背を向けて去る。それが、手入れか」
「『新品の鎧』、これにて終いだ」
『背中で答えたw』
『前に立たなきゃ新品』
『孫の代まで新品w』
『鎧ってコウのか』
『題そういうことか』
ピエロが腕の画面へ目を落とす。同時接続数は6,800。
三上さんの背中が曲がり角に消えてから、ピエロは鎌を宙へ放った。
宙で回る鎌の下で、僕の背がすとんと丸まって、前髪が目の上に戻ってくる。
落ちてくる柄を左手だけでつかんだ。
片手で受け止めたのは初めてだ。そのあとで、腰と左脚が追いつくように痛みだした。
『片手!』
『受け止めた』
「あ、あの……みんな、ごめん。さっきの、言い方、きつくて」
「それと、配信、騒がせて。ごめんなさい。今日は、ここまで、です」
頭を下げると、裂けた二の腕が引きつった。
鎌を振ったのは僕じゃないのに、頭を下げるのは僕だ。
『謝るのそっちじゃない』
『コウが謝れ』
腕の画面に触れて、配信を切った。
あの子は撒き菱の半円の内側に座りこんだままだった。
肩を貸して、脇道の奥の暗がりへ連れて入る。左脚が一歩ごとに文句を言った。
壁ぎわに座らせて、赤い袖をまくった。
噛み傷が深い。
ポーチの傷薬を塗ると、細い肩がびくりと跳ねた。
「ご、ごめん。しみる、よね」
包帯を巻く。自分の腕でさんざん練習した巻き方だ。
巻いたそばから、白いところが赤くなっていく。
巻き足しても、その上がすぐに赤くなる。
自分の腕で練習したときの傷は、こんなに深くなかった。
大きすぎるヘルメットの下から、あの子がこっちを見上げてくる。
「あの……ありがとう、ございました」
「コウさん、ヘラルドは逃げたって、配信で笑ってて。俺も、そうなんだって思ってました」
返事の代わりに、包帯をもうひと巻きする。
「でも、いちばん先に来てくれたの、ヘラルドさんでした」
「あの格好いいほうの人じゃ、なかったです。こっち見てって、声が裏返ってたほうでした」
包帯の端を結ぼうとしても、指がうまく動かない。
やっとできた結び目の上まで、赤がしみてくる。
顔は、上げられなかった。




