第7話 幕の前
(今日の私は、すぐには出ない)
水曜の放課後、5層。配信を開けたとたん、頭の奥でピエロがそう言った。昨日は部屋に置いてきた鎌が、今日は背中で留め具を鳴らしている。
「え、えっと、今日は5層です。短剣、刃こぼれなし。ドローンの電池も……うん、よし」
腕の画面の隅で、チャンネルの登録者数が1.75万になっていた。昨日、一度も開かなかった間に、5千以上増えている。
開かないほうが増えるなら、ずっと開かずにいたい。
『黒手袋まだ?』
『点検はいいから』
『今日も一幕ある?』
『黒手袋はよ』
一幕は、ピエロの出番のことだ。
「あ、それは……えっと、もうちょっと、先で。うん、先で」
(いい返事だ、少年。客席は、温まってからがいい)
(主は、いちばん大事な所で出る。そのほうが客人は沸く。先触れとは、そのための役さ)
振り向くと、ピエロは通路の壁にもたれて、満足そうに顎を上げていた。
客人は視聴者のこと。先触れは僕の配信者名ヘラルドの訳で、主より先に出る役だ。
よく言う。舞台は私が組む、と昨日いちばん弾んでいたのは誰だ。
通路の先で、角が跳ねた。
額に角のあるうさぎ、ホーンラビットだ。1匹が正面に降りてくる。
『うさぎ来た』
『黒手袋の出番?』
『一幕くる?』
(あれは少年が倒せ。ここで私が出れば、次に出られるのは明日になる)
ピエロの出番は、一度使うと戻るまで1日かかる。
ホーンラビットが壁から壁へ跳び回りだした。跳ぶたびに、角の通る高さが変わる。
追いかけたら、僕の脚では振り回されるだけだ。
協会の資料に書いてあったし、上層を回った半年で、何度も見てきた。
跳ぶうさぎは降りたところで一拍止まる。
跳んでくる先から半歩ずつ外れて、降りるのを待った。
待つのは追うより怖い。
降りたうさぎが止まった一拍に、短剣を突き出す。
ホーンラビットが光の粒になってほどけ、魔石が床に転がった。
1匹。自分の短剣で、ちゃんと倒せた。
最後の跳びの角に、右の脇腹を打たれていたらしい。今ごろになって、そこが痛む。
服の下だから、あざはカメラに映らない。
『地味w』
『つなぎ回か』
『うさぎ1匹で尺稼ぎ』
『つなぎの間にブラコン配信見てくる』
『で、黒手袋は?』
(今日は、刃先が震えなかったな)
(……もっとも、客人は幕の前を見ないものさ)
握ったままの短剣の刃先を見下ろした。幕の前は、ピエロが出るまでのことだ。
返事はしなかった。口を開けば、みんなに聞こえる。
通路の先は広い部屋だった。奥に、僕の背より大きな岩が1つ居座っている。
陰に人が隠れるには、ちょうどいい大きさだ。
手前の隅で、もう1匹のホーンラビットが跳んでは降りていた。降りるたびに、止まっている間が長くなっていく。
(あのうさぎだ、少年。部屋の真ん中で演じる)
すぐには歩かなかった。
壁際から岩の手前まで、目でなぞる。天井の暗がりも、もう一度見上げた。
岩の向こうまでは回らない。真ん中を越えれば、うさぎがこっちを向く。
人はいない。人のいない所なら、と昨日言ったのは僕だ。
(では、客人に触れを出せ。これより一幕、と告げろ)
「え、えっと……た、たぶん、このあと」
告げろと言われた口上は、僕の口を通ると、そこまで縮んだ。
『お?』
『このあと!?』
『予告助かる』
『先触れが触れ出したw』
部屋の真ん中まで、自分の足で歩いた。
《挑発》、と念じる。隅のうさぎがくるりとこっちを向いた。
うさぎが角を低くして身を縮めた。
部屋から、音が消える。
頭の奥に、ピエロの声が落ちてきた。急かさない、低い声だった。
(代われ)
「モンスターだけ。いいよ」
体を貸せ、の合図だ。斬るのはモンスターだけ、が約束だ。
ピエロが、僕の左手で手袋の折り返しを引き直した。静かな部屋に、背骨の伸びる音が小さく鳴る。
前髪が後ろへなでつけられ、左の目尻からこめかみへ、冷たい線が一本伸びた。
うさぎは身を縮めたまま、跳ばずに固まった。
中身が代わったことに、うさぎのほうが先に気づいたらしい。
ピエロは僕の手で背中の留め具を外して鎌を抜き、部屋の真ん中で石突きを床に突いた。
柄頭に両手を重ねて斜めにもたれ、僕の目でドローンを見上げる。
『一幕来た』
『その立ち方は反則』
「待たせたな、客人方。余興を一つ」
「相手は、隅のそこの角つき。演目は、『うさぎとかめ』」
「駆け比べの決勝点は、奥のあの岩だ」
うさぎが途中で休み、亀に負ける昔話だ。
最後の一言に重ねて、ピエロが僕の《挑発》を使った。うさぎの耳がぴんと立つ。
同時接続数は2,600まで上がっていた。
うさぎが跳んで、角がまっすぐ僕の喉へ来た。
よけて、と言う暇もない。
僕の体は鎌を杖のようについて、岩へ一歩を出した。
角は首の横を紙一重で抜けていった。
僕なら、とっくに床を転がっている。
次の跳びも、その次も、角は同じだけ外れる。歩く速さは一度も変わらない。
急いで、と頼みたくなる。
うさぎは跳ぶたびに体を越えて、先へ降りた。降りては止まり、止まる間がまた長くなる。
『亀どこ?』
『うさぎしかいない』
石突きが床を突く音だけが、同じ間で続いた。
岩の向こうで、布のこすれる音。
人が起き上がった。
大人の男の人だ。顔にのせていたタオルが膝へずり落ちる。
石突きの音で、目を覚ましたらしい。座ったまま岩の横から身を乗り出して、寝ぼけた目をこっちへ向けた。
『人いる』
『え、人?』
『寝てた?』
『乱入w』
跳び疲れたうさぎが、その人の膝の前に降りた。今度は跳ばずに、腹を上下させている。
僕の体は歩くのをやめなかった。
鎌をついて、同じ速さで、その人のほうへ。岩は、その人のすぐ横だ。
止まって。
足は止まらなかった。柄を握る指一本、僕のものにならない。
いつもなら震えだす膝も、今は僕の膝じゃない。
石突きの音が同じ間で近づいていく。
さっき、急いでと頼みたくなった音だ。
その人は寝ぼけた目を、僕の顔から鎌の刃へ上げて、そこで止めた。
僕に残っているのは声だけだ。それも、体の中でしか鳴らない。
止まってと頼んで、止まる人じゃない。
(……その人も、映ってる。コメントも、見てる)
(きみの、客人だよ)
ピエロは僕の目で腕の画面を見下ろし、流れるコメントをなぞった。
「知っているさ」
映っているのは知っている、と。歩みは、変わらない。
石突きが岩を突いた。
体が斜めに止まる。その人の膝のすぐ前で、うさぎがまだ休んでいる。
鎌が、一度だけ振り抜かれた。
うさぎが光の粒になってほどけた。魔石がひとつ、その人の靴の先に転がる。
その人は座ったまま、石突きにもたれた僕の体を見上げて固まっていた。
体の中で、僕だけが息を吐いた。
『は?』
『亀、黒手袋じゃん』
『うさぎが先に休んだw』
『急がない方が勝った』
『題どおりすぎる』
『黒手袋になら斬られたい』
『わかる』
ピエロは僕の目をドローンから外し、足元のその人へ向けた。
「客人は、斬らない」
ピエロは僕の口の端を少しも上げなかった。
「だが、カメラの外の者は、客人ではない」
『キャラ守るなあw』
『カメラの外ってどこw』
『目の前の人に言うなw』
『設定が細かい』
その人の喉から、乾いた笑いがひとつ漏れた。
この人はさっきまで、岩の向こうで眠っていた。カメラの、外で。起きなければ、守る相手ではなかった。
「では、客人方。一幕は、ここで終いだ」
ピエロは僕の手で鎌を宙へ放り上げた。回る刃の下で背中が丸まり、前髪が目の上に落ちてくる。
腰と左脚が引きつったけれど、痛いのは、あとでいい。
落ちてきた柄を両手で受け止めて、今日は、よろけなかった。
「あ、あの……す、すみません。お、驚かせて、しまって」
その人は答えなかった。
荷物をつかんで、一度も振り返らずに部屋を出ていく。岩の陰に、タオルが落ちたままだった。
下げた頭をしばらく上げられなかった。
「……みんなも、ごめん。物騒なこと、言って」
『謝るまでがセット』
『てか登録者増えてない?』
腕の画面の隅で、数字のほうが僕より息が荒い。
『増えるの速すぎ』
『1.8万超えた!』
(……あの新品の数を、抜いたな)
新品は三上さんのことだ。1.8万は、月曜の教室で、三上さんが自分の登録者数だと画面を突き出した数だ。
(いつも画面のいちばん上にいる、あの金のよろい。あれの客人の数には、まだ遠いが)
金のよろいの剣士のことだ。三上さんの数を抜いたと聞いても、僕はうまく喜べなかった。
「えっと、見てくれて、ありがとう。次は、土曜に」
配信を切った。
ドローンの羽音が止むと、部屋は急に広くなった。
(数を抜かれた新品は、数を取り返しに来るものさ)
ピエロは岩にもたれて、上機嫌に杖の柄頭の銀を指で弾いた。
「三上さんは、ヘラルドが誰かも知らないよ。……わざわざ、人の配信に来たりしないって」
(知らないから、来るのさ)
(少年の所ではない。ヘラルドの所へな)




